1964年10月8日ー『沖縄タイムス』奥里将建「沖縄に君臨した平家」
神戸の灘の薬師さんの傍らで長年「国語」の研究に専念していた奥里将建翁、最後のまとめとして
1964年「沖縄に君臨した平家」を沖縄タイムスに連載(10-8~12-11)した。

 
10月11日ー『沖縄タイムス』奥里将建「沖縄に君臨した平家」(4)
怪傑・平清盛をして天寿を全うさせ、彼が抱いていた南宋貿易の夢を実現させ、中世日本の様相はすっかり一変していたかも知れない。(略)戦後のわが歴史学界において、清盛に対する評価が大分改まって来たのも、彼の経綸と人間的魅力を高く買って来たために外ならない」

奥里将建(1888年5月18日~1963年12月29日)
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写真ー奥里将建
1940年1月1日ー『沖縄朝日新聞』奥里将建「砂糖よりも有利な・・・うこん栽培と産業教育」

1926年4月ー奥里将建『琉球人の見た古事記と萬葉』青山書店
1943年9月ー奥里将建『古代語新論』三省堂
1949年5月ー奥里将建『沖縄昔話集』瑞泉会
1954年10月ー奥里将建『院政貴族語と文化の南展』三協社

1966年11月ー奥里将建『沖縄に君臨した平家』大同印刷工業
□仲宗根政善(琉球大学教授)ー1963年4月から64年の6月まで、私はハワイ大学の東西文化センターにいて、ホーレー文庫にとじこもって、日々を幸福感にみちて過ごしていた。書架に並べられた3千余冊の琉球関係文献を見て、如何に多くの先輩が琉球研究に従事して来たかを知り、自分の研究の微々たることがかえりみられて、これら先輩の業績に対し敬けんの念がわき頭がさがった。奥里先生に感謝の意をこめて御手紙を差上げたら、さっそく御返事があり、激励の御言葉にそえて、こんなことが書いてあった。『頑強な東恩納先生さえなくなられた。私のようなものは風前の灯火同然だ。』と。あれっきりだった。しばらくして、奥様から先生がなくなられたお知らせがあり、私は全く暗然とした。

あの頃、先生はもう余命いくばくもないことを予感しておられたのであろうか。ものにとりつかれたように、南走平家についての原稿を書きつづけて生命を刻んでおられたようである。ところがその原稿も完成するには至らず、一字また二字と余白になったまま残された。この遺稿を渡口真清氏と名嘉正八郎君が、先輩への敬愛と、文化に対する熱愛から出版を企てられた。私は深く心をうたれた。先生もどんなに喜んでおられることであろうか。

先生は、大正15年に『琉球人の見た古事記と万葉』を著された。最初は上代の古事記・万葉集の研究が中心であったが、平安朝、院政、鎌倉、室町と研究領域をひろげ、一方、琉球方言から、瀬戸内海方言・四国方言・近畿方言へと研究を進めて行かれた。時代的にも方処的にも、幅ひろく、国語の研究をせられ、多くのすぐれた論文を残された。さらに、朝鮮語・満州語・蒙古語と日本語とを比較され、昭和32年に、『日本語系統論』を出された。

戦後、院政時代の口語資料を詳しく調査されるに至って、院政貴族語が首里方言と近似していることに気がつき、『院政貴族語と文化の南展』を著わし、先生の研究は言語・文学から次第に歴史へと展開したのである。

沖縄の地名、沖縄の古典芸能、南宋との貿易関係などを深く究明し、これを論拠として、平家一門は長門の壇の浦で全滅したのではなく、沖縄にわたり舜天王統を打ち樹てたと論ぜられた。
先生はこの稿を最後のものとして、心血をそそがれたのであった。
先生の進まれた跡を辿って見ると、言語・文学・芸能・地理・歴史と実に広範にわたり、絶えず進展しつづけられた。  

78才で生涯を終えられたが、みずみずしい想がつぎつぎと湧き、旺盛な研究意欲は少しも衰えを見せなかった。先生の学説は、射程の遠い目標をねらったため、飛躍もあったが、独創にみち、新しい問題を提起した。広い分野を開拓されて残された業績は実に大きい。  

先生の蔵書は、奥様の御好意によって、歴史関係約200冊は沖縄県史編集室に、言語文学関係2,300余冊は、琉球大学図書館に奥里文庫として保管されている。文庫を一覧しても、いかにその学問が広く深かったかということがわかる。一冊一冊熟読されたあとがあり、端正な文字でメモをとった紙切がはさまれたままである。文庫の前に立つと、先生のおもかげがほうふつとする。先生の学問はきっと後輩に継承され、さらに発展して行くにちがいない。


1937年3月ー『沖縄教育』島袋源一郎「薩南列島に於ける平家の遺跡」