2018年4月8日『沖縄タイムス』伊佐眞一「歴史を刻んだ沖縄人①謝花昇 自立自尊 敢為の精神」

2018年5月13日『沖縄タイムス』伊佐眞一「末吉麦門冬(新聞記者)博覧強記 大人の風格」

2018年3月3日 『沖縄の軌跡』「《川崎・沖縄民権の会》=謝花昇顕彰会から発展・内地での沖縄民権を鼓舞した歴史=」181号 編集発行人・島袋和幸(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)

「謝花昇 賛歌」作詞・兼次佐一/作曲・大城政明/大城政明氏、伊佐眞一氏


1998年6月 伊佐眞一『謝花昇集』みすず書房

1980年8月20日ー『沖縄民権』表紙・儀間比呂志「皇軍は勇戦した」第14号

1980年8月20日ー『沖縄民権』表紙・儀間比呂志「皇軍は勇戦した」第14号(川崎市川崎区田町3-12-3 古波津英興方)□古波津英興「方言使用スパイ処分文書」



1983年9月23日ー『沖縄民権』表紙・儀間比呂志「菊と仏桑華」第20号(川崎市川崎区田町3-12-3 古波津英興方)


2018年3月14日 みどり印刷前でー石川和男氏(左)、島袋和幸氏/南風原文化センター前で島袋和幸氏
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2007年 沖縄県立博物館・美術館『沖縄文化の軌跡1872-2007』
新城栄徳「麦門冬の果たした役割」
□安恭の琉球風俗にふれた随筆は1915年の『琉球新報』「薫風を浴びて」が最初であるが、美術評論を試みたのは1912年である。第6回文展に入選した山口瑞雨作「琉球藩王」を見た安恭は『沖縄毎日新聞』で「王の顔に見えた表情は無意味であり無意義である。冠がどうのといっては故実家の後塵を拝するに過ぎない。作者が琉球と目ざす以上はもっと深く強く琉球人の歴史、民情、個性を研究してから筆を執らねばならなかった」と酷評。しかし長嶺華国に対しては「翁の存在は私に希望と自信と栄誉とを載せしむるに充分である」と理屈抜きで讃美している。
1911年7月27日『沖縄毎日新聞』麦門冬「忘られぬ華國會」

 華國翁は本県が琉球王国であった時代に生んだ最後の丹青家の一人である。即ち琉球王国が生んだ画家の一番末の子である、そして日本帝国の一部たる沖縄県が旧琉球から引継に譲り渡された一の誇りたるべき美術家の一人である。これだけでも私は華國會に臨んで私に希望と自信とを感せしむるに充分であるが、その上に私は華國翁と同じ字に生まれ幼年時代から其顔を知っていて華國翁というえらい画家は私の頭に古い印象を留めていると云ふ関係もあるから今度の華國會の席上に於いて私の肩身に猶更に広くならざるを得ない。私は南香主筆から今日華國會が若狭町の山城(正忠)医院で開かれるそうだから君行って見ないかと云はれた時にも私は疾うに行くと云ふことを極めてる様な気分で社を出てた。(略)私は小さい時から絵が大好きであった、探幽とか雪舟とか趙子昂とか自了とか云ふ名は私の耳には音楽のような囁きとなりそれからこれ等の名家に対する憧憬の念は私の頭に生長して段々大きく拡がっていって私自身が遂に雪舟になりたい探幽になりたいと云ふような空想をなした時代もあったがそれはすぐに或事情の為に打ち消されてしまったがそれでも猶私にはこれ等の名家の残した作物に対する憧憬崇重の念はやまない。何とかしてこれ等の名画を私の手に入れて、私がそれと日夕親しまれるようになって見たいと思ったこともある。今でもやっぱり思っている。・・・
 麦門冬が、私は華国翁と同じ字というのは首里は儀保村のことである。1960年10月の『琉球新報』に中山朝臣が「麦門冬作の『儀保の大道や今見れば小道、かんし綱引きゃめ儀保の二才達』を紹介。儀保は平地に恵まれ『儀保大道』は首里三平でも自他共に認められた大通りであった。この村の二才達(青年達)は総じて磊落、飲み、食い、歌い、踊り傍若無人の振舞で鳴らしたものである。したがって儀保村の綱引きは道路と二才達の心意気に恵まれて荒っぽい綱として有名だったという」。朝臣は11月にも麦門冬が那覇泉崎で愛妻を失って『無蔵や先立てて一人この五界に、酒と楽しみることの恨めしや』も紹介している。

