1982年10月 宮城栄昌『琉球使者の江戸上り』第一書房○琉球王国で江戸上りまたは江戸立ちというのは、将軍の襲職時(代替わり時)に慶賀使(賀慶使)を、国王の襲職時(即位時)に謝恩使(恩謝使)を江戸に派遣することであった。1609年(慶長14)薩摩の侵略を受けて敗北した結果強要されたもので、襲職・襲封時に「城下之盟」を新たにする儀礼であった。その点では中国への慶賀使・進貢使、薩摩への上国使とならんで、琉球王国の独立維持にかかわる重大な外交事項であった。


宮城栄昌の本


1987年2月 横山學『琉球国使節渡来の研究』吉川弘文館


1996年6月3日『沖縄タイムス』「江戸上り・史跡探索の旅」



2006年10月  福山市鞆の浦歴史民俗資料館『知られざる琉球使節~国際都市・鞆の浦~』

2009年10月 沖縄県立博物館・美術館『薩摩の琉球侵攻四〇〇年 琉球使節、江戸へ行く!~琉球慶賀使・謝恩使一行2、000キロの旅絵巻~』
●展示構成
 プロローグ 琉球使節のすがた~ガイドブックに描かれた使節たち
今回の展示の主役となる、琉球から江戸へ派遣された琉球使節のようすについて、大和で出版されたガイドブックに描かれた使節たちの絵を展示します。

第1章 琉球使節の旅
1609年の薩摩による琉球侵攻以降、薩摩の支配下に置かれた琉球は、薩摩藩主に伴われて徳川将軍への使節派遣を行いました。使節の目的は、徳川将軍や琉球国王の代替わりに対するあいさつを行うことでした。琉球から約2,000!)にわたる江戸への長旅では、宿や馬の提供や見物人など使節を迎える様々な人々がいました。一方、使節の中には長旅の途中で亡くなる者もいました。ここでは、琉球使節たちの旅をたどり、それに関わる各地のすがたを紹介します。

第2章 琉球使節、将軍と会う
江戸に到着した後、琉球使節たちは旅の最大の目的である徳川将軍への謁見に臨みました。江戸城には演奏隊による路次楽を奏でながら行列を組んで登城し、将軍へのあいさつを行います。また使節は江戸滞在中、当初は日光東照宮、のちには上野東照宮への参拝を行っていました。
    
第3章 「江戸上り」へのまなざし
約1年にわたる琉球使節たちの旅では、琉球から将軍や大和の各地に贈答品を贈り、文化的な交流や情報交換を行いながら、「異国」・「文化的に優れた」琉球の存在をアピールしていました。一方、大和の各地では琉球使節たちへの関心は高く、そのことは使節に関する様々な書物の出版や、知識人たちの琉球や中国に関する情報収集などに如実に現れています。ここでは、琉球使節の江戸参府をめぐって、琉球側と大和側の視点を紹介します。


第4章 小国家・琉球王国の戦略~自立を模索して~
江戸へ派遣した琉球使節を送り出した琉球王国は、薩摩や幕府および中国との関係を保ちつつ、自らの立場の維持を図る一方、大和や中国の文化情報を受容しながら、独自の琉球文化を形成していきました。ここでは、大国にとりまかれながらも、政治的・文化的な戦略から自国の生き残りを図った琉球のすがたを紹介します。


鄭元偉(鄭嘉訓次子/1842年の儀衛正・伊計親雲上)

向邦棟(真壁里之子朝賀/1842年の楽童子)



2009年8月17日 -『琉球新報』「 1832年 美濃の歌人が和歌贈る 琉球使節に『竜宮の人よ』」 琉球国王・尚育が国王即位の前に後継者となった礼を幕府へ伝えるため1832年に江戸へ送った琉球使節に対して、大和の歌人が和歌をつづって贈った短冊がこのほど、見つかった。沖縄コレクター友の会副会長の翁長良明さんが所有する短冊の中から同会会員の新城栄徳さんが発見したもので、琉球と大和の文化交流を示す資料として、注目を集めそうだ。
 短冊は美濃(現在の岐阜県)の歌人・森尚員が琉球使節の副使・沢岻親方安度へ贈ったと見られ、「澤岻(たくし)親方君」「尚員(ひさかず)」の名前が確認できる。
 短冊の和歌『ふるさとのつまはまつとも旅ころも 豊かにかへれたつのみや人』は「古里には妻が待つといえども、道中ゆっくりとお帰りください竜宮の人よ」の意で、使節の大和への長旅をいたわり、「江戸にものし給ふ帰り路 すのまたの駅にて詠てささけ奉る」(江戸からの帰り道、墨俣の駅で詠んでお贈りします)と経緯も書き込んでいる。森は国学者の本居宣長の長男・春庭から歌を学んだ歌人。
 跡継ぎとなったことを幕府へ報告し帰路についた一行は1832年12月26日、墨俣(すのまた)の駅(岐阜県)で休憩しており、そのときに森が詠んで渡したと考えられる。大学講師で琉球史研究者の深澤秋人氏は「琉球使節の宿に地方の文化人が駆け付けてきた場面が目に浮かんでくる。面白い史料だと思う」と話している。
 短冊を発見した新城さんは、このときの琉球使節が「たつのみやびと」「旅ころも」を使った歌を詠んでいることに触れ「尚員の歌にも同じ言葉が使われていることから、大和の文人が琉球に強い関心を寄せていたことが分かる」と述べ、琉球と大和の文化交流の歴史を豊かにするものとして、期待を寄せた。
(高良由加利)