海勢頭豊2021-5-3 復帰ショック、ドルショック、オイルショック、海洋博ショックの沖縄県。喜瀬武原闘争が続き、「さとうきびの花」や「喜瀬武原」、そして自らを鼓舞するように「琉球讃歌」を歌っていた時のパピリオンに、かの富村順一が現れ、間を置き又、現れた。「おい、ユタカ〜」と一言、親戚にでも会ったように、大人しくしていた。私には、彼の気持ちが痛いほど分かっていた。大和に復帰して、さらに琉球処分が進むという海洋博の欺瞞の中、仲吉りょうしんが、金城哲夫が亡くなった。富村順一を支えることも、力もない私には、悲しく、寂しくて、苦しい時代であったことを思い出す。新城榮徳さんに感謝します。

1970年7月8日の『朝日新聞』に「8日午前11時半ごろ、東京芝公園の東京タワ-特別展望台(地上250メト-ル)のエレベ-タ-前で、男が刃物を持ち『韓国人と20歳以下の者はおろしてやるが、日本人と、アメリカ人はおろさない』とわめいていると愛宕署に連絡があった。20人ほどいた客をエレベ-タ-で降ろしはじめたとき、男は新潟市の日本ル-テル教会宣教師ヒンズ・ダビテさん(39)のところへ男がかけより、ダビテさんの首に刃渡り20センチの包丁をつきつけた。愛宕署員が『刃物を捨てろ』と説得する一方で、さらに応援がかけつけ、約15分後にすきをみてとびかかり、警棒で包丁をたたき落とし、脅迫、銃刀法違反で逮捕した。調べに対し男は沖縄・本部東区富村順一(40)」と報じられていた。

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大阪ナンバで沖縄戦を語る富村順一(左端)

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大坂難波高島屋前でー僧侶風の富村順一

ブログ「富村順一死す | 無恥無情/『大阪府警の隠し事』の2012.04.19 に富村の死亡が載っている。
□いつまで経っても、彼の死亡情報がネット上に現れないので、本ブログで述べておく。平成13年秋の生活保護法による保護決定から十有余年に及ぶ生活・住宅・医療扶助を受けつつ、何不自由のない生活を大阪市西成区にて送っていた富村順一は、同区梅南2にある借家を終の棲家として、この冬に死亡した。晩年には車椅子生活となり、昨秋までは電動式のそれを駆って、早朝に自宅を出て勝間街道を北上、鶴見橋商店街を東進して国道26号線を越え、あいりん地区(通称・釜ケ崎)にある労働センター付近を徘徊して露店で買い求めた弁当類を付近の公園や南海電鉄の高架下あたりで食して朝食をすませるという生活を続けていた。
1972年発行の富村順一公判資料『怨念は永遠に』によれば、事件当日の富村はシャツに「日本人よ君たちは沖縄のことに口を出すな」「天皇は第二次大戦で200万人を犠牲にした責任をとれ」と書いていたという。また、意見陳述では『天皇の娘である島津貴子や皇太子の妻美智子も皇后も、天皇や皇太子の前で米軍に強姦させてみたい」と述べたという。私はこの資料を『青い海』大阪編集室で見た。編集長の津野さんから色々来と話を聞かされたが私には関心がなかった。あんなことで世の中が変わるのか、というのが正直な感想であった。大阪でも沖縄でも敬愛する先輩たちが富村裁判の応援に名前を連ねていた。

1974年発行の沖縄婦人連絡会議なるビラには「富村の女性解放への敵対を糾弾する、また、白老出身のアイヌ・ウタリは「どうか我らウタリよ、この富村順一なるシャモ(蛆虫)にだまされないでください」などと富村への批判が続出した。私は、1989年ごろ、大阪ナンバ高島屋前で富村順一を見かけるようになった。このとき貰った名刺には『新日本文学会/富村愚童」とあった。駅のタバコ自動販売機でピ-スを買ってあげると色々と話(「新川明の弱みをにぎっている」など)をしてくれたが、詳細は省く。数日後、富村は自分の本の宣伝をしながら、自分が載っているいる新聞記事(新聞名不詳)コピ-をくれた。新聞記事の題は「さがし続けた夏」で「富村順一、沖縄出身。62歳。かつて、新左翼から「反権力」の象徴にまつり上げられたことがある。若いころは、ならず者だった。胸に骸骨、背中に竜の入れ墨がある。『骸骨の順』と呼ばれた。(略)1955年、盗んだ小舟で本土へ渡った。東京では隅田川の橋の下、大阪では労働者の街、釜ヶ崎(あいりん地区)。建設現場をわたり歩く」とある。

