写真ー仲原善徳とバゴボ族の酋長

1933年6月ー仲原善徳『大南洋評論』第1巻第2巻(仲原善徳編集)□金城朝永「南洋関係図書目録」
1936年11月 『訓練』仲原善徳「フィリッピン観光記(上)」
1937年3月ー仲原善徳『南洋千一夜一夜物語』日本書房
1937年3月ー『国際パンフレット通信』第998号 仲原善徳「蘭領ニューギニアの実相」
1937年4月ー『改造』仲原善徳「蘭領ニューギニア」
1938年12月ー『比律賓年鑑』仲原善徳「比律賓群島の諸民族」


1942年2月ー仲原善徳『比律賓紀行』河出書房


1942年7月ー仲原善徳『比律賓群島の民族と生活』南方出版社


1942年7月ー仲原善徳『ボルネオとセレベス』寶雲社
1942年7月ー『海を越えて』仲原善徳「比律賓雑誌」
1942年10月ー『海を越えて』仲原善徳「新比律賓の面貌」


1942年11月ー仲原善徳『ミンダナオ島物語』興亜書房(寺内萬治郎・画) 
寺内萬治郎ー洋画家生年明治23(1890)年11月25日
没年昭和39(1964)年12月14日 出生地大阪府大阪市
学歴〔年〕東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科本科〔大正5年〕卒
主な受賞名〔年〕帝展特選(第6回)〔大正14年〕「裸婦」,帝展特選(第8回)〔昭和2年〕「インコと女」,日本芸術院賞〔昭和26年〕
経歴明治42年白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事。東京美術学校では藤島武二の指導を受ける。大正7年文展に初入選。11年耳野卯三郎らと金塔社を結成。14年第6回帝展で「裸婦」が、昭和2年第8回帝展で「インコと女」が、それぞれ特選となる。昭和初期から埼玉県浦和に住む。4年光風会会員となり、同会をはじめ帝展、新文展の審査員を歴任。戦後は23年ころより裸婦制作一筋に打ち込み、26年第6回日展出品の「横臥裸婦」および一連の裸婦作品によって日本芸術院賞を受賞した。35年日本芸術院会員、日展理事。東京美術学校などの講師として後進の指導にも当たった。「コドモノクニ」「幼年倶楽部」の挿絵画家としても親しまれた。→ コトバンク

1943年1月ー『海を越えて』仲原善徳「比律賓を巡る島々」
1943年2月ー仲原善徳『日本人ミンダナオ島開拓略史』南洋経済研究所
1943年4月ー『海を越えて』仲原善徳「比律賓の諸問題」
1943年10月ー『海を越えて』仲原善徳「フィリッピン史上の二人物」


1943年10月ー仲原善徳『バコボ族覚書』改造社

1943年11月ー『海を越えて』仲原善徳「フィリッピン在留邦人気質」


本間雅晴「序文」、葛生能久「序文」/右ー頭山満「題字」

写真中央ー犬養毅、頭山満
1944年9月ー仲原善徳『フィリピン独立正史』中文館書店



 2017年 3月島村幸一『おもろさうし研究』角川文化振興財団「オモロの研究史/新オモロ学派のオモロ研究/仲原善忠のオモロ研究」に仲原善忠の俳号があった。仲原は1920年頃、渋川玄耳主宰の俳句会に加わり俳号「幽月」といった。〇渋川玄耳 しぶかわ-げんじ明治-大正時代の新聞記者。明治5年4月28日生まれ。東京法学院(現中央大),国学院にまなぶ。熊本の第六師団法務官をへて,明治40年東京朝日新聞社社会部長にむかえられる。朝日歌壇を再設し,石川啄木を選者に登用。藪野椋十の筆名で随筆を連載した。のち国民新聞社などにつとめた。大正15年4月9日死去。55歳。佐賀県出身。本名は柳次郎。→コトバンク
1925年2月 仲原善忠『日本外交史』イデア書院

