1954年3月『別冊週刊朝日』伊原宇三郎「琉球の踊子(名護愛子)」




伊原宇三郎「柳田国男」(現在は飯田美術博物館蔵)

柳田国男 資料


伊原宇三郎「折口信夫」



伊原宇三郎ー洋画家。徳島市生。東美校卒。藤島武二に師事。卒業後渡仏し、帰国して帝展で特選を受賞する等活躍。帝国美術学校(現武蔵野美大)教授、母校助教授をつとめるかたわら戦時中は従軍画家として中国、東南アジアへ赴く。戦後日本美術家連盟創立と同時に委員長となり、美術家の社会的環境の整備に尽力した。フランス政府芸術文化勲章受章。日展参与・審査員。昭和51年(1976)歿、81才。 →コトバンク




折口信夫「日本文学系図」

1976年12月発行の中公文庫『折口信夫全集』第31巻の「日本文学系図」は、昭和の初年の頃から著者が考案し、大きな紙に図式化し、時に触れて幾度か紙を継ぎはぎ、補訂したもので、原図はすこぶる錯雑していて、未だ定稿とは謂えないと思われるが、著者の日本文学史の体系を知るに簡便であるので、あえて巻末に収録した」とある。全集31巻には、折口の書簡が紹介されている。ネット上には上記の図の鮮明なものがあり、折口の「日本文学の発生」も読める。大正10年8月に大阪朝日新聞編集所に宛てた絵葉書には表の琉球美人は「尾類ズリ(遊女)といふもの」と書かれている。



1966年6月 添田知道『日本春歌考 庶民のうたえる性の悦び』光文社
〇添田知道そえだともみち(1902―1980) 文筆家。筆名添田さつき。放浪の演歌師として著名な添田唖蝉坊(あぜんぼう)の長男。東京・浅草に生まれ、日本大学中学中退後、堺利彦(さかいとしひこ)の売文社で働く。父親に倣って演歌の作詞・作曲などを手伝い、また大衆小説も書く。戦争下の1942年(昭和17)、自分が卒業した貧民街の万年小学校長坂本龍之輔をモデルに、書き下ろし長編小説『教育者』で第6回新潮社文芸賞を受ける。全四巻、2400枚のこの大長編は、未完のまま終わった。63年(昭和38)『演歌の明治大正史』で第18回毎日出版文化賞を受賞。ほかに『日本春歌考』(1966)などがある『『添田唖蝉坊・知道著作集』五巻・別巻一(1982・刀水書房)』 。→コトバンク


1974年8月 内山惣十郎『浪曲家の生活』雄山閣
〇内山 惣十郎(うちやま そうじゅうろう、1897年12月19日 - 1973年2月6日)は、日本の演出家、劇作家、脚本家、作詞家、俳優である。浅草オペラの時代(1917年 - 1923年)に、その草創期から関わった。榎本健一『カフェー・ナンセンス』の作詞家としても知られる。→ウィキ



大修館書店『カラーワイド新国語要覧』2000年4月「古事記(史書)奈良時代成立」/東京書籍『新総合
図説国語」2005年2月「古典文学地図 大和・奈良」〇右の図説国語には「インターネットで広がる国語の世界」が補充資料として付く〇大修館書店ー漢文や言語学関係に強く、月刊『言語』は、言語学に関する専門誌として、また月刊『しにか』は、東アジア文化圏の歴史、習俗、文化を考える雑誌として多くの論文を掲載していた。(『しにか』は2004年3月号より休刊。『言語』は2010年1月号より休刊)。辞典分野では諸橋轍次編著の『大漢和辞典』で古くから知られ、『英語動詞句活用辞典』『前置詞中心英語表現辞典』など実用性を目指した英文法、語法関係の辞典を刊行している。→ウィキ。→「大修館書店:漢字文化資料館」
〇東京書籍ー日本における教科書出版の最大手として有名だが、ほかにも学習参考書やそれ以外の一般書籍(主に教育関係書、人文書、文芸書)も多く出版するなど、事業領域は幅広い。凸版印刷グループの連結決算対象企業。2009年に設立100周年を迎えた。→ウィキ

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<契沖の万葉注釈書『万葉代匠記』
 布施の自宅から歩いても行けるが、地下鉄「今里」(→グーグル/ヤフー画像「地下鉄今里駅」)から直ぐのところに妙法寺がある。妙法寺は聖徳太子の創建と伝えられる。宝歴の頃(1751~64年)の妙法寺は一時衰退していたが、泊中法典和尚が住職し大黒天信仰を鼓吹してより時運隆盛になり「南にては今宮のゑびす、東にては今里の大黒」と喧伝され、庶民の群参で賑わった。と大黒天が祀られているお堂の前の解説板にある。境内の一角には契沖の墓(右端)と、その左側には師の丯定(かいじょう)、母、兄の墓が並んでいる。境内の左右にソテツがある。□→画像「 妙法寺 契沖」

契沖の出家した妙法寺(今里)

契沖は、本姓下川氏。尼崎藩士元全の子として1640年(寛永17年)尼崎で生まれる。11歳で大阪今里の「妙法寺」に入り、13歳の時に剃髪、高野山で10年間仏教を学んだ後、23歳で大阪生玉の「曼陀羅院」の住職となる。しかし、数年を経ずに「曼陀羅院」を去り、諸国修行の旅に出、30歳の頃に和泉の国に移り住む。最初の5年間は久井村の辻森家に滞在、仏典や漢籍に親しみ、その後南池田村万町の伏屋長左衛門(重賢)方に移り、その邸内に養寿庵という小庵を建ててもらいそこで、和漢書の研究に精励した。40歳のとき、再び今里の「妙法寺」に戻り、住職となった。この「妙法寺」時代に、徳川光圀の知遇を得、画期的な万葉注釈書『万葉代匠記』を執筆、その後の国学万葉研究に大きな影響を与えた。

元禄3年(1690)51歳のころ、妙法寺を弟子の如海に譲り、自分は大阪高津の円珠庵に退いた。円珠庵(→グーグル画像「円珠庵」」)時代の契沖は、俗務に煩わされることなく、ひたすら著作と研究に没頭した。また、弟子の今井似閑や海北若冲ら門人の求めに応じて『万葉集』の講義も行っている。そして数多くの著作を残し元禄14年(1701)1月25日、円珠庵で62歳の生涯を閉じた。明治中期以後、契沖研究が盛んになり、円珠庵と契沖遺書の保存運動がおこる。 円珠庵と墓は、大正11年3月史跡保存物に指定され、また契沖遺書は散逸を防ぎ保存の万全を期するために、同年6月大阪府立中之島図書館へ寄託された。。(大阪府立中之島図書館HP)□→HP「契沖研究会」(会長・吉原栄徳・園田学園女子大学名誉教授)