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続けて「咋春、大阪・ミナミを根城に、シェパ-ドのアイを従えて放浪したとき、駅ビルのガ-ドマンと言い争いになった。犬を放った。『かめっ』傷害罪で逮捕。これが12回目の刑務所暮らしだった。90年秋、釜ヶ崎で、労働者への炊き出しをしている活動家を批判して、もみあいになった。腕をつかんだ警官に愛犬アイがかみつき、連行された。警官にたかり、新左翼の若者たちからも金を巻きあげた。だれかれともなく、かみついてきた。酔えば人が変わる。『反逆の沖縄人』と思いを寄せた人々も、次第に去っていった」と記されていた。コピ-を渡しながら外人記者も取材に来ていた、と自慢していた。以上は富村氏の提供の新聞によったものである。




 
1975年11月『青い海』№48 知念政光(琉装史研究者)「ルポ・東京周辺の沖縄芸能」/大阪『青い海』編集室に遊びに来ていた琉装の知念氏から『沖縄と三里塚』を購入し「30歳お目出とう!」と署名してもらった。梅田界隈を案内した。

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1996年8月 浦添図書館で、左から大嶺林一氏、伊佐眞一氏、知念政光氏

1975年11月『青い海』№48<沖縄の芸能ー舞踊と音楽>□宮城能造「よもやま芸談」、関西版『仲村米子舞踊研究所第一回発表会、松葉舞踊研究所が五周年記念公演、川田琉球舞踊団として初の関西公演、儀間比呂志新作版画展開かれる」、仲村喬次「武下和平ー島人の心意気を唄う(略)初心が忘れられていくのはテレビの流行歌手たちを見るまでもない。人の心を打たなくなった民謡は、もはや(しまうた)の生命を絶ったもひとしい。」、知念正光(琉装史研究者)「ルポ・東京周辺の沖縄芸能」、崎山任「三味線音楽とアカインコの業績」、「渡嘉敷守良・ある俳優の記録ー芸談、組踊の型」、伊礼正栄「関西の中の沖縄芸能ー悲愴な使命感で、”失われた沖縄”にかわって、ふるさとの伝統と文化を守ろうとした本土の県人たち」

