1924年10月 坂口総一郎『沖縄植物総目録』石塚書店


画・伊東忠太



1925年2月 坂口総一郎『沖縄写真帖』第一輯

1925年11月ー坂口総一郎『沖縄写真帖』第弐輯/池野成一郎□序ー私は大正14年1月沖縄本島を旅行した。しかも此写真帖の著者坂口君の御親切な案内を受けて、その旅は実に愉快であった。その旅の事を考えると今でもその時の愉快さがありありと頭の中に浮み出でて胸のあたりがすつとする。私は旅が大好きだ。明治21年生まれて初めての旅をして以来私は毎年多少の旅行をしない事はない。外国の旅行は別として日本内地は勿論、台湾、朝鮮、樺太その外小笠原島や対馬、隠岐の様な離れ島でも私の足はその土を踏んでいる。その数百回に亘る旅行はいつでも多少面白かつたに相違ないが併し大正14年1月の沖縄旅行は私が尤も面白いと思つた旅行の中の一つである。沖縄にはフルギがある、ヘゴがある、アダンがある、ガジュマルがある、植物の平凡な東京に住む植物学者の私に取つて沖縄が面白いのは当然だが併し沖縄の面白いのはただ植物ばかりでは無い。動物も面白い、風俗、建物、言語、風景皆内地と違つているから面白い隋つて植物学者も行くべし、動物学者も行くべし、人類学者も、建築学者も、博言学者も誰れも彼れも、苟くも珍奇な事物を見て智識を得ようと思ふ人は皆行くべしだ。併し如何に沖縄へ旅行したくとも暇のない人もあり、又旅費が思ふ様にならない人もある。それ等の人は此写真帖を見て沖縄の動植物や、建物、風俗抔の一班を知るがよい。尚ほ沖縄も内地との交通が繁くなるにつれ、風俗等も段々内地のものに近くなり、古い建築物も追々朽ちはて、おまけにヘゴやヒルギの様な珍しい植物がやたらに切り倒される今日だから今の内に此写真帖が出版されるのは誠に時を得たものだと思ふ。此点に於て坂口君の御骨折を感謝すると同時に此写真帖が第三輯以下次々と出版される事を祈る。


1960年1月17日『琉球新報』坂口総一郎「順応する生活態度ー40年前クリ舟で体験した人生観」

坂口総一郎 さかぐち そういちろう 1887-1965
 和歌山県海草郡岡崎(現・和歌山市岡崎)生まれ。博物科教員。大正七(一九一八)年、海草中学校(現・向陽高校)教諭、同九年十一月より沖縄県立第一中学校に赴任、同十四年、和歌山県師範学校教授となり、昭和三年には県史蹟名勝天然記念物調査委員、同四年、行幸事務委員なども務めている。『紀州植物目録』等の著書がある。
 熊楠を尊敬し、大正九年八月、熊楠の高野山植物調査に、同じ海草中学の同僚、宇野確雄(一八九一~一九八四)を誘い随行、三日余の起居を共にした。この時、坂口は愛用のカメラを持参、熊楠の動静を数枚の写真に収め、後日「南方先生の高野登山随行記」を『大阪朝日新聞』(紀伊版)に投稿した。だが、この投稿とそれに添えた写真が「新聞に出さぬ約束にて大門辺でとりし写真を新聞に出せし」として熊楠の逆鱗(げきりん)に触れ、以後疎遠が続くことになる。この時宇野にも写真があったことが最近わかった。それは東京・高田屋での撮影として周知の浴衣を裏返して着た全身像で、宇野はこれに「一乗院裏庭でピントを合わせるいとまもなく自分が写した」といった意味の説明を付している。
 昭和四年、昭和天皇の紀伊行幸にあたり、坂口は行幸事務委員(文書係)を務め、その後、白浜に建設された行幸記念博物館長などにも就いた。 〔中瀬 喜陽〕


1962年2月 大島廣『ナマコとウニー民謡と酒のさかなの話ー』 内田老鶴圃

1933年9月 『福岡日日新聞』①大島廣「八重山 見たまま聞いたまま」
①現在の西日本新聞の紙齢(創刊からの号数を示すバックナンバー)は、福岡日日新聞として1880年に創刊された時の物からのを加算している。→ウィキ


1962年2月 大島廣『ナマコとウニー民謡と酒の話ー』 内田老鶴圃/顔写真は大島廣

目 次 八重山の民謡と動物
八重山の民謡 民謡に歌われた動物
サンゴ礁とそこにすむもの
八重山紀行 サンゴ礁とは
サンゴ礁の分布/サンゴ礁の種類/サンゴ礁はどうして出来たか/サンゴ虫について/サンゴ礁の形成に関与する種類/造礁サンゴ類の生活条件/サンゴ礁の生長の速さ/サンゴ礁を破壊するもの
八重山のサンゴ礁と紅樹林
サンゴ礁にすむ動物 ナマコ類/ウニ類/ヒトデ類/クモヒトデ類/軟体動物/甲殻類
海参と雲丹と人生
棘皮動物とは
食用としての棘皮動物
海の腸結―ナマコ/海の栗毬―ウニ/海の星―ヒトデ
利用出来る棘皮動物
薬用になるもの/化学製剤/魚類の食餌・釣餌/肥料になるもの/工芸品
有害な棘皮動物
養殖業に対する害敵/ウニ類/ヒトデが二枚貝を食う方法/ヒトデによる養殖貝類の被害
棘皮動物の毒 
防ぐ武器としての毒装置/体内に含まれる毒素

大島廣1885-1971 大正-昭和時代の動物学者。
明治18年11月5日生まれ。五高教授をへて,九州帝大教授となり,昭和3年東京帝大教授を兼任。九州帝大天草臨海実験所初代所長。海産動物の発生,生態を研究した。動物分類学会会長。昭和46年3月6日死去。85歳。大分県出身。東京帝大卒。旧姓は野村。著作に「ナマコとウニ」など。→コトバンク