02/09: 2018年2月24日~4月15日 板橋区立美術館「東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」②
板橋区立美術館「東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」を報じた新聞、『芸術新潮』(弘中智子さん提供)
撮影・屋良朝信氏
2018年2月24日(土)~4月15日(日) 20世紀検証シリーズ No.6 東京⇆沖縄 池袋
図録『東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村』共同通信社
1931年 山元恵一、沖縄県立第二中学校卒業 同期生ー西村菊雄、八木明徳、山田有勝、又吉康哉、南風原英佳、与那原良規
1986年8月7日『沖縄タイムス』〇本土通信/文化人のたまり場ー東京・いけぶくろの「みやらび」再開発でビル取り壊し。池袋西口・北口で知られる沖縄飲み屋は初代店主が文化人だったのが特徴。焼け跡から出発して最も古い「おもろ」の故南風原英佳さんは早稲田大学を出た日本経済新聞社記者上がり。つづく「さんご」は川端画学校出身の崎原当保さん。やや遅れて1953年開店の「みやらび」はやはり早稲田大学出身、戦前沖縄毎日新聞役員もした音楽家の故川田松夫さん。舞踊家で沖縄芝居に新劇を取り入れる試みもした人。三店とも初期は詩人山之口貘、伊波南哲、画家南風原朝光、末吉安久さんら今は故人の名物男を中心に、大正リベラリズムの申し子のような草野心平、金子光晴、喜多村知、内堀勉、小館善四郎ら、詩人、国画・春陽会など在野展の画家や知識人が米支配下の沖縄をしのぶたまり場だった。
池袋モンパルナスとニシムイ美術村
戦前の池袋と落合、戦後の沖縄・首里のニシムイに「アトリエ村」がありました。それら画家たちのコミュニティは、戦争や占領による抑圧の下にあった彼らの拠り所であり、世代や地域、思想を超えた交流によって多様な傾向の作品が生み出されます。
1930年代の池袋周辺には、アトリエ付き住宅が立ち並び、その様子はパリの芸術家街になぞらえ「池袋モンパルナス」と呼ばれました。そこには北海道から沖縄まで各地から上京した芸術家の卵が集い、切磋琢磨しながら新たな表現を模索します。隣接する落合にも佐伯祐三、松本竣介や沖縄出身の名渡山愛順らの画家、文学者、音楽家たちが居を構えており、戦前の池袋、落合一帯は様々な分野の芸術家が集う文化醸成の場となっていました。しかし、1941(昭和16)年に始まる太平洋戦争は、こうした営みを一変させ、自由な作品発表の場は失われます。
戦後「池袋モンパルナス」は再建され、次世代の画家が集まり、新たな美術運動の発信の場となりました。地上戦で壊滅状態にあった沖縄でも、学生時代を池袋や落合で過ごした名渡山らを中心に、1948(昭和23)年「ニシムイ美術村」が首里に建設されました。画家や彫刻家に加え、文化人もここに集い、戦後沖縄の美術と文化の展開に主導的な役割を果たすことになります。
本展では、池袋、落合、ニシムイに集った芸術家の作品約90点を初めて一堂に会し、3つのアトリエ村の概要と意義を明らかにすると共に、戦前から1971(昭和46)年の沖縄返還協定調印の頃までの東京と沖縄の文化交流の一断面を紹介。
『沖縄タイムス』4月15日ー皇后さまは14日、東京都板橋区の区立美術館を訪れ、開催中の絵画展「東京・沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」(主催・共同通信社、同美術館)を鑑賞し、沖縄県出身の画家の絵画に触れられた。 皇后さまは興味深そうに熱心に見て回り、戦後すぐの沖縄の画家たちが地元の石灰岩で絵の具を作り、沖縄らしさを追求していたとの説明を聞き、「きれいな白ね」と感心していた。
雑誌『おきなわ』/琉球舞踊家・平良リヱ子
最近の平良リヱ子さん
1954年2月14日 「火野葦平先生招待記念」
前列右から南風原朝光、真境名由康、火野葦平、平良リヱ子、仲嶺盛竹、真境名由祥。中列右から山里永吉、真境名澄子、真境名由苗、宮里春行。後列右から国吉真哲、一人おいて豊平良顕、真境名由乃、真境名佳子、勝連盛重。
1955年5月ー平良リヱ子、東京新宿御苑に近い緑苑街の路地奥に泡盛と沖縄料理「山原」開店。
山之口貘告別式の霊前で、貘さんが好きだった「浜千鳥」を手向ける平良リヱ子。
□2013/09/03 【山口新聞】美祢の宮崎さん「繚乱の人」出版 沖縄舞踊平良リエ子さん描く
「日本の文化を考える会」代表で神社本庁顧問の宮崎義敬さん(79)=美祢市西厚保町本郷=が、沖縄舞踊の継承に半生をささげた平良リヱ子さん(84)について書いた本「繚乱(りょうらん)の人」が、展望社から出版された。 平良さんは幼少期に沖縄から東京へ移り住み、日本舞踊を習っていた。戦後、沖縄舞踊家の謝名敬三氏と琉球王府に伝わる「御冠船踊り」の最後の継承者と言われる渡嘉敷守良氏の二人の師匠と出会い、沖縄舞踊の神髄を受け継いだ踊り手として活躍。女優や作家ら文化人とも交流が深かった。