右、久部良和子さん、新城良一氏


1993年11月『一誠堂書店九十周年記念 古典籍善本展示即売会目録』

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1790年 デフォー『ロビンソンクルーソー漂流記』ロンドン刊


1986年9月 出口保夫『イギリス文芸出版史』研究社出版/2006年5月 内間直仁・野原三義『沖縄語辞典』研究社
〇1768年から1826年ー最初の時代(初版から第6版まで)ブリタニカはコリン・マックファーカー、アンドリュー・ベル、アーチボルド・コンスタブルら創始者によって出版された。ブリタニカは当初 Encyclopædia Britannica, or, A Dictionary of Arts and Sciences, compiled upon a New Plan として、1768年から1771年にかけてエディンバラで出版された。 チェンバーズのサイクロペディア(1728年初版)に影響を受けたドゥニ・ディドロとジャン・ル・ロン・ダランベールの百科全書(1751年から1772年発刊)に触発された面もあった。ブリタニカの出版は主にスコットランドを基盤としており、スコットランド啓蒙主義(英語版)の不朽の遺産である。この時代にブリタニカはある若い編集者、ウィリアム・スメリによって初版の3巻から、大勢の権威によって書き綴られた20巻へと変わった。→ウィキ
 ロンドンにあるジェフリーの家でシドニー・スミス(Sydney Smith)、ヘンリー・ブルーアム(Henry Brougham), フランシス・ホーナー(Francis Horner)らが集まった際にスミスが新しい文芸雑誌の発案をし、それがきっかけで1802年10月10日の『エディンバラ・レビュー』(Edinburgh Review )創刊に至った。 当初『エディンバラ・レビュー』には編集者がおらず、最初の3号はスミスの手によって編集がなされたが、彼がロンドンに発つ際に業務はジェフリーの手に委ねられ、1803年から1829年の間、上院での弁護士業務の傍らで当雑誌の編集者を一人で務めた(33号と34号、及び1813年から1814年のアメリカ滞在期間を除く。→ウィキ

1818年ー『エディンバラ・レビュー』フランシス・ジェフリー「書評『ホール艦長の琉球航海記』」


 パーシー・ビッシュ・シェリー Percy Bysshe Shelley (1792-1822) はイギリス・ロマンティシズムを代表する詩人である。シェリーはロマンティシズムの詩人たちはもとよりイギリス文学全体の伝統から見ても、社会的な関心を強く打ち出した異才であったといえる。

 映画「ローマの休日」真実の口の前で新城良一氏/同じくスペイン階段→現在はスペイン広場付近の地下鉄入り口付近に階段を上らずに上にいけるエレベーターが設置されている。また、保護のため広場での飲食は禁じられており、ローマの休日のシーンのようにジェラートを食べる事はできない。/スペイン階段のすぐ脇に、イギリスの詩人「キーツ」が暮らしたアパートがあります。バイロンも一時期居候していたという、その小さなアパートは、現在ではキーツ&バイロン記念館として公開されています。→上野真弓
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キーツの横顔(ジョセフ・セヴァン画)/キーツ・シェリー・メモリアル・アソシエーションは、ローマ観光の中心的場所のひとつ「スペイン広場」の大階段の脇にある。キーツは、イギリス人の詩人、この場所で亡くなられたので彼の遺品などを展示。


リアルト橋 は、ヴェネツィアのカナル・グランデに架かる4つの橋の一つ。「白い巨象」とも呼ばれる。 この橋の周辺は海抜が比較的高く洪水の被害も少ないため、ヴェネツィアでは最も早くこの周りに集落ができ商業の中心地となった。最初は木製の跳ね橋で、銀行や商品取引所で賑わっていたため「富の橋」と呼ばれた。→ ウィキ

 400を超えるイタリアの国立美術館の中でも入館者数3位を誇るウフィツィ美術館。ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」や「春」、レオナルド・ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの三大巨匠の作品が展示されたルネサンスの栄光の歴史を物語る.。

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レオナルド「最後の晩餐」

 サン・マルコ広場はヴェネツィアの中心的な広場で、回廊のある建物に囲まれ、ドゥカーレ宮殿やサン・マルコ寺院などがある。ヴェネツィアの広場は方言でカンポと呼ばれるが、サン・マルコ広場は別格であり、ピアッツァと呼ばれる。世界で最も美しい広場とも言われており、観光名所のほか、海からの玄関口でもある。→ ウィキ


