鎌倉芳太郎撮影「王冠」正面
佐野本に、「琉米歴史研究会」の喜捨場静夫インタビューで「(真栄平房敬によると)首里の尚家には那覇市歴史博物館に飾ってあるものより、ずっと立派な王冠があったそうです。(略)」と首里の尚家にあった王冠について述べている。鎌倉芳太郎の『沖縄文化の違宝』にはその首里にあった王冠の後面、横面の写真がある。幸いなことに鎌倉芳太郎は写真撮影メモを残してくれていてそれに王冠の寸法が記されていて王冠高さが18,9cm、ヘリは20、7cm、簪は31,8cmとなっている。上の前面と合わせてほぼイメージが出来ることになる。
那覇市立歴史博物館所蔵は高さが18,4cm、長径21,8cm、簪31,8cm、重さ605グラムとなっている。
□→1938年4月21日ー『大阪毎日新聞』「紙上琉球展覧会①」にも同様な記事がある。

王冠と皮弁服

2011年8月21日、那覇市歴史博物館に遊びに行くと、志村絵里奈学芸員が鎌倉芳太郎の『沖縄文化の遺宝』を前に王冠や衣裳の話をしてくれた。先ず、遺宝にある王冠の写真は正面と説明されているがこれは後面だという。正面は上左の新聞に載っているもの。また尚真王御後絵に「方心曲領」は明冊封使の記録には無いが清にはある。皮弁服は尚貞王から石帯をしなくなる。清からは反物でしか領賜されなかったので紋様がある。

 2011年5月1・11日『新美術新聞』光田ゆり「新美術時評・震災後の美術」に「美術は非常時に無力ではないか、という言葉は、阪神大震災のときにも発されていた。しかし被災地のがれきのなかに人々が一心に探したのが、家族の写真や記念の品だったことをテレビで知ったとき、人が生きた歴史と記憶を証するものがどれほど大切かを改めて教えてもらえた。(略)個人の記憶は地域の記憶と相互に織り込みあい、時代や歴史をつくる。そこから人は引き剥がせない。人が考え求めたことを証する物品や情報を失うことは、人の存在を損ないかねない欠落をもたらしてしまうことなのだと思える。(略)今こそ大型展覧会中心主義を見直し、美術作品と資料・情報の蓄積の場としての美術館像を提示する時ではないだろうか。地域の文化の記憶を共有し新しい活動につなげていくー」と、人が考え求めたことを証する物品や情報を失うことは、人の存在を損ないかねないと強調している。
人は今、現在起こっていることは余り気にしないものである。無くなって初めて気づくものが多い。そこで記憶が薄れないうちに那覇市史編集室について回想してみる。



1945年4月ー『沖縄新報』『琉球週報』

1961年5月20日ー那覇・首里市制施行40周年を記念して市史編集を企画。担当は企画部企画室広報係(嘱託1人)
     9月29日ー那覇市史編集委員会発足(委員15人)
1966年10月30日ー初の『那覇市史』刊行。『資料編第2巻上(近代新聞集成)』。
1967年7月15日ー那覇市史の編集、課相当の総務部市史編集室で本格的にスタート
1968年4月12日ー那覇市史編集室、家譜のマイクロ撮影を始める

1970年3月ー那覇市史編集室「市立那覇史料館」構想/史料館は、歴史博物館と文書館の両方の性格をかねた綜合資料館とし、設立時期は「那覇市制施行50周年を記念して市史編集室内に設立し、72年の復帰の時点で独立した建物をつくり移転」とある。建設経費として20万ドルを見込んでいた。主要事業に機関誌(市販)の発行をあげている。

1970年7月ー『那覇市史ニュース』第一号/第二号

1970年ー『那覇市史ニュース』第五号

1971年5月28日ー那覇市制50年記念「歴史民俗資料展」を那覇市民会館、琉球政府立博物館で開催
1974年3月4日ー新城栄徳、那覇市役所内の那覇市史編集室を初めて訪ね大阪で戦前に出された雑誌『新沖縄』を見る

1977年3月


1977年5月ー『那覇の民俗編集ニュース』№17

那覇/那覇市制90年
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1921年
3月6日ー『琉球新報』「中城湾ご仮泊に関し警保局長より県へ公電あり御上陸は不明なるも」
3月6日ー東宮(昭和天皇)来沖

3月7日ー『琉球新報』「此れ眞に千載一隅の栄誉!東宮殿下昨日中城湾に御仮泊 御上陸御自ら民情を御視察遊ばさる」

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□『史料編集室紀要』第25号 小野まさ子「新聞資料『那覇首里市制紀念号』について」



2001年8月 山里将人『アンヤタサ!戦後・沖縄の映画 1945-1955』ニライ社



左から新城喜一氏、山里将人氏、船越義彰氏、新城栄徳

2011年4月23日~7月13日「那覇の誕生祭」那覇市歴史博物館

2011年6月22日午後6時30分
那覇市歴史博物館で『沖縄・戦後の映画』著者・山里将人氏による「戦後那覇の発展~映画の興隆と国際通りの賑わい~」と題してのギャラリートークがあった。激しい地上戦が繰り広げられた沖縄戦。全てを失い、うちひしがれた市民に、活力と希望を与えたものに芝居・映画の存在がある。戦前、戦後のフイルムを駆使しての映画と那覇の歩みがコンパクトに分かる内容であった。

講座が終わり、講師の山里国手の慰労会というかパレット地下の彦で懇親会があった。出席者は我謝那覇市歴史博物館長、外間学芸員、新元庄一郎、真栄田世行(久米崇聖会顧問)、真喜志康徳、屋冨祖良介、下地隆司、市会議員の屋良栄作の諸氏と、ヤマトンチュ一人であった。

2008年3月31日、那覇市歴史博物館事務室に行くと、『那覇市史』最後の刊行物別巻<那覇市政年表・総索引>が出来あがってきたばかりであった。その別巻の年表に、1894年に日清戦争により、白党、黒党の対立は頑固党内部の2派という意味である。95年の公同会は最初「愛国協会」と称した。伊東忠太、鎌倉芳太郎来沖は1924年、31年の『沖縄日々新聞』は『沖縄日日新聞』。39年の仲宗根玄がいは玄愷、45年の『ウルマ新報』創刊日は7月26日。索引の愛国協会は後に公同会と改称し1895年に運動で上京、野村靖内相に諭された。2度目は自治党と称し1897年に行動。索引は一緒にした方が良いものとして安慶名徳潤(冨山徳潤)、池宮城寂泡(池宮城積宝)、大里康永(親泊康永)、大城立裕(城戸裕)、我謝盛翼(高安玉兎)、小橋川朝安(向元瑚)、佐渡山安健(毛長禧)、渡嘉敷唯選(渡嘉敷衣川)、仲里朝敦(発展)、山口辰吉(山口瑞雨)。また當間嗣合は当真の誤植。

『那覇市史』も全32巻の刊行が終了し、これからは歴史博物館事業で機関誌ともいうべき『紀要』でこれらの「財産目録」というべき別巻を活用して市民に提供する事業がある。かつて外間政彰が提唱した「うつくしてわかりやすい」雑誌を念頭に置かなければならない。雑誌によって市民との連帯感・信頼感が育成され知的運動が持続的に発展する。