1937年4月『沖縄教育』弟248号に島袋源一郎が「『沖縄教育』変遷と思ひ出」を記している。□明治42年末に至り吾等の先輩 親泊朝擢氏が教育会専任幹事に抜擢され、筆まめな同氏の努力によって、山口瑞雨先生揮毫の芭蕉図案の表紙で前例のない程美しい内容も比較的豊富な『沖縄教育』が、東京三秀舎で印刷され毎月発行となって、教育界に清新の気を注いで呉れることになった。(略)大正12年10月現琉球新報主筆たる又吉康和氏を抜擢して敏腕を振って貰ふことにした。此に於いて『沖縄教育』は一躍其のレベルを高め中央学界諸名士の論説を掲載する等大いに充実し、未だ嘗て見ない権威ある雑誌となるに至った。大正15年 又吉康和氏の後任として國吉眞哲氏が編集幹事となり、引き続き豊富な雑誌を刊行し昭和3年4月第168号迄続いたが、(略)昭和7年11月、島袋源一郎代わって就任し予定の職員録を出し、翌昭和8年1月より経費の捻出を計って毎月刊行に引直した結果、投稿者並びに読者に多少の関心を繋ぐことを得且従来鹿児島市に於いて印刷していたのを那覇市内に於いて印刷せしむることとし、其の刺激によって印刷も漸次向上するに至ったのは事実である。

1937年3月 『沖縄教育』島袋源一郎「姓の統一に関する私見」
□(略)吾等の先輩、漢那、伊波、東恩納、仲宗根、比嘉、其他の方々の姓も最初は随分風変りな稱へ方だと思われたに違いないが、今日では学界や全国的に漸次知られて別に変な姓だと思う人もあるまい。(略)之について考えるべきことは教職員又は父兄の内祖先伝来の姓の呼稱を改変することを好まぬ方々のあることで、之は勿論当の御本人の意思を尊重することが常識であり、禮であるので強いて第三者が勝手に読み換える譯にはゆくまいと思う。

□部落とは、『広辞苑』に「比較的少数の家を構成要素とする地縁団体。共同体としてまとまりをもった民家の一群」とある。ヤマトでは部落で連想するのが「被差別部落」。沖縄の地域史でも言葉では部落と言っても、文字にするときは「村落」とするのが多い。

1939年5月 『沖縄教育』第273號 島袋源一郎「郷土雑記ー部落の発達②」
□五、部落移転
前に述べたように、昔の部落は大抵御嶽の付近即ち高原地や山の中腹なる傾斜地に発生し、神人共存共在の意識を以て防禦地帯に住んでいたのであるが、漸次狩猟生活から農業生活に移り、戦争時代から平和時代に入ると共に交通の不便や農業上の便利といった諸条件のために、御嶽即ち神山の付近から下方の平地に移転したのである。

之を実際に就いて例を挙げて見ると名護町の各部落の如きは全部山地又は中腹の古生層より現在の砂地に移転したので今でも字名護の旧部落は名護城の如き、昔ながらに神職たる祝女、根神、ホソメ神、掟神の4軒だけは神山の中腹に残っている。今帰仁城の付近に阿応理恵火神御殿やノロ火神殿内、根神火神殿内などの散在しているのは部落が下方の砂地に移転した後も猶ほ神職だけは神に仕えて昔の儘に御嶽の麓なる城下に残っていたことを物語るものである。

中頭郡西原村、中城村の東海岸各部落の如きも其の昔は殆ど皆もっと高い地点から現地位に移転したものであり、或いは西原間切内間村から嘉手苅村が派生したように分裂して新部落を形成したものもあり、小那覇の如く新しく創立された部落もある。中城村伊舎堂の如き昔は中城城の北字大城の前方伊舎堂原にあったので今でも旧家は旧正月になると初水を汲みにあの嶮崚な坂道を登って旧部落の古井に行くのである。

余り煩雑になるので一々各村の実例を列挙することを差し控えることにするが、大抵の部落移転の年代は大凡3百年前から2百年前と見做してよかろうと思う。
□六、部落の祭祀
□七、殿(方言トン)

1939年6月 『沖縄教育』第274號 島袋源一郎「郷土雑記ー部落の発達③」
□八、部落と城郭
私は数年来公務の余暇、郷土史料発掘の目的を以て沖縄本島の城址を踏査して陶瓷片を採集すると共に、城下の部落調査を行い、更に進んで出来ることなら本島及び付近の島々の部落を全体的に調べて其の発生、門中(氏族)の組織移転と発達、神事及び年中行事の状況生活状態等諸般の事項に就いて調査を遂げ之を文献に遺したいという願望を持っている。現在蒐集し得た城に関する資料だけでも何れ適当の機会に纏めて発表致したいと思うが目下判明している城址でも島尻郡凡50、中頭郡凡24,5、国頭郡凡10、首里那覇3、付近離島凡10、合計90数か所に達している。(略)

□九、移転の常則

□十、部落の発達

□十一、部落発達と家號

□十二、部落と門中組織

1941年1月『沖縄教育』第293号 島袋源一郎〇「列聖珠藻」と沖縄方言/おことはりー現下本県の実際問題として標準語普及の必要なることは今更申す迄もなく、筆者は之が励行に関し長年月努力を続けている一人でありまして此の点に於いては敢えて人後に落ちない自信を持っています。しかし之がために沖縄方言を蔑視すべき理由は毛頭なく、又しているのでもなく、況や方言研究の学術的価値を没却すべき筋合いのものでないことは何人も承知のことであります。否標準語励行の急速なる丈け速に方言を調査蒐集して記録に残すべき必要を痛感する次第です。
 本質的にいうと、寧ろ標準語に習熟せざるの故を以て躊躇し萎縮しているよりも、彼の四百年前方言混じりの金石文を建てて誇りにしていた時代の人々のように剛健質朴で、多少方言は交っても自己の思想感情を臆せずに表現する度胸が望ましいと考えています。読者請う御諒恕あらんことを。