セザンヌ街道・セザンヌの記念碑ーサント・ビクトワール山を描くために、たまに昼食をとりにこの街に立ち寄ったセザンヌ。彼がなくなってから100年後に、この街はセザンヌへのお礼としてこの碑を作った。
エクス=アン=プロヴァンスまたはエクサンプロヴァンスは、フランスのブーシュ=デュ=ローヌ県の古都。略称はエクス。プロヴァンス伯爵領の首都として古くから繁栄し、現在は学術・芸術都市としてプロヴァンス地方の観光の拠点となっている。ウィキペディア


2016年 オペラ座/シテ島に聳える壮大なノートル・ダム大聖堂

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1973年8月 昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書』第三十八巻「江見水陰/バジル・ホール・チェンバレン/坪内逍遥」昭和女子大学

 芦屋市に谷崎潤一郎記念館があるという。未だ行ったことがない。ネットで見ると、谷崎潤一郎記念館は、開館より30年以上が経過し、施設の老朽化が進んでいることから、施設の保全・長寿命化を図るため、空調換気設備改修・トイレ改修・消防設備改修等の改修工事を実施◇令和4年7月25日~令和5年3月末(予定)

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『昭和6年 初版本 ◆ 谷崎潤一郎 ◆ 卍 ◆ 中川修造 装幀 ◆改造社』/谷崎潤一郎「都わすれの記」昭和23年 限定品 総木版手摺 挿絵 和田三造 創元社/谷崎潤一郎直筆サイン入『少将滋幹の母』/谷崎潤一郎 「春琴抄 自筆原稿複製」中央公論社 、昭45 限定五百部 帙 函 谷崎松子添え書き(印刷)付

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樋口富麻呂描く「春琴」
 ☆1934年1月1日『南島』弟9号 石川正通「比嘉俊成を語る 琉友素描・その1」(略)潤一郎対春夫の諸相は不思議にも俊成対正通のそれに似通って居る。幸田露伴の如き老大家はさておき、今の文壇の中堅大家のうちで最も漢学の素養の深いのは志賀直哉、谷崎潤一郎、佐藤春夫の3人である。死んだ芥川龍之介も死んだ末吉麦門冬のやうによく漢文が読めた。沖縄には真境名図書館長や京都の崎山先生のやうな漢学の大家が居られる。

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1947年9月 谷崎潤一郎『磯田多佳子のこと』全國書房〇磯田又一郎氏による「川沿いの家」義母、多佳の住まいを描いた日本画この図は、後年改装後の絵だという。小庭には、多佳の愛した花”紫陽花”が咲いている。すぐ下に白川がさらさらとながれ、吉井勇の有名な歌”かにかくに祇園はこひし寐(ぬ)るときも枕のしたを水のながるる”を実感出来る風景である

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1991年12月 長谷川敬『旅情の文学碑』毎日新聞社 「木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに 春の川を 隔てて 男女哉 漱石」

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1951年5月『うるま新報』/1951年12月
 〇谷崎潤一郎☆大正時代には当時のモダンな風俗に影響を受けた諸作を発表、探偵小説の分野に新境地を見出したり、映画に深い関心を示したりもし、自身の表現において新しい試みに積極的な意欲を見せた。関東大震災の後、谷崎は関西に移住し、これ以降ふたたび旺盛な執筆を行い、次々と佳品を生みだした。長編『痴人の愛』では妖婦ナオミに翻弄される男の悲喜劇を描いて大きな反響を呼ぶ。続けて『卍』、『蓼喰ふ虫』、『春琴抄』、『武州公秘話』などを発表し、大正以来のモダニズムと中世的な日本の伝統美を両端として文学活動を続けていく。こうした美意識の達者としての谷崎の思想は『文章読本』と『陰翳禮讚』の評論によって知られる。この間、佐藤春夫との「細君譲渡事件」や2度目の結婚・離婚を経て、1935年(昭和10年)に、元人妻の森田松子と3度目の結婚をして私生活も充実する。太平洋戦争中、谷崎は松子夫人とその妹たち四姉妹との生活を題材にした大作『細雪』に取り組み、軍部による発行差し止めに遭いつつも執筆を続け、戦後その全編を発表する(毎日出版文化賞、朝日文化賞受賞)→ウィキ

