沖縄関係の文庫本サイズの本を列記すると、渡邊重網『琉球漫録』(1879年)、奥島憲順『袖珍沖縄旅行案内』(1895年)、菊池幽芳『琉球と為朝』(1908年)、尚球『廃藩当時の人物』(1915年)、金城三郎『沖縄産有要植物』(1916年)、秦蔵吉『琉球案内』(1919年)、大城彦五郎『琉球語案内』(1925年)、摩文仁賢和『攻防自在護身術空手拳法』(1934年)だが、これに郷土研究社の『炉辺叢書』を加えると多様に富む。

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1895年2月 奥島憲順『袖珍沖縄旅行案内』沖縄印刷所(根路銘恵伝)松籟◇序=冊子甚だ小にして記する所実に簡なりと雖も以て沖縄旅行の栞とするに余りあり 沖縄は無数の島嶼成ると雖も其面積より云へば漸く薩摩湾を埋むるに過ぎず其人口より云へば帝国総人口の百分の一に過ぎず然れども日本帝国が全世界に向かって其勢力を澎漲しつつあるの今日に於いて東洋南部に向かって其先鋒の任に當る者は我沖縄なり殊に沖縄の問題が日を追ふて内地政界の議に上り有志の士足をこの地に入れんとする者多きを加るの今日に於いて奥島子のこの著あるは決して徒労にあらざるなり否其効決して尠なからざるなり
 元来沖縄に来る者其地形産物より寧ろ重に歴史に注目するは余が往々事実に於いて見る所なりこの著歴史の概要を記せざるは余が遺憾とする所なり故に余は歴史としては中山世鑑、球陽、世譜、王代記、南島記事、沖縄誌、歴史材料の雑書としては遺老伝、羽地按司仕置、具志頭親方独物語、林政八書、其他教育上の雑書としては「御教條」文学としては平敷屋朝敏の「苔の下」「若草物語」「貧家記」宜湾朝保の歌集等あることを旅行者に紹介し以て聊か本著の遺漏を補ふと云爾

 1919年8月 『琉球案内』沖縄實業新報社(秦蔵吉)
官公衛/学校/寺院教会/新聞雑誌社/弁護士/医師/銀行会社/米商協会員/糖商同業組合/帽子同業組合/運送業/材木商/呉服雑貨商/肥料商/海産物商/乾物商/茶商/漆器商/泡盛及酒類商/陶器商/薬種商/化粧品商/ペンキ商/染物業/食料品商/製革業/自転車商/靴商/度量衡器商/菓子商/造船業/印刷業/料理店/劇場及活動写真/筑前琵琶/理髪屋/土木請負業/産婆/牛乳屋/感化事業/戸数人口/知事及議員/多額納税者/耕地/重要物産/主なる海産物/海陸交通/陸運/白山療養園/名所旧跡/一便滞在の視察/口説・四季口説、上り口説、下り口説/新聞取次店/宿料及手土産
主なる旅館ー楢原旅館(西本)、濱崎旅館(西本)、川津旅館(西新)、大正館(西本)、森田旅館(通堂)
写真業ー吉村貞(上蔵)、久志助親(上蔵)、又吉写真館(上蔵)、光陽軒(上蔵)、久野写真館(若狭)、大和写真館(上蔵)


写真ー尚球

『廃藩当時の人物』表紙/明治43年『スバル』11号 
尚球『廃藩当時の人物』(1915年)
尚健伊江朝直/宜湾朝保/浦添朝昭/富川盛奎/亀川盛武/義村朝明/林成(世)功/与那原良傑/伊舎堂盛英/池城安規/津波古政正/豊見城盛網/伊江朝重/喜屋武朝扶/久志助保/知花朝章/護得久朝常/百名朝起①
①1983年3月 『那覇市史だより』「『百名家文書』収集経過および文書概要ー名城林世功(本名・新垣)陳情通事遺銀御心付金給与御恩典蒙ラスニ付請願/那覇区字久米二千六百七十三番地 兄・名城世勲71歳 名城世功妻・名城カマド66歳 名城世功養子・名城先安 明治41年12月 中城御殿家扶各位閣下」