島袋源一郎顕彰碑の前で、新城栄徳(渚さん撮影)

□石川正通「ふりむん随筆」
国名と人名と同じもので付ける方の勝手だ。外からとやかく言う筋合いのものではない。

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1942年1月 島袋源一郎『琉球百話』沖縄書籍株式会社/1965年 島袋源一郎『琉球百話』琉球史料研究会

1944年9月 『南島』第3輯 編集者・南島発行所(台北市表町1丁目11番地)発行所・台湾出版文化株式会社
目次カット・川平朝申

□編集顧問・浅井恵倫、伊波普猷、移川子之蔵、上原景爾、川平朝令、志喜屋孝信、玉城尚秀、江崎梯三、小葉田淳、大島廣、金関丈夫、喜舎場永珣、島袋源一郎、島袋全発、豊川博雅、南風原朝保、東恩納寛惇、比嘉盛章、柳田国男、比嘉春潮、萬造寺龍、山中樵
□編集後記ー本誌の顧問として、創刊の時以来、種々御庇護を賜わっていた島袋源一郎氏が亡くなられた。先生は、さきに首里市郷土博物館長を退かれてから、読書三昧の生活を送られて居る由に承っていたが、この春卒爾として易簀せられた事は、寔に痛惜極まる事である。本誌にも琉球村落に関する御研究を寄せられる事になっていたのであるが、その望みも今は空しくなってしまった。せめて御遺稿の一端でも掲載したいものと考えている。末筆ながら謹んで、先生の御冥福を祈りたいと思う。

1940年11月 『沖縄教育』291号 島袋源一郎「部落調査より見たる首里都城の創建」
□(略)最近私は公務の余暇又は機会あるごとに県下の部落に就き其の創設及び門中組織等を調査し十分なる自信を得たので此の原理と方法を以てすれば複雑極まる大首里でも大那覇でも其の創設の年代が判明するとの信念で先ず首里を調査することにした。

1952年11月11日『琉球新報』仲原善忠「『沖縄一千年史』に就いてー私もこの本は史料を隅々まだ精査網羅し、いわば沖縄歴史百科辞典ともいうべきものであるというた。故島袋源一郎さんや、島袋全発さんも似かよった意見のようである。」

1959年5月『日本民俗学体系』12巻
比嘉春潮□島袋源一郎ー明治18年11月、沖縄県国頭郡今帰仁村に生まれた。明治40年、沖縄師範学校を卒業、国頭郡の小学校で教鞭をとった。大正三年、郡教育会の依嘱を受けて『沖縄県国頭郡志』の著述にかかった。これが同氏の郷里研究に手を染める機縁となった。同書は大正8年にその公刊を見たが、今日類書中すぐれた内容で珍重されている。大正9県社会教育主事として那覇に来任し、その郡視学、県視学を勤めたが、昭和6年県教育会の主事となった。

 郷土史の研究を深め、昭和6年には『沖縄善行美談』と『沖縄案内』、翌7年には『伝説補遺沖縄歴史』を著わした。『沖縄歴史』は伝説補遺と表題したように、あるいは「おもろ」や民間に伝わる古謡を引用し、あるいは口碑伝説から家々に伝わる古記録をとって史実を補ったもので、特異の歴史である。

 かれは昭和3年、名護小学校在任中、名護神社の創建に際し、名護村(名護町)(現在名護市)の沿革を調査して「名護城史考」を『南島研究』に発表した。これがかれ独特の部落調査のはじめとなった。

 かれの部落調査は、『琉球国由来記』『琉球国旧記』『遺老説伝』などにより、古城址を中心にこれと連関する部落につき、お嶽、殿、遺跡などを実地と照合し、その部落における門中組織の変遷、のろ根神根人の神事、部落の年中行事から、部落の発生移転と発展する伝説などを調べ、これを記録することで、かれはこれによって郷土史の隠れた史実が発見され、国王や按司の興亡の跡も判明するとの確信を得て、その没する昭和17年までに、調査の大半を終り記録の整理中であった。

 前記「名護城史考」のほかに昭和14年には「部落調査より見たる首里王都の創建」と「部落の発達」を『沖縄教育』に発表している。この未完成の部落調査の記録は「沖縄村落の研究」(?)と題し、遺稿として出版のため数年前から鳥越憲三郎氏の手に保管されていると聞いている。公刊されたら学界に寄与するもの期待される。

 昭和12年、沖縄で姓と地名の呼称統一の運動が起った。金城をかなぐすくからきんじょうに改めるようなことであった。その発案者・主唱者であり、たちまち世論の支持をかち得た。

 今一つ、県教育会主事在職中、教育会の事業として沖縄博物館の建設を提議し、首里城に開館されると、東奔西走、紅型、陶器、三味線その他の楽器、書画、武具、農具その他の民芸品、あらゆる沖縄の工芸品を収集して、博物館の基礎を築いた。

 かれには、さきにあげたほかに数種の著述があるが、最後に『琉球百話』(昭和16年)がある。かれはその序文の中に「本書は郷土の歴史・神話伝説・言語・風俗習慣・童謡俚諺・呪禁・歌舞音曲・気候風土・人物伝記・美術工芸・動植物・地質・行政政治・産業教育・史蹟名勝その他、あらゆる方面から興味深い材料を取り上げた」と書いてあって、沖縄について知りたいことは何でもわかると自任した書である。かれは晩年、円斎居士と呼ばれた。沖縄のエンサイクロベディアということである。昭和17年3月27日没した。享57。