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1958年10月 昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書』第10巻 「E・F・フェノロサ」「L・L・ジェーンズ」「依田學海」

 依田學海[生]天保4(1833).11.24. 江戸[没]1909.11.27. 東京
漢学者,演劇評論家,劇作家。名は朝宗,字は百川,通称七郎,学海は号。演劇改良の局外指導者の先駆をなした。幼時,佐倉藩の学校で漢学を修め,長じて経史を藤森弘庵の塾に学んだ。儒官となり,権大参事,修史局編輯官,文部書記官などを歴任,1885年退官。以後,小説,戯曲の執筆に従事。書記官時代,松田道之らと 12世守田勘弥や9世市川団十郎に演劇改良の趣旨を吹込み,新富座開場公演『松栄千代田神徳』に参与,団十郎の求古会にも関係した。退官後は演劇改良会創立に参加,改良脚本『吉野拾遺名歌誉』を発表。その後日本演芸矯風会,日本演芸協会にも参加したが,急進的,非妥協的改良論により疎外され,その実現を伊井蓉峰の済美館に託したが,『政党美談淑女之操』上演だけで終った。戯曲に『拾遺後日連枝楠』,評論に『新評戯曲十種』などがある。



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トルストイ『復活』内田貢訳 丸善1908年/レフ・トルストイ『脚本 復活』アンリ・バタイユ脚色・島村抱月再脚色、新潮社、1914年3月。

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1969年2月 木村毅『丸善外史』


1993年6月 安田寛『唱歌と十字架 明治音楽事始め』音楽之友社


2019-6-26 末吉安允氏と/良一氏の新車。急発進しない構造になっているという。

文庫/岩波文庫


『ウフィツィ美術館』公認ガイドと『研究社英文學叢書』/紀田順一郎『古書街を歩く』「文庫の森をさ迷って」/ボズウェル『サミュエル・ヂョンスン伝』(岩波文庫)→新城良一氏所蔵
 サミュエル・ジョンソンは、イングランドの文学者。「英語辞典」の編集で知られる。 18世紀英国において「文壇の大御所」と呼ばれた。親しげに「ジョンソン博士」と称される。その有名な警句から、しばしば「典型的なイギリス人」と呼ばれる。主著に『英語辞典』、『詩人列伝』、『シェイクスピア全集』など。 ウィキ
ジェイムズ・ボズウェルは、スコットランド出身の法律家、作家。伝記文学の傑作と評される『サミュエル・ジョンソン伝』の著者として知られる。ボズウェルが遺した日記も日記文学として評価されている。 ウィキ

文庫/岩波文庫




2000年3月 外間守善・校注『おもろさうし』
2000年12月 伊波普猷・著/外間守善校訂『古琉球』


岩波文庫(いわなみぶんこ)は、株式会社岩波書店が発行している文庫レーベル。1927年(昭和2年)7月10日創刊。ドイツのレクラム文庫を模範とし、古典的価値を持つ書物を刊行する。最初の刊行作品は『新訓万葉集』などである。→ウィキペディア



1月:ジャニュアリー
  年の初め、新年は何かと物入りだ。銭有りー?
2月:フェブラリー
  少し暖かくなって危険なハブも活動する。ヘビラリー!
3月:マーチ
  入学や就職を控え大事な月。待ーち!
4月:エイプリル
  陽気に誘われフリムンが。エイ、フリル!
5月:メイ
  五月病で気分も沈みがち。滅入!
6月:ジューン
  ピュアな恋が実りようやくブライダル。純!
7月:ジュライ
  照りつける太陽、夏の暑さ。チュライ!
8月:オーガスト
 ドライブ中お腹が空くもやっと見つけた。オオ、ガスト!
9月:セプテンバー
 過ごしやすい季節につい気も緩みがち。サボテンバー!
10月:オクトーバー
  忘れ物にはくれぐれも注意。置くとパー!
11月:ノーベンバー
  食欲旺盛、食べ過ぎて通じが気になる。ノー便、ハァ!
12月:ディッセンバー
  最終月、まだまだやることはいっぱい。実践ダー!