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カッパブックス
 光文社常務取締役出版局長を務めていた神吉晴夫は、知識人向け教養新書路線とされる先行の岩波新書(1938年創刊)に対して、わかりやすさを重点に置いた、大衆向け教養新書路線の新書を企画し、光文社は1954年(昭和29年)10月に伊藤整の『文学入門』、中村武志の『小説 サラリーマン目白三平』をもって、カッパ・ブックスを創刊した。当時としては大きい9ポイントの活字で印刷され、また、現在多くの新書で採られている、本の裏表紙に著者の写真と略歴を入れる装丁は、日本の新書で初めての試みであった。
 創刊当初は必ずしも順調な出足とは言えない状態であったが、神吉が「創作出版論」と呼ぶ、編集者による企画先行の姿勢と、「カッパの本はみんなヒットする」などのキャッチコピーを使った積極的な広告によって大量生産化を実行し、カッパ・ブックスは日本の第1次新書ブームの主役と呼ばれる存在となっていった。刊行分野は生活実用書を中心としていたが、時にノンフィクションを含むなど、多岐に渡っている。1960年代から。1970年代の表紙の装丁は田中一光が担当していた。
 1970年から1977年(昭和52年)にかけて、光文社では「光文社闘争」と呼ばれる激しい労働争議が起こり、カッパ・ブックスの発行も一時中断した。社長となっていた神吉は、批判の中で光文社を退職し、かんき出版を創業した。また、一時カッパ・ブックスの編集長を務めていた伊賀弘三良ら、光文社の役員も退職し、祥伝社を設立、カッパ・ブックスのノウハウを活かした、ノン・ブックシリーズを発刊した。また、多湖輝の『頭の体操』などを担当していた、編集者の柳下要司郎も、光文社を退職し、ごま書房(現在のごま書房新社)の創業に参加した。2001年(平成13年)11月に刊行開始した光文社の同じ新書レーベルである光文社新書と入れ替わる形で、カッパ・ブックスは、2005年(平成17年)1月の『頭の体操 四谷大塚ベストセレクション』を最後に、新刊の刊行を停止した。→ウィキ

集英社文庫ー佐野眞一『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』
□2012年1月23日ーパレットのリブロをのぞくと佐野眞一氏の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』上巻の文庫本2刷があった。上記の誤植は大体訂正されているが、今帰仁家の朝和が湧川となったままである。人物索引で沖縄を代表するヤクザ界のドン・又吉世喜が正喜となったままである。
佐野氏の本に出会ったのは沖縄出身の与座弘晴を紹介した『業界紙諸君!』(1987年)が最初である。この本には佐野氏自身のタウン紙「新宿れぽ-と」(旬刊)の記者時代に触れ「オーナーはこの街を根城にする本職のヤーさんだった」と書く。「新宿れぽーと」は1982年の時点で240号を出している。発行人は伊藤晃三郎である。伊藤は沖縄の宜保俊夫と共に東亜友愛事業組合の大幹部,『月刊友愛』も発行、1981年9月号は「沖縄本土復帰十周年記念」であった。

 山口組時報の編集部員でもあった岡田龍之助(岡田興行)は時報に「人切り五郎」で知られる藤田五郎(東亜友愛事業組合常任理事)に「男の詩(うた)」を書かせている。岡田は山口組幹部の白神一朝主宰の右翼雑誌『八紘』(1975年4月)に「青春交遊録」を書き「(昭和29年)当時の新宿に白神氏が訪ねたのは、その数ある組のうち安田組幹部・伊藤晃であった。この伊藤晃こそ現在の東亜友愛事業組合常任理事の伊藤晃三郎であり、かく申す筆者の兄貴分」と、自らの「藤山寛美恐喝事件」にも触れ回想している。

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