□1926年、渋沢栄一の孫・渋沢敬三が石黒忠篤と台湾から来沖。沖縄県沖縄図書館で仲吉朝助の『琉球産業資料』を複写、これは後に小野武夫によって『近世地方経済史料』に収録される。渋沢は案内役をつとめた沖縄県殖産課長・田村浩の著『琉球共産村落之研究』を岡書院から出版させた。同行した石黒は石黒忠悳の息子、妻は穂積重陳の娘で渋沢栄一の孫娘。渋沢敬三は南方同胞援護会(現・沖縄協会)の初代会長で、また東洋大学名誉学位第1号でもある。

右端が吉田嗣延
1968年11月
『沖縄問題基本資料集』南方同胞援護会
編集スタッフ本会編集委員/責任者=吉田嗣延 委員=城間得栄、宮良長欣、河野忍、久保田芳郎、比嘉正詔 沖縄資料センター編集委員/新崎盛暉、屋宜宣仁、我部政男、比屋根照夫
1972年7月
『追補版 沖縄問題基本資料集』南方同胞援護会
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財団法人・沖縄協会(東京都千代田区霞が関3-6-15グローリアビル内)

吉田嗣延『小さな闘いの日々ー沖縄復帰のうらばなしー』文教商事/吉田嗣義『老人ホームはいまー現場からの報告』ミネルヴァ書房
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沖縄大学の吉田嗣延文庫/1930年3月『日本地理風俗大系 弟12巻/九州地方<上>琉球列島』新光社
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山田實さんは二中樹緑会の会員であった。その樹緑会の古い写真には大嶺政寛・政敏兄弟も写っている。最近、大嶺隆氏が沖縄本や雑誌に沖縄にこだわって発言しているのが目につく。私は画家・大嶺政寛さんには色々と可愛がってもらっていた。政寛さんの弟が画家・政敏、その子が隆氏である。1984年ー国会図書館に寄って帰り沖縄協会に行き、吉田嗣延氏に挨拶すると河野忍さんを紹介された。河野さんは部下の隆氏に私を紹介した。隆氏は私の話を聞き機関紙『沖縄』で紹介してくれた。
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河野忍さんハガキ→新城栄徳宛/河野さんが紹介されている沖縄の新聞1985年1月17日
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グローリアビル入口で右・河野忍さん、新城栄徳

 〇谷町4丁目界隈を散歩する。道路のあちこちでフイリヤブラン(斑入りヤブラン)が花を咲かせている。紫色の小さいもので穂状に咲いている。このヤブランの仲間を末吉麦門冬が号にしているので、あちこちで麦門冬に見つめられているようだ。大村益次郎(適塾に学ぶ)殉職難碑があった。大阪歴史博物館売店をのぞき、庁舎としては全国でも最も古い(設計・平林金吾、岡本馨/1926年竣工)大阪府庁舎を見る。玄関両脇にソテツがあった。次に大阪府警庁舎(設計・黒川紀章、2007年竣工、建設費617億円)を見る。70年代、青年運動に参加していたので、よくここ大阪府警の売店で警察資料を買った。その一つに霞が関警備研究会『警察用語辞典』(令文社1977年)が今でもある。
 『警察用語辞典』は沖縄関係の団体について詳細に記している。索引で「お」を見ると、「沖共闘」「沖青委」「沖青同」「沖縄・小笠原返還同盟」「沖縄青年委員会」「沖縄青年同盟」で、何か懐かしい名前が並んでいる。沖青同は沖縄青年同盟の略で、昭和46年10月沖青委(海邦派)を発展的に解消し、結成した。昭和46年10月18日、活動家3名が衆議院本会議場に傍聴人として入った上、爆竹を鳴らしたり、「沖縄返還協定粉砕」のビラをまくという事案を起こした、などと記されている。今思うには「密約」復帰の事実がありながら、爆竹を鳴らしたぐらいで前科が付くのは如何なものか。前科にすべきは日米両政府ではなかろうか。「密約」は今も続いている。
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下記の一泊学習会で配布された資料
1974年ー奈良で日本各地の沖縄出身の団体が集まり一泊学習会をした。私(新城栄徳)は彫刻家の金城実氏と徳田球一の弟・正次氏と同じ部屋であった。真夜中まで寝ながら正次氏と語り明かした。そのとき正次氏から徳田球一写真集を企画しているとの話が出た。