左ー観世音菩薩/この絵は惠心僧都の傑作「聖衆来迎」の一部であります。僧都は大和國の人で(平安時代の半頃)学者、芸術家、宗教家として名高い方です。(相良徳三氏著『日本美術史』)〇恵心僧都/平安中期の天台宗の僧。恵心流の祖。大和生。諱は源信、恵心僧都は通称。良源に師事し、顕密二教を学ぶ。また『往生要集』を著し、以後の浄土宗信仰の展開に大きな影響を与え、宋でも高く評価された。寛仁元年(1017)寂、76才。

はしがきー日本の文明が今日のように進んで来るまではずいぶん長い年月を経ています、しかもそれは日本人の力だけで進んで来たのではなく、朝鮮、支那、印度及び欧米各国の人々の助けをうけていることも少なくありません。吾々の祖先はこれら諸外国のすぐれた学問、宗教、芸術を一生懸命に取り入れたばかりでなく、ほんとに日本独自の文明を生み出そうと苦しんで来ました。しかしながら漢字、漢学、仏教、キリスト教、科学というような今日の文明の大本になっているのは残念ながら外国から入って来たものが多いのは明らかな事実です。(略)今までの歴史は多く戦争と政治の歴史でありました。しかし戦争や政治は歴史のほんの一部分であって全部ではありません。吾々の先祖の生活や功績を知るためにはもっと広く、いろいろの方面から研究して見なければなりません。

目次
日本と朝鮮ー(前略)しかし天孫族すなわちニニギの尊の一団体は朝鮮を通って来たのだろうと考えられるから高天原も朝鮮か、その北の方満州のどこかにあっただろうと想像することが出来ます。
遣唐使(支那への御使い)
遣唐使を止めて/
80歳の留学僧真如上人 高岳親王〇澁澤龍彦「高丘親王航海記」を史実のほうでみると、高岳親王は平城天皇第三皇子、在原業平のおじに当たる人である。薬子の変に絡み、皇太子を廃されるが後に出家、真如の号を得て空海に師事、その高弟となっている。親王は六十四歳で入唐を果たすが、六十七歳のとき広州から海路天竺へと向かい、そのまま消息を絶った。一説には、マレー半島南端で虎の害により亡くなったとも伝えられる。(眞耶ライブラリー)
宋と日本の交通ー1、宋人に祀られた惠心僧都 2、平清盛の貿易 3、武士の生活tと異国趣味
元寇とアメリカ発見
日明貿易と海賊船(倭寇) 
ポルトガル人と鉄砲の伝来
フランシスコ・ザビエールと日本
朝鮮征伐と日本の産業)
ー捕虜になって来た人々と陶器業
徳川家康と外国貿易ー貿易商家康
国を鎖すまで
オランダ語を学ぶ人々
外国人の侵入におびえた人々



1929年6月 ロバート・エス・カァ少年/饒平名智太郎訳『アメリカモガボモ 性の跳躍』世界社〇ー訳者の友人成城学園の中学部主事仲原善忠氏が、欧米教育行脚の途次、英国で、学生生活の実情を知るにいい本はないかと、教育当局にきいたとき、此本の存在を指示してくれたさうだが、英国では発禁本で見出されなくて、アメリカに来て漸く入手したのが此本の原本である。原名は『跳躍時代』となっている。アメリカ洛陽の紙価を高からしめた問題本だ。

『青年沖縄』3号

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『青年沖縄』4号の編集は神村朝堅



1992年7月(1981年3月 第1刷)『柳田國男写真集』岩崎美術社〇2段目、3段目に比嘉春潮と共に仲原善忠も見える

仲原善忠 なかはら-ぜんちゅう
1890-1964 大正-昭和時代の教育者,沖縄研究家。
明治23年7月15日生まれ。大正13年東京の成城学園教諭となり,のち経営にもあたる。戦後,沖縄人連盟会長,沖縄文化協会会長などをつとめる。昭和23年同協会の機関誌「沖縄文化」を創刊,古歌謡「おもろ」の研究につくした。昭和39年11月25日死去。74歳。沖縄県出身。広島高師卒。著作に「おもろ新釈」など。 →コトバンク