儀間比呂志「1976年 天野鉄夫先生之像」/1980年 天野鉄夫



天野鉄夫氏の著作

1984年3月3日 伊佐眞一氏、儀間園子さんと天野鉄夫宅

伊佐宅で,左が新城栄徳、伊佐眞一氏/左が玉木園子さん、あけみ




写真ー天野鉄夫さん「曼草庵」入口で(新城栄徳・撮影)
天野さんとの出会いは『琉文手帖』4号にも記している。その書斎「曼草庵」は一軒家、かつての住宅で本・資料や焼物が増えたので、同敷地に住宅を新築し移転した。1階右は金城次郎を中心にした焼物博物館、奥は古酒の泡盛甕と焼物が入ったタンスが並んでいた。2階右は植物関係の資料、左が昭和6年以来続けている新聞スクラップ、「琉球学集説」「琉球の自然と生物」「琉球の資源と産業」、沖縄関係資料が所狭しと並んでいる。本宅の金庫には『沖縄時論』『沖縄新公論』などがあった。今それらの資料は沖縄県立図書館に収蔵されている。

天野鉄夫 あまの-てつお
1912-1985 昭和時代の農業技術者。
明治45年3月31日生まれ。戦前は沖縄県国頭郡(くにがみぐん)農会技手をへて,北支那農事試験場に勤務。戦後は琉球政府農林部長などを歴任し,県緑化推進委員会委員長,琉球林業協会長をつとめた。昭和60年7月24日死去。73歳。沖縄県出身。沖縄農林卒。著作に「琉球列島植物方言集」など。(→コトバンク)

  
1989年9月 天野鉄夫『図鑑 琉球列島有用樹木誌』沖縄出版

天野鉄夫と「トックリキワタ」


那覇市立神原中学校の敷地内では、ガーブ川沿いに美しいトックリキワタが立ち並んでいる。
1980~90年代にかけて、故天野鉄夫先生宅の庭に育つトックリキワタは特に「天野株」と呼ばれ、満開時には樹冠がピンク色に染まりかなり有名だった。見ごろになると、新聞紙上にもと紹介され話題になった。そのことも影響してか徐々に植木市で苗が売られるようになり、瞬く間に沖縄中にひろがり、熱帯花木ブームの火付け役になった。→沖縄県森林緑地課
城岳小学校の通り

楚辺界隈



正面に沖縄県警本部が見える。道の両脇にトックリキワタ/2013年11月 開南のバス停で

2013年11月25日 雨 那覇セントラルホテルのトックリキワタ

2013年11月20日 真和志中学校
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葉や花にニンニクのような香りーニンニクカズラ  科名:ノウゼンカズラ科 学名:Mansoa alliacea(=Pseudocalymma alliaceum)
別名:ガーリックバイン 原産地:熱帯アメリカ→「ヤサシイエンゲイ」

琉球新報 2016年11月28日
 1964年に天野鉄夫さんがボリビアから持ち帰って種子から育てたトックリキワタ。半世紀を経てもなお、毎年花を咲かせている=15日、那覇市の新都心公園のおもろまち駅前広場
 澄んだ秋空に映える鮮やかな桃色の花。トックリキワタが開花の季節を迎え、本島各地の沿道を彩っている。南米原産のトックリキワタが沖縄に持ち込まれたのは1964年のこと。種子から育てられ、県内で初めて花を咲かせた元祖の株は、半世紀を経た今も那覇市の新都心公園で毎年きれいな花を咲かせ、人々の目を楽しませている。

 トックリキワタを県内に持ち込んだのは、植物学者の天野鉄夫さん(1985年死去、享年73)。64年に琉球政府の農林部代表としてボリビアの沖縄移住地を視察した際、当時、同地の診療所に出向していた医師で現・養秀園芸サークルの吉田朝啓代表にこの木の種5、6粒を託された。帰国後、天野さんが那覇市繁多川の自宅庭で大切に育てた株が挿し木、接ぎ木などを繰り返したことから全県的に広がったとされる。成木の幹の形がとっくり状になることから、天野さんが命名した。


多和田眞淳
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多和田眞淳 たわだ-しんじゅん
1907-1990 昭和時代の教育者,植物研究家。
明治40年1月7日生まれ。沖縄第一中学をへて,戦後は首里高に勤務したのち,琉球政府林業試験場長などをつとめる。沖縄の薬草など植物の研究,沖縄考古学の草分けとして知られる。平成2年12月21日死去。83歳。沖縄県出身。沖縄師範卒。著作に「沖縄薬草のききめ」など。(→コトバンク)

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