2018年6月10日『沖縄タイムス』伊佐眞一「歴史を刻んだ沖縄人③親泊朝省(軍人) 日本従属の精神体現」

2003年11月8日 『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー 書の森 人の網⑩親泊朝擢」
戦後、一家心中した「親泊大佐」のことを大城立裕氏や豊川善一氏、井川良久氏、澤地久枝さんが書かれているので、私はその祖父と父について紹介する。『沖縄大百科事典』の親泊朝擢はかつて台湾に居た川平朝申氏が執筆している。1916年の『沖縄県人事録』に朝擢が北谷尋常高等小学校長として掲載され、1937年の『沖縄県人事録』には無く弟の朝輝が小樽市助役として掲載されている。

朝擢は1875年、父朝啓、母ウトの二男として首里大中に生まれる。父の朝啓は伊江朝助の随筆に「時の評定所は浦添朝昭の大虎の下に、虎小(グワー)と称する秀才があった。外間完薫、親泊朝啓、諸見里朝奇、比屋根安栄である」と出てくる。このうち浦添と朝啓は設置されたばかりの沖縄県庁に勤務。朝啓が丸岡莞爾知事死去に際しての追悼歌「月花につくす心はいく千代もふみのかかみに見ゆる君かな」。

笹森儀助『南島探検』に「1893年9月2日、県庁編纂主任掛親泊朝啓(琉球人)来訪ス、談、武器及其沿革ニ及フ」と朝啓のことだ出ている。ちなみに同書は琉球新報創刊にもふれている「9月23日、去ル15日ヨリ『琉球新報』ヲ発兌セリ、東京ヨリ記者2名来リ(略)開筵ノ式ニ招待状アルヲ以テ、本日答礼セリ」。

幣原坦は、1894年に来沖し、その著『南島沿革史論』の「南遊史話」に「沖縄県旧慣取調嘱託員親泊朝啓君には多く質問を試み」と出てくる。朝啓は旧慣に精通している。だから97年、佐々木笑受郎が公同会運動を復藩党として『大阪毎日新聞』に運動が成功したあかつきの「内閣名簿」に朝啓の役割を司法大臣に、内閣総理が尚順で太田朝敷を書記官長と準えて通信している。

朝擢は沖縄県師範学校を卒業後、仲吉ウシと結婚。北谷、首里の小学校の訓導を経て1901年、大宜味尋常高等小学校の校長となる。この年に朝啓が死去。2年後、長男の朝省(親泊大佐)が生まれている。11年、県学務課に勤務傍ら『沖縄教育』編輯主幹となる。このころから『沖縄毎日新聞』に蓬莱庵の名前で「人物月旦」を連載した。→『沖縄教育』誌上のペンネーム/素位学人、沖の島人、しののめ生、幻、編輯子

朝擢は『沖縄教育』編輯主幹を第60号(11年4月)から102号(15年7月)まで担当した。11年8月の64号は「偉人傳」で、巻頭には「汝の立つところを深く掘れ、そこには泉あり」と記され、岸本賀昌が「我琉球」とあいさつで始まり、当真嗣合の「琉球人の胸中に蘇生して・・・」で終わっている。

朝擢は『琉球見聞録』『沖縄県案内』『沖縄県写真帖』も刊行した。その功績は大宜味小学校の像とともに刻印され消えることはない。

1911年8月 親泊朝擢・編集発行『沖縄教育』第64号 本会創立二十五記念<偉人伝>
巻頭「汝の立つところを深く掘れ、そこには泉あり。ニーチェ」
○序・・・・・岸本賀昌・沖縄私立教育会長「我琉球廣袤小なりと・・・」 
○口絵「首里城趾」「中城趾」「護佐丸之墓」「大和御神」「蔡温筆跡」「宜湾朝保肖像及筆跡」「宜湾朝保筆跡」「程順則筆跡」「儀間真常之墓」「野國總管之墓」「總管野國由来記」「自了筆」「殷元良筆」
○沖縄の代表的政治家ー向象賢 蔡温 宜湾朝保・・・・・・・・・・・・・伊波普猷
○産業界の二大恩人ー儀間真常 野國總管・・・・・・・・・・・・・・・・・眞境名安興
○名護聖人程順則・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・當眞嗣合
○二大画伯-自了と殷元良・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・眞境名安興
○劇詩家玉城朝薫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・眞境名安興
○三山統一の英主尚巴志王・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・親泊朝擢
○南島の忠臣護佐丸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・當眞嗣合

○1917年8月 親泊朝擢『沖縄県写真貼』小沢書店
□名筆ー蔡温  程順則  宜湾朝保  尚温王  尚育王 
□名画ー自了 殷元良 小橋川朝安 筆山


1913年ー写真中央が横山健堂,、右より伊波普猷、当真嗣合、伊江朝助、親泊朝擢、太田朝敷、崎浜秀主

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前列右から、嵩原安冝、神山政良、漢那憲和、尚昌、太田朝敷。他に親泊朝擢、東恩納寛惇、上運天令儀、山田真山らが居る。1915年「尚昌侯爵帰朝祝賀会」東京沖縄県人会

1920年、親泊朝擢上京し、東京高等師範附属小学校書記。


1933年7月 仲宗根源和『沖縄縣人物風景寫眞』同刊行会〇写真左から親泊朝省陸軍騎兵中尉、漢那憲和海軍少将、長嶺亀助陸軍大佐

1934年、親擢の子が朝省である。第一子の長女ツルは、 テレビなどで活躍した料理研究家の岸朝子の母と書けば親泊家もその時代もすこし身近に感 じられるだろうか。朝省と朝子は叔父と姪の間柄になる。長女ツルが嫁いだ宮城新昌(しんしょう)は、国頭(くにがみ)農学校卒。移民を引率してアメ リカに渡り、カキの養殖を志しカナダで日英合弁の水産会社をおこして重役になるなど、事業 家肌の人であった。1913年に帰国し、カキの養殖で「世界のカキ王」とも呼ばれた。 垂下式カキ養殖法を考案し、宮城県石巻市で実用化に成功し、種ガキの生産と技術者の養 成につくした。宮城の産み出した垂下式は、縦に長く吊り下げる事により深海での養殖も可能 となり狭い海域でも大量の生産が出来る事から東北のリアス式海岸にマッチした養殖法は全 国にも広がった。沖縄の実業家、宮城仁四郎氏は新昌の従弟にあたる。

岸秋正と岸文庫(県公文書館)
20歳になったばかりの宮城朝子は、叔父朝省の肝いりで、朝省の香港攻略戦以来の仲で あった、岸秋正と見合いに続き朝省・英子が仲人をつとめ結婚した。(朝省はガダルカナルで の岸秋正の中隊長としての行為に感服・感動していた。) 岸秋正は愛知県出身、陸士51期。宮城朝子は東京高等師範附属小学校から府立第三高 女に進み、女子栄養学園で学んだ。 岸秋正は戦後、沖縄関係資料の収集家として知られ、1995年に没したが、1997年、妻の朝子により、蔵書11,000冊が沖縄県公文書館に寄贈された、岸文庫と命名された蔵書には『琉球神道記』や『中山伝信録』『沖縄法制史』など希書が多数含まれている。

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