1971年4月 沖縄の雑誌『青い海』創刊号 大城立裕「復帰と青春」

最初に出会った人物伝
 大城立裕・新里金福著『沖縄の百年』第一巻の人物編を1970年に入手した。これは大城氏の芥川賞受賞の年に『琉球新報』に連載したものをまとめたものだ。連載のときから興味津津、面白く読んだが、筆不精の私はこのとき著者(作家)たちや新聞記者を別世界の人間だと思っていた。だから関心があった末吉麦門冬を大城氏が執筆されても会いに行こうとは夢にも考えなかった。救ライの青木恵哉などは「愛楽園文芸部」結成からのつきあいがある大城氏が選定したものであろう。
 大阪・沖縄関係資料室には、石野径一郎、霜多正次と並んで大城氏の著書が、それぞれ10冊以上はある。大城氏の場合はほとんどが氏の寄贈だ。大阪府立中之島図書館にも大城作品は揃っている。私は、資料室の西平守晴氏から寄贈の返礼も兼ねた「般若心経」の文字がある湯飲み茶わんを託され、首里の大城氏のご自宅を訪ねて以来面識を得た。新里氏は大城氏の芥川賞受賞の年の前年、未来社から『沖縄の思想』を出している。その中に「『沖縄からは偉い人物がでていない。特に文学者がいない』大宅壮一が沖縄でいったというこのことばが、ここで改めて思い出される。沖縄はいつまでも差別と貧困を売りものの退嬰的な即物主義でもなかろう」と書いている。
 新里氏とは大正区の会合で出会い、『青い海』編集室で関広延氏との対談をやってもらった。後、ホテルで私のホラ話を氏は我慢して聞いてくれた。後日「戦後の沖縄の若い世代それもとりわけ働く人々の間に先鋭な問題意識のたくましく育ちつつある事実を確認することができた」と書かれた氏からの手紙が届いた。手紙は今も手元にあるが氏はすでに亡い。

 『沖縄の百年』の人物伝は関係者(証言者)が少なくなりつつある現在では貴重なものだ。今のレベルで疑問があったとしてもここから出発するしかない。最近、地域史の女性たちから、漢那憲和の母を調べている中野利子さんに協力してくれといわれた。憲和の伝記『天皇の艦長』には母と弟についての情報は少ない。
 東恩納寛惇は憲和の追悼文で漢那の母のことを「漢那小の阿母」と親しく記している。寛惇は憲和の弟・憲英と1900年に沖縄中学を卒業した同窓だ。憲英は東京外国語学校に学び、教師として糸満小学校(当時の生徒・城間徳明が記念誌に思い出を書いている)、那覇小学校、甲辰小学校、那覇小学校を経て憲和が開館に尽力した開洋会館の沖縄県海外協会幹事を務めた。

  
1951年2月『文藝サロン』創刊号/1967年2月『新沖縄文学』大城立裕「創作カクテル・パーティー」
1967年10月『オキナワグラフ』「大城立裕さんに芥川賞」
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関西での大城立裕歓迎会、右端に西平守晴、前に上江洲久、前列左、下地玄信、鳥越憲三郎

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1973年4月 大城立裕『沖縄ー「風土とこころ」への旅』現代教養文庫782 儀間比呂志「表紙絵」/大城立裕氏、新城栄徳(大城宅で夫人撮影)
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コロンビア大学教授キャロル・グラックさんを囲んでーキャロルさんの隣り大城立裕氏、比屋根照夫氏、大城氏の左に新城栄徳、伊佐真一氏

  
写真左から大城立裕氏、新城栄徳、木崎甲子郎氏/大城立裕・美枝子御夫妻を囲んでー左から高良倉吉氏、新城栄徳、孫薇さん、三木健氏



1978年 沖縄の雑誌『青い海』<特集・大城立裕の”沖縄”と文学>1月号

1967年8月 『新沖縄文学』大城立裕「創作 カクテル・パーティー」
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1967年11月 『新沖縄文学』第7号(秋季号)大城立裕「随想・福島の旅」 

2013年11月19日山田實さんのところに遊びにいくと大城立裕氏から『自伝琉歌集 命凌じ坂』沖縄タイムス社が贈られてきていた。本書の「あとがきー現代琉歌を創って」に、短歌がにぎやかなのにくらべて、琉歌の生産が貧しいのは解せない。世に琉球語復興が叫ばれているのに、である。ウチナーのこころを大事に、という思いは世に潜在しているのに、である、と現状にふれ、続けて、振り仮名や送り仮名の選択の問題は、さらに歴史的仮名遣いとよばれる古典的表現と現代仮名遣いとのいずれを選ぶかの問題に発展すべきものであり、私は現代仮名遣いに統一したことのみを表明しておく。(略)私たちの生活には、すでに日本語が領域を広げすぎている。それを琉球語会話の中に混ぜて、なんらの不自然を覚えなくなっている、と書かれている。

大城氏はその琉歌「東北ぬ津波沖縄ぬ戦 比びゆる節んあたんとぅ思ば」「東北ぬ瓦礫とぅ沖縄ぬ基地とぅ 移し先無らん事や似ちょてぃ」「琉球ぬ言葉滅びぎさながら 独り楽しみぬ琉歌作い」「今をぅとてぃ物習い拝まんでぃしゃしが 一足遅りやい巣守なたさ(崎間麗進さん)」「ヤマトゥ口短歌栄てぃあるとぅてぃん 忘りがたなさや愛し琉歌」「命凌じ坂ぬ頂上に佇ち見りば 生き身ありくりぬ思いどぅまさる」「さてぃむ週刊誌どぅくあまいやあらに 皇室ぬ口答えゆさくとぅんち」と現実をテーマにしたものと、「円覚寺や見事かたち小さしが 鎌倉に似してぃあにん美らさ」[]「獅子舞稽古部落中ぬ揃てぃ 蘇鉄し点呼『仲比嘉参うちょーみ』」「命長さあらな沖縄ぬ芝居 御衆様見物見守てぃたぼり」と芸能文化まで、まさにウチナー作家の真骨頂である。

私の大阪のオヤジ・西平守晴(沖縄関係資料室主宰)は、かつて年賀状に現実に感じたことを表すのに琉歌集から選んであいさつを書いていた。そのひとつを大城氏が紹介していた。氏が1972年5月に読売新聞社から出した『内なる沖縄・その心と文化』に「1972年新春、私のもとに舞いこんだ賀状の一枚に、次のようにあった。  苦りしゃしゅて泣けば泣きゅんでど言ゆるゑ涙もおしのごて笑て見せら(西平守晴) 一読して私はほとんど涙ぐむ。必死にユーモアを守っている姿勢に、である。以上、琉歌三首で戦後史をたどってみた。いうまでもなく、移り変わりながらなお変わらないなにものかを、その底にさぐりたく思ってのことである。」







写真ー左から人間国宝の島袋光史翁、大城立裕氏/左から田名真之氏、大城立裕・美枝子御夫妻、宮里正子さん