 渡久地 政司2005年8月17日■ 富村順一さんら 救援活動 ■Ⅳ 沖縄闘争3 コラム「唐獅子」掲載
富村順一、大城俊雄氏などのこと沖縄復帰前後、沖縄で発行されている「沖縄タイムス」と「琉球新報」の2紙は、沖縄の良心を代表するとともに沖縄の実態を的確に報道している、と高い評価をうけていた。その「沖縄タイムス」のコラム「唐獅子」に月2回、約1ケ年、原稿料をいただいて書いた。わたし36歳。昼夜関係なく活動していた。心身とも充実していたので、こんな調子のよい発言となったのだろう。
  〈無戸籍〉1973年5月12日関西のある団体から『大城俊雄さん救援カンパの訴え』のチラシが郵送されてきた。大城俊雄さん(37歳)は、沖縄県出身で無戸籍、石川県金沢市で二宮尊徳の陶器像を、戦前教育の象徴としてハンマーで破壊(1972年11月2日)したとして金沢拘置所にいる、と書いてあった。東京タワー事件の富村順一さんのことと併せて考えながら、「無戸籍とはおかしいな」と思った。
 名古屋で私が起こしている行政訴訟事件の裁判を委任しているY弁護士が大城さんの弁護人となっていることを知り、しかも大城さんがつい最近まで名古屋市に住んでいたことを知り、併せてびっくりした。Y弁護士から「大城さんが無戸籍、ということもあって、この事件処置で困っている」を聞き、大城救援で私も何かやらねばならない、と思った。
 調査は、愛知沖縄県人会長に電話することから始めた。そして、大城さんの従兄弟が名古屋市緑区にいることがまずわかった。緑区には私の又従兄弟がいるので、そこに電話をかけた。驚くべき返事が返ってきた。「俊雄の従妹が私の女房です」と。世の中、狭いものだと思いながら、関係先を訪ねていった。
 区画整理予定地の仮設住宅で大城俊雄の従妹と母親がいた。口ごもりながら母親が言った。「俊雄には申し訳ないが、私たちはあの子たちとは、もうかかわりたくないのです。私たち母子は、どんなにいじめられたことか、あなたにはわかってもらえないと思うが」と言って涙ぐんだ。「お酒を飲みすぎなのですか」と私。「ええ、この家に来るときに、飲んでいなかったときはありませんでした。あの子の兄も酒を飲みすぎて死んだし、弟も父もそうでしたよ」と母親。「兄弟3人とも戸籍が無かったのですか」。「ええ、3人とも無かったですよ、結婚しても籍が入りませんので、みなヤケになって、今も独り者ですよ、3人ともそのことを気にしていましたが、どうにもならなかったですよ。私たちの子どもも戸籍が無かったのですが、昭和39年に裁判所で苦労してつくりましたよ」。「そうですか」と私はため息をついた。

 渡久地 政司 1973年6月22日 沖縄タイムス  唐獅子
 意識した熱狂を わたしでないわたしが走り出し、ブレーキがきかなくなり、意味のわからないことを口走り、行動をとり始める。いま思うと、子どものころからその傾向があったが、政治運動に参加するようになってから、とみに顕著になった。60年安保闘争のころ、学生大会や政治集会においてもそうであったし、市議会議員に立候補したのも、その後の諸々の闘争においても<いけない、いけない>とブレーキをかけても、暴走するのが常であった。 そんな自分に気付き、壁に<衆人みな酔い、われひとり醒めたり>と<闘いの中にあり、闘いの外に立つ>を貼ったが、結果はやはり狂気じみたものであった。マックス・ヴェーバーが「職業としての政治」で述べている<政治状況への冷徹な厳しい認識><いかなるものにも挫折しない堅い意志>を持つ職業政治家(革命家)というものに、わたしは、羨望しつつも冷徹で透徹した頭脳による醒めた判断と行為、<白鳥の声など聞こえない(庄司薫)><狼なんかこわくない>といいきれるそのさまに、どうにもやりきれない嫌悪感と劣等感を抱く。
 ところで、沖縄の政治(革命)家は、どうであろうか。憤死した謝花昇、「ズル顕」こと宮本顕治にまんまとやられた徳田球一、東京タワー占拠事件の富村順一、二宮尊徳像破壊の大城俊雄、皇居突入の沖青委、国会正門激突死の上原安隆、国会への爆竹投下の沖青同。彼らに共通した沖縄的なものがありはしないか。政治外の日常生活においても、衝動・唐突、大胆・狂気としか思えぬ行動をある日突然行う傾向を沖縄の民は多く持っているのではないだろうか。ロシア革命での作家ゴリキーの悲鳴に似た心やさしいひよわさ、私小説風にいえば、破滅型としかいいようのない傾向を沖縄の民は宿命的に持っているのではないだろうか。お人好し丸出しで痛々しい屋良朝苗知事、背伸びしながらシドロモドロな演説をする国場幸昌議員、両氏の演説の中に自分自身の類型を発見しない沖縄の民は少なくないだろう。
 先日、石川県金沢市で富村順一氏から渡された小論文の題名が『浮んだ舟は走る』。わたしは中野重治の『歌のわかれ』を思い浮かべながら、「こんな歌をうたってはいけませんよ」といったが、富村氏の言動に自分自身の多くを見た嫌悪感がいわせたものだった。
さて、沖縄の民は、冷徹な立ち振る舞いなど出来ないのだから、貧乏くじ引き引き意識しながら、熱狂であろうではないか。