○1994年12月季刊『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』もり・まゆみ「郁文館訪問記」
1994年12月 地域雑誌『谷中・根津・千駄木』(この地域は江戸の頃から文人が住まい、後に鴎外や漱石などの文豪が居を構え、東大や芸大が近い関係上、多くの作家や芸術家が過ごした街である。)其の四十一 谷根千工房

ウィキで見ると、郁文館の著名な出身者として、石原純(物理学者)、今西龍(東洋史学者)、潮惠之助(内務次官、内務大臣、文部大臣)、押川清(東京六大学野球・早大投手、野球殿堂)、河合栄治郎(東大自由主義知識人。府立三中へ転校)、伊東優治 (早大卒。社会学者)、栗田貫一(お笑いタレント)、柴田常恵(考古学者)、杉浦茂(漫画家)、副島千八(農林大臣、商工省商務局長 / 佐賀中学から転校)、松岡映丘(日本画家)、宮城長五郎(司法大臣、長崎・札幌控訴院検事長 / 塩野季彦閥として司法相就任)、物集高量(国文学者)、泉二新熊(法学者)、柳田國男(民俗学者。共立学校から転校)、土山剛弘 (日本野球機構 審判員)、大久保雅史(プロボクサー、第38代東洋太平洋フライ級王者。日比谷高校定時制に転校)であるが、それ以外に職員として土井晩翠、中野好夫。生徒に平野萬里、宮良当壮などが居る。

物集高見/物集高量
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上は高見の短冊/昭和55年4月日本書房発行『続・百歳は折り返し点』、日本書房からは2010年10月に高橋淳子(沖縄料理店『抱瓶』会長)自伝『ただ、誠を尽くして浮世を渡る』が出ている。私は1974年頃、高円寺の球陽書房の西平守良さんに連れられて近くの「きよ香」に行ったことがある。
もずめたかみ【物集高見】
1847‐1928(弘化4‐昭和3)
国語学者,国文学者。豊後国(大分県)杵築(きつき)出身。国学者物集高世の長男。玉松操,平田銕胤(かねたね)に国学を学び,洋学,英語も修めた。明治維新後神祇官史生となるが,のち東京帝国大学文科大学,学習院などの教授を歴任。《言文一致》(1886),国語辞書《日本大辞林》(1894)をはじめ多くの編著書があるが,《広文庫》(20巻,1916)は30余年を費やし家産を傾けて完成したもの。五十音順の類書形式の百科辞書というべく,《群書索引》(3冊)とともに復刻版も出された。(→コトバンク)
物集高量 もずめ-たかかず
1879-1985 大正-昭和時代の国文学者。
明治12年4月3日生まれ。物集高見(たかみ)の長男。教員,新聞記者などをへて,父の「広文庫」編集(大正5年完成)に協力。同書は昭和51年に復刻され,高量の長寿とともに時の話題となった。昭和60年10月25日死去。106歳。東京出身。東京帝大卒。著作に「百歳は折り返し点」。(→コトバンク)


1997年 熊本県観光連盟『くまもとの旅』№93「特集・新『五足の靴』紀行ー白秋たちが歩いた天草から阿蘇を旅する。」

 5月9日ー午前、港町・新星出版、天久・琉球新報社新聞博物館の帰途、沖縄県立博物館・美術館。隣の新城良一氏に遊びに行く。良一氏から森まゆみの新刊『「五足の靴」をゆく ー明治の修学旅行』平凡社を読めと、貸してくれた。始めに「東京は渋谷の道玄坂に東京新詩社跡の碑がある。与謝野鉄幹の主宰した詩歌誌『明星』の発行所である」と記されている。

 1949年 平野萬里『晶子鑑賞』「正忠を恋の猛者ぞと友の云ふ戒むるごと そそのかすごと 正忠は山城正忠君の事で、琉球那覇の老歯科医である同君は年一度位上京され、その都度荻窪へも立ち寄られた。同君は古い明星の同人で、若い時東京に留学されその時先生の門を叩いたのであるから古い話だ。当時一しょに私の家などで運座をやった仲間の生き残っているのは吉井君であるが、大家を別とすれば今だに作歌を続けているのは同君位のものであらう。戦争で大分辺に逃げて来て故江南君によると単衣一枚で慄へて居られるから何か著物を送るようとの事であったが、その時は最早小包便など利かなくなっていたので如何とも致し様がなくその儘にしてしまったが今頃は如何して居られることだらうか。・・・・』と記されている。
平野萬里
ひらのばんり(1885-1947)
埼玉県遊馬村生まれ。本名久保(ひさよし)。 6歳で上京、東大工学部応用科学科卒。早くから文学に関心をもち、岡野知十主宰の俳句雑誌「半面」などへの投稿のかたわら、一高俳句会にも名を連ね、同時に与謝野鉄幹に師事して短歌に親しみ、「明星」の若手同人として活躍した。処女歌集『若き日』(1907)には、青春を歌った夢幻的な抒情が特色をなしている。「明星」終刊後はつめに新詩社系統の消長に身をゆだね、「ス バル」・第二次「明星」・「冬柏」・第三次「明星」の各創刊に参画、旺盛な活動を展開した。しかし新詩社の正統にこだわりすぎてついに生涯、その作風を大きく飛躍させることができなかった。遺稿集に『晶子鑑賞』(1949)がある。/「日本現代詩辞典」より


