中央・屋部憲
1947年7月 「沖縄美術家協会」設立。会長に屋部憲氏が選ばれた。
1947年ー沖縄美術家協会/沖縄民主主義文化連盟(瀬長亀次郎、屋部憲、池宮城秀意、名渡山愛順、仲村渠)/沖縄文芸家協会 (山城正忠、仲泊良夫、仲村渠、國吉眞哲ら)
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1947年6月-沖縄人民党結成ビラ

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1948年 左からー後向きがアクトン少佐、松岡政保、山田真山、屋部憲、名渡山愛順

 屋部憲ー沖縄美術家協会宛ー近く民政府も機構替へになると伝えられ美術家協会も従来の立場で他の部に合併されては事業遂行上色々な不便を来たすことが多いので、それが決定しないうちにと思ひ取急ぎ美術面に対する私見を書いて副知事を通じて知事に1協会員としての意見を述べるものであるが、これに就いて更に協会員に諮り良く論旨を纏めて正式に陳情する必要がある。(略)(1)美術振興の急務 (2)美術行政機関の設置ー従来美術家協会は文化部に所属していた為め軍政府の指令は民政府に来て民政府の指令は更に文化部を経て美術家協会に来ると云ふ調子で2段、3段を経るため不自由を来たす(略)例えば沖縄美術院(仮称)の如きものを創設して自由活発なる動きをするとか大切である。(3)美術教育機関の設置 (7)商業美術の振興 (8)産業面と連絡して図案部設置ー沖縄の陶器業、漆器業の発展を計るため伝統の図案を生かすのも必要であるが、尚新時代に即する図案を出し美術工芸品の海外移出を計るために図案部を設置して研究をなす。其他紅型、織物等とも関連して商業工芸美術の振興を計る。 (9)美術家協会の集団生活

1949年8月『芝居と映画』屋部憲「戦争と藝能」
○終戦当時国頭羽地大川のほとり、川上の山宿で始めて仲嶺盛竹氏の琴を聴いた時、何とはなしに熱ひものが頬を伝はるのを覚えた。別に悲しいのではない。さりとて歓びの感激でもない。勿論生延びた喜びはあるが、それのみの為めじやない。又戦禍に斃れし人々のことを考へた時悲痛の思いはするが、それのみののためでもない。亦死に勝る戦争中の飢餓と労苦を考えた時、血がにじみ出るやうな思ひ出はあるが、然し、その追憶のためでもなひ。今私はこの名状すべからざる感激の詮索に隙を假すことを憚り乍ら、筆を持ちなほしていく。

 艦砲に追はれて山から山に逃れつつ、じめじめする防空壕の中で明け暮れ希ったものは何であったか、それは只、平和への一途ではなかったか。そしてその平和こそは今将に来たのではないか。この歌こそは琉球民族が永い間求めて来た世界ではなかったか。実に琉球の平和は余韻蕭條たる音楽によって序幕が開かれたのである。

 その後間もなく諮詢会が誕生し、私も川上の山宿と別れて石川に行き文化部の芸能関係の仕事をするやうになった。当時の文教隊長はハンナ少佐で実に親切な方であった。兵隊というと四角張った人間のやうに思うが、ハンナさん(皆がハンナさんハンナさんと親しむ)は召集前迄大学教授で日本語も相当使い、沖縄歴史の研究に没頭し、尚戦争のために散在した古美術工芸品を拾集して博物館を建設した功労者である。序にハンナさんの人格の一端を紹介すると戦後のことで、大抵の兵隊は珍しいものを探して土産に持って帰ったがハンナさんはそんなことは絶対にしない。人々が骨董品でも贈ろうとすると頭を横に振って、沖縄は戦争のために凡てを失ったからこんな貴重な品は沖縄に保存した方がよいと云うてなかなか受取らない。こう云う性格だから文化関係の仕事には熱意をもって援助して呉れた。

 沖縄芸能聯盟が設立されたのもこの頃で会長に護得久朝章氏、幹事に仲嶺盛竹氏、島袋光裕氏及び私の三名であったが、ハンナさんは芸能聯盟のために衣裳や幕を整えて呉れたり、又稽古場を建てて呉れたりした。あの石川病院裏の演劇研究所(現在は入院室に使用している由)もハンナさんの記念の建物である。

 芸能聯盟の事業としては色々あるが当時最も必要な仕事は米軍の希望による部隊慰問が重なるもので、約半ヶ年間は各地区の部隊廻りに急しかった。ところが相手が軍隊であるから約束した日には雨の日でも寒い晩でもトラックの上で凍え乍ら出かけたのである。今から云うと何でもないやうに聞こえるが、あの頃は終戦当時で凡てが殺気立ち、黒人の襲撃事件等が頻々とあった頃だから絶えず憲兵が小銃を携えてトラックの前後に付添い、小用にも一人歩きは危険で引率して行く始末であった。しかも上演物は音楽の歌詩に至る迄、凡て翻訳しt説明を附し、尚試演の際も一々検閲するのであるが中にも一番困る事は上演の時幕あいの時間がなく次から次と連続で演り、少ない人数で入り替り、立替りするのであるが、その間に化粧もしなければならんし、着付もしなければならん。然も少ない着物を多くの人数で使用するのであるから、大急ぎで着替えなければならんと云う目の廻るやうな急がしさは役者自身は固よりタイムを取るマネーヂヤー迄気を揉むこと夥しい。それに定った時間がきた時にはどんな良い出物でも遠慮なくカットしていくのであるから折角苦労して稽古したものでも当日になって時間の関係で中止になった事が時折あった。平素楽屋の中でゆっくり化粧や着付をやりつけている役者が2,3日の不自由な 兎も角も永い間文句一つ云はずに愉快に働いたことは、如何に緊張していたかがわかる。

 役者の中には今度の戦争で大切な夫を亡くしたのも居れば、可愛い子供を失ったのも居るが骨肉を失った深い悲しみと悩みを胸に秘めて各地区の部隊を廻り、俄造りの舞台や、或いは露天の下でで、しめやかに響く楽の音に合せて踊り抜く姿は、心ある者を泣かせたであろう・・・・凡ては平和のためだ。吾々は平和のためには如何なる不自由も犠牲も厭はないであろう。

 米軍慰問が終る頃には住民の生活も段々落付いて来て各地の疎開者から上演申込みがあるやうになったが、その頃には吾々も美術家協会を計画して私は其の方面で働く様になった。その後芸能聯盟も色々変化して来たやうであるが、今から考えると、あの終戦当時が最も張り切っていた様に思はれる。(1949、7,10 於西森墨荘)


屋部憲・遺作品
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屋部家の屋部憲位牌


羽地朝秀墓近くにある屋部家の墓

屋部憲通 やぶ-けんつう
1866-1937 明治時代の軍人。
尚泰王19年9月23日生まれ。沖縄県に徴兵令がしかれる以前の明治23年,陸軍教導団に志願入団。25年卒業,県で初の軍人となる。日清(にっしん)・日露戦争に従軍し,陸軍中尉にすすむ。空手の達人でもあった。昭和12年8月27日死去。72歳。(コトバンク)

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屋部憲通書簡/1937年8月28日『沖縄朝日新聞』「屋部憲通の死亡記事」

□2000年11月ー野々村孝男『懐かしき沖縄~山崎正董らが歩いた昭和初期の原風景~』琉球新報社「屋部憲通」