2018年1月21日ー左から柳悦州氏、宮里正子さん,宮里一夫氏

2018年1月18日 沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館「柳悦州 退任記念展・蒐集資料展 ラオス・シルクロード」/写真左が柳悦州氏、新城栄徳
悦州氏は1986年 - 1990年、沖縄県立芸術大学で附属研究所長、教鞭をとった柳悦孝氏の次男。悦孝氏は柳楢悦の長男・悦多の長男。

沖縄県立博物館・美術館「麗しき琉球の記憶―鎌倉芳太郎が発見した美ー」(2014年5月20~6月22日)図録  
波照間永吉「鎌倉芳太郎収集の沖縄文化関係資料」
高草茂「沖縄文化の甦りを願うー鎌倉芳太郎が写真で今に伝えるものー」
佐々木利和「鎌倉芳太郎氏<琉球芸術調査写真>の指定」
西村貞雄「鎌倉芳太郎がみた琉球の造形文化」
柳悦州「鎌倉芳太郎が寄贈した紅型資料」
波照間永吉「古琉球の精神を尋ねてー鎌倉芳太郎の琉球民俗調査ー」
粟国恭子「鎌倉芳太郎が残した琉球芸術の写真」
謝花佐和子「鎌倉芳太郎と<沖縄>を取り巻くもの」
鎌倉秀雄「父の沖縄への思い」
宮城篤正「回想「50年前の沖縄・写真でみる失われた遺宝」展
新城栄徳「末吉麦門冬ー芸術家の名は音楽のように囁くー」
三木健「<鎌倉資料>が世に出たころ」

柳 楢悦(ならよし) /1832(天保3)~1891(明治24)→安房文化遺産フォーラム
江戸生まれ、9歳で書や算術を学び、元服後に和算や測量術塔を学ぶ。1855(安政2)年に幕府の長崎海軍伝習所で、勝海舟や榎本武揚らとともに近代的な航海術や海防に必要な測量術を学ぶ。新政府の海軍創設の基幹要員として上京、1886(明治19)年に初代の海軍水路部長に就任。水路業務の推進だけでなく、関澤明清とともに水産技術の発展に尽力し、1888(明治21)年大日本水産会幹事、1890(明治23)年第一回貴族院議員となるが、翌年逝去。
1873年2月、「琉球全島測量ノ命」が下された。測量体制は、大阪丸(440トン 磯辺包義艦長)に柳楢悦水路権頭、青木大尉、大伴兼行中尉、高橋惟熈、石川洋之助、加藤重成、第一丁卯艦(125トン 中村雄飛艦長)に、中村雄飛大尉、児玉包孝、その他水路寮生徒(補助)というメンバーであった。
一行は1873年2月12日、品川湾を抜錨、途中、下田、神戸、呼子、鹿児島、山川の各港を経て南西諸島に達した。4月、和久田勇次郎(千葉県木更津の人)が11日急遽したので座間味島阿護の浦に碑を建てた。→1989年7月『座間味村史』


1873年-柳楢悦・中村雄飛・大伴兼行・狩野応信製図『大琉球那覇港之図』

柳悦多(よしさわ) / 1882(明治15)~1923(大正12)→安房文化遺産フォーラム
1880(明治13)年に加納治五郎の姉・勝子と再々婚し、悦多(よしさわ)・宗悦(むねよし)が生まれているが、楢悦の没後、幼い兄弟は伯父の嘉納塾で柔道を学ぶ。嘉納は東京師範学校の学長として館山に水泳練習場を開き、水泳師範の本田存(ありや)に指南を得た安房中学は日本一のカッパ中学と異名をとる。安房中学の野球部と柔道部の指導にあたっていた悦多は、関東大震災で生徒を避難させた後、建物倒壊で殉職している。


写真ー1939年4月17日、久米島にて後列左から柳悦孝、河井寛次郎、柳宗悦、芹沢銈介、喜久山添采、喜久里教宣(具志川村村長)、濱田庄司



1942年11月ー柳宗悦『琉球の陶器』昭和書房
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