台湾愛書会
昭和8年結成、17年ごろまで活動した台湾の文化団体。書誌学研究と愛書趣味の普及を目的とした。須藤利一は台北図書館の機関誌「愛書」という。






1938年12月 台湾愛書会(①西川満)『愛書』須藤利一「琉球の算法書」
①西川満(にしかわ みつる、1908年2月12日 - 1999年2月24日)は日本の小説家、詩人。長男は経済学者の西川潤。
福島県会津若松市生まれ。父親の仕事の関係で、3歳で台湾に渡る。台北一中を経て、早稲田大学仏文科へ進学、吉江喬松に師事。卒論のテーマはアルチュール・ランボー。1933年に卒業して台湾日日新報に就職。『台湾風土記』(1939年)、『華麗島』(1939年)、『文芸台湾』(1940年)などを創刊。敗戦後の1946年、日本に引き揚げる。台湾の真理大学に蔵書2万冊余りを寄贈した。占星術もやった。→ウィキペディア 


写真ー山口栄鉄氏(右)、新城栄徳


2015年10月 浜川仁『クリフォード訪琉日記ーもうひとつの開国』不二出版。□写真「覚書「琉球の役人」「琉球の役人」「上官から伝令を受ける下位の長」「大琉球島の傘持人」「大琉球島の長たちの縁なし帽もしくはターバンの上位4階級」「大琉球島の紳士」「香炉」「大琉球島の現地人」「大琉球島の長の息子」「刺青の印」「琉球国王子のための旗手」「琉球王子の肖像」「琉球役人の立ち姿」「琉球の旗持人」「琉球島の王位継承者」「別れの場面、那覇港」「少年の素描」「琉球の男の子たちの髪型」「大琉球島の蛾」/日記ー1816年9月21日~10月27日/解説・クリフォードの仕掛けた琉球・日本の近代・・・浜川仁/参考文献の一つに1924年5月『沖縄教育』末吉麦門冬「百年前の英語通ー眞栄平房昭」、豊田實『日本英学史の研究』があった。

バジル・ホール書簡

1952年7月 仲原善忠『琉球の歴史』上/下 1953年4月 琉球郷土史研究会
1954年3月13日~25日『琉球新報』須藤利一「パーカー訪琉日記」(え・山元恵一)

須藤利一原稿「パーカー訪琉日記」□もう15年も前に、バジル・ホールの「大琉球島航海記」を当時の「沖縄教育」誌に譯載し、のちに一本にまとめて、いま御地の放送局長として相変わらず活躍しておられる川平朝申氏の手になる立派な装幀で、台北の野田書房から出版したことがある。その直後、台北図書館の機関誌「愛書」の求めに応じ、この本にて延べさらに昔から、どんなうらんだあが琉球を訪れ、どんな記録をのこしているかを調べた結果を「異国船琉球漂到記」と題して一文を草した。のちに拙著「南島覚書」(昭和19年)に収録。ウィリアム・アダムス(三浦安針)、ベニオウスキ、ラ・ペルーズ、ビーチ、ベルチャ等の航海記を読めたのは、台北大学と台北図書館の特に内田嘉吉文庫のおかげであって東京在住の今日、これらの本のまとめての再読はかえって不自由である。・・・

辻/田村浩 『琉球共産村落之研究』

那覇市上泉町にありて辻町遊女の拝所となれり


波上神宮以前の御拝所に祀りたる
田村浩 たむら-ひろし
1886-1945 大正-昭和時代前期の官吏,沖縄研究者。
明治19年5月5日生まれ。沖縄県の県視学,国頭(くにがみ)郡長,県産業課長をつとめ,その間に沖縄の地割制度や村落を調査・研究。のち東北各県の経済部長などを歴任した。昭和20年7月4日死去。60歳。群馬県出身。日大卒。著作に「沖縄経済事情」「琉球共産村落之研究」など。→コトバンク