□1983年1月、鎌倉の畢生の著『沖縄文化の遺宝』(岩波書店)が第10回伊波普猷賞を受賞したとき、鎌倉は談話として「沖縄美術や沖縄文化の手解きを私にしてくれた偉大な文化人、末吉安恭氏にふれたい。末吉氏に出会わなかったら、この本は世に出なかったかもしれません」と述べている。
□金城美奈子(沖縄文化の杜共同企業体・企画事業部)
東京生まれ。復帰後帰沖。高校卒業まで、国頭村で過ごした。永山信春①の画塾に通う。東京で画廊を営む叔父の影響などもあって、別府大学美術史学科に進む。同校卒業し愛媛県の私立美術館「高畠華宵大正ロマン館」の学芸員。95年秋、田河水泡「のらくろ四国上陸」企画展で出版社から未整理状態の段ボール5箱の原画が届いた。借りた全作品を資料として整理するのに半年かかった。展示したのは150点余だが好評であった。その後も漫画展や宝塚展など、大正から昭和にかけての大衆文化にかかわる展示会に参画してきた。調査や研究ばかりでなく、ミュージアム・ショップの商品や喫茶室のメニューも考えた。
□①永山信春(1939年、南大東村生まれ。琉球大学美術工芸科卒。すわ絵画道場主宰)1959年1月 那覇琉米文化会館「琉大美術クラブ絵画展」(永山信春、神山泰治、宮城孝也、平良晃、喜久村徳男、比嘉良仁、山城見信、大城宏捷、安元賢治ほか)

1981年 沖縄の雑誌『青い海』秋季号 永山信春「青い海ギャラリー/没落感覚」
帰沖し、高校の美術教諭をへて、沖縄文化の杜共同企業体に入社。2008年に沖縄県立博物館・美術館初の個展として話題になった「哀愁と血の造形 嘉手川繁夫の世界」展を担当。2009年「豊潤の美を求めて 金城安太郎と高畠華宵」、2009年「琉球絵画展~琉球王朝から近代までの絵画」、2010年「沖縄マンガ展」、2011年「生誕100年記念展 岡本太郎と沖縄ーここが世界の中心だー」、2012年「本土復帰40周年記念 田中一村展ー琉球弧で開花した美の世界」などを担当した。高畠華宵大正ロマン館の「大正イマジュリイ学会」会員。


写真ー沖縄県立博物館・美術館指定管理者 文化の杜共同企業体・金城美奈子さん


2009年7月『琉球絵画展』金城美奈子□「琉球絵画」の今日的意義ー(略)戦前、琉球の美術史研究の先駆けtなった長嶺宗恭(華国)、末吉安恭(麦門冬)、比嘉朝健、鎌倉芳太郎、伊東忠太、真境名安興、比嘉景常らが残した論考や調査研究資料は、現在でも貴重な基礎文献となっている。戦後、見識ある一部の研究者らがこれらの成果をふまえ、埋もれた絵師たちに光を当て、その発掘に尽力したことは、沖縄の美術史研究の大きな成果である。(略)1929年、平凡社から発行された『世界美術全集』には、鎌倉芳太郎、伊東忠太によって世界の絵画と同等に琉球の絵画や工芸、建築などが紹介されている。(略)戦前、伊東や鎌倉は琉球の芸術を世界の中に位置づけようと努めた。このことは現代に持ち越された沖縄の美術史の大きな課題である。
□麦門冬や鎌倉芳太郎の琉球美術史を、金城美奈子は大胆といおうか強引にも「琉球絵画展」として提示して見せた。後は琉球の芸術を世界の中にどう位置づけようとするかは若い世代に譲るべき課題かも知れない。