木村荘八「パンの會」/木下杢太郎「パンの會」/フリッツ・ルムプ(独逸青年)「自画像」


1907年7月31日 福岡西公園ー一番前に足を投げ出してゐる額の禿げ上った霜降りの學生服が萬里、その後に蹲んでゐる背廣の美男が鐵幹、その二人の中間にゐる面長の氣品ある顔をした美青年黒服の學生が勇、その後から如何にもがっちりとした温厚ながら眉の濃い澁い感じの顔を出してゐる霜降り學生服が正雄、そして後方の一本松に靠れて立ってゐる黒い學生服のポケットに左手を入れて夢想するやうにやや横向きにみえるのが白秋である。周囲は所謂福岡県文學會に集まった人々で、紋附や僧侶の姿までみえるのは、如何にも明治末の地方文學者圖でもある。(吉井勇)
1949年7月 野田宇太郎『パンの會ー近代文藝青春史研究ー』六興出版社


1961年2月 野田宇太郎『文学散歩』第2号 雪華社
1971年10月野田宇太郎『改稿東京文学散歩』山と渓谷社「ーわたくしは昭和38年7月に詩人の山之口貘が亡くなりその葬儀が雑司ヶ谷墓地の葬儀場で行われたのに参列し、帰りに漱石の墓に詣でたとき、たまたま夏目家にやとわれたという一人の植木職が、鏡子夫人の遺骨を納めるのに先の漱石やひな子の遺骨を捜すために、墓石の下を深く掘りひらいているところに出会わした。ー」

野田 宇太郎(のだ うたろう、1909年(明治42年)10月28日 - 1984年(昭和59年)7月20日)は、日本の詩人、文芸評論家、文芸誌編集長。福岡県三井郡立石村(現小郡市)出身。朝倉中学卒業後、第一早稲田高等学院英文科に入学するが、病気により中退。1940年(昭和15年)に上京し、小山書店に入社。その後第一書房、河出書房を経て、1944年(昭和19年)文芸誌『文藝』の編集長を務めた後、東京出版に入社。衆議院議員の羽田武嗣郎(羽田孜の父)と交友があり、彼が創業した羽田書店の顧問も務めた。1951年(昭和26年)、日本読書新聞に『新東京文学散歩』を連載。後は博物館明治村の常務理事を務める。出身地の小郡市には、野田宇太郎文学資料館がある(小郡市立図書館内)。1985年(昭和60年)、小郡市に野田宇太郎詩碑が建立された。ウィキ


1972年5月 太田臨一郎『古書展覚え書』(古通豆本・11)/1988年11月 弥吉光長『チェンバレンの交友』(こつう豆本・82)

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学校法人郁文館夢学園(がっこうほうじんいくぶんかんゆめがくえん)は、東京都文京区に所在する学校法人。棚橋一郎によって1889年11月13日に開設された私立郁文館が母体。2003年3月18日にワタミフードサービス社長の渡邉美樹が理事長に就任。2006年4月1日に学校法人名を郁文館夢学園、国際高校をグローバル高校と改称している。傘下に郁文館中学校・高等学校、郁文館グローバル高等学校を設置している。夏目漱石の小説『吾輩は猫である』に登場する「落雲館中学校」は、当時漱石の家の裏にあったこの郁文館がモデルだと言われている。→ウィキ


 季刊『地域雑誌 谷中・根津・千駄木』1987年~1999年
もり・まゆみ 作家・編集者。1954年生まれ。早稲田大学政経学部卒業、東大新聞研究所修了。出版社勤務の後の1984年、友人らと東京で地域雑誌『谷中・根津・千駄木』(谷根千工房)を創刊、2009年の最終号まで編集人を務める。主な著書に『円朝ざんまい』(平凡社)、『東京遺産』(岩波新書)、『起業は山間から』(バジリコ)、『女三人のシベリア鉄道』 (集英社)、『海に沿うて歩く』(朝日新聞出版)など。歴史的建造物の保存活動や戦争証言の映像化にも取り組む。→マガジン9


1991年4月『よむ』創刊号 森まゆみ「″ミニコミ〝『青踏』の再発見」

2019年10月9日 新城良一氏、ドイツの森鴎外記念館を訪ねる

プロイセン王国に1810年、教育改革者で言語学者のヴィルヘルム・フォン・フンボルトによってフリードリヒ・ヴィルヘルム大学 (Friedrich-Wilhelms-Universität) として創立された。ベルリンでは最も古い大学で、第二次世界大戦後にはフンボルト大学と改称され、ドイツ再統一後に現称となった。日本からも新興国において範を垂れるべき大学として多くの人材が学び、森鴎外・北里柴三郎・高橋順太郎・寺田寅彦・肥沼信次・宮沢俊義といった日本の学術界を担う人材の留学が見られる。→ウィキ


森鴎外記念館Mori-Ogai-Gedenkstaette


1956年1月 小金井喜美子『鴎外の思ひ出』八木書店


文京区西片2 碑文「鼎軒(田口卯吉) 柳村(上田敏)居住之地碑」上田敏が田口邸に住み始めたのは1891年。鴎外と親交の深かったのが英文学者・上田敏