2018年9月『広報あぐに』「粟国村教育委員会通信22号ーヤガンウユミ(ヤガン折目)を知ろう」
= 由来 =
その昔、島の北側の野厳原(ヤガンバル)で毎年6月(旧暦)になるとそこに居る荒ぶれたヤガンの神様に畑の作業にきた人々が目をえぐられたり、鼻をそがれたり、妊婦は流産させられたりしたそうです。
 困った島の人々は、沖縄本島北部の今帰仁城の王様に何とか治めて下さいとお願いに行きました。王は家来の平敷大主(へしきうふしゅ)にこの荒ぶれた神を治めるように命じました。
平敷大主はバーイ(千魚)、粟や酒(ミチ:ソテツの実を発酵させたお酒)を準備させ島のノロ(神人)達といっしょにその荒ぶれた神を野厳原から拝所のイビガナシーまで誘い出し、用意したバーイやお酒でもてなしました。 その後、ヤガンの神はイビガナシーに鎮まった。その後この荒ぶれた神様も島の人々に悪さをしなくなったそうです。 荒ぶれるヤガンの神様を鎮めた平敷大主を村の人々はイビガナシー隣のエーヌ殿の中に今帰仁神として祀った。
 それで、毎年旧暦の6月24日、25日、26日は、神を鎮める祭り「ヤガンウユミ」が行われてきました。 もともと「ヤガンウユミ」は、神を鎮める祭りでしたが、現代は、島の繁栄と人々の健康祈願が主のようです。


1971年10月 沖縄の雑誌『青い海』新城栄徳「ふるさと粟国を思う」
『青い海』1971年11月号で「もう一つの沖縄・離島」の特集をやることになって、津野編集長が筆不精の私に粟国島のことを書けと注文。断るとメモ書きでも良い、こっちで文章にするからということなので書いたのが「ふるさと粟国を思う」である。初めにヤガンウユミ、グーシー、河村只雄の『南芳文化の探究』、『沖縄の犯科帳』、『球陽』などを引用している。これらは沖縄関係資料室蔵書から得たものである。これが『青い海』に書いた唯一のモノである。


ベースギター(並里祐一) ボーカル、ギター(濱川政敏) ドラムス(新垣雄二)

居酒屋・くちがふう ☎098-868-5711




2018年5月 上間篤『中世の今帰仁とその勢力の風貌ー元朝に仕えたアラン人と攀安知ー』ボーダーインク
中世今帰仁の後期勢力を率いた武将攀安知〈ハン・アンチ〉とその勢力ゆかりの出土物や伝世史料といったものに、騎馬文化及びアラン人〈元史には主に阿速の名で登場〉ゆかりの性格を帯びた種々の文物が確認されるのはまことに興味深い限りである。本著の狙いとする所は、上に言及した文物史料を拠り所にして関連情報の洗い出しを図り、それに基づいて攀安知及び彼が率いた勢力の風貌を描くことにあるが、さらにかかる試みは中世今帰仁の歴史の謎に迫る誘い水にもなると考えられる。
 アラン人(アラン族、Alans)は、紀元後に北カフカスから黒海北岸地方を支配した遊牧騎馬民族。イラン系遊牧民族であるサルマタイを構成する部族のひとつ、ないしいくつかの総称。アラニ(Alani),アラウニ(Alauni),ハラニ(Halani)ともいう。 紀元後1世紀後半、文献記録においてアオルシ(アオルソイ)の名が消え、それに代わってアランという名の遊牧民が登場するようになる。このアランをサルマタイの一部と考える研究者が多く、中国史書の『後漢書』西域伝「奄蔡国、改名して阿蘭聊国」や、『魏略』西戎伝「奄蔡国、一名を阿蘭という」といった記述から、「奄蔡」をアオルシに、「阿蘭」をアランに比定することがある。考古学的には、黒海北岸における2世紀から4世紀の「後期サルマタイ文化」を、アランの文化と見なす見方もある。→ウィキ

沖縄県地域史協議会
1978年6月 『関西今帰仁村人会結成記念・会員名簿』
1978年11月4日 沖縄県地域史協議会第一回総会(結成大会)開かれる。
□運営委員ー田名眞之(那覇市史)、又吉盛清(浦添市史)、中村誠司(名護市史)、荻堂盛良(本部町史)、渡名喜元久(佐敷村史)/監査委員ー仲宗根将二(平良市史)
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1978年11月20日 『沖縄県地域史協議会ニュース・1』
中村誠司□私は新石器時代風ヤンバル人で、ヘンな大和人(大阪府)だ。大阪に生まれ広島で学生を過ごし、沖縄を学びはじめて40年。山原に定住して早や34年。妻はかつて今帰仁美人? 山原がずっと大好きである。モットーは、「歩き・見る・聞く」。山原で地域研究をはじめ、いろんな地域文化活動や地域おこし活動に参加してきた。稀の休日は妻の運転で山原の集落と風景を歩くのが趣味。山原(人)がもっと生き生きと楽しく美しくなることが願いである。それに連なる活動を楽しんでいる。
1981年1月15日 『沖縄県地域史協議会ニュース・2』田名眞之「パル石をめぐってー研修会への呼びかけー」
1982年7月10日 『沖縄県地域史協議会ニュース・3』上間常道「本づくりと編集者の役割」(記念講演メモ)
1982年10月 「第1回 沖縄県地域史まつり」(那覇市民会館)□沖縄県地域史協議会『沖縄・奄美地域資料総合目録』
1987年6月19日 『沖縄県地域史協議会誌 10』仲原弘哲「笹森儀助の山原関係資料について」
1987年11月 「第2回 地域史まつり」(浦添市民会館)
1988年12月 名護市史編さん室『名護市の歴史碑をめぐる・1』(仲原弘哲・執筆)
1989年4月25日 『すくみち 第1号』今帰仁村教育委員会・今帰仁村歴史資料館準備室
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今帰仁村歴史文化センターの刊行物
1997年5月 『沖縄県地域史協議会誌 第20号』□事務局 〒905-04沖縄県今帰仁村字今泊5110番地 今帰仁村歴史文化センター
1991年8月 「第3回 地域史まつりー沖縄の市町村史・字誌総合目録」(浦添市民会館)
1998年5月 『沖縄県地域史協議会誌 第21号』□事務局 〒905-04沖縄県今帰仁村字今泊5110番地 今帰仁村歴史文化センター
1998年11月 「第4回 地域史まつりー地域史資料展・資料目録」(那覇市民ギャラリー)□仲原弘哲「『沖縄県地域史資料展』目録の発行によせて」
          仲原弘哲「大会テーマ研究会ー沖縄地域史協議会20年の歩みと地域史の活動」


2015年10月31日 沖縄県立博物館・美術館でー左から仲原弘哲氏、金城善氏、大湾ゆかりさん、片桐千亜紀氏


写真左が上間常道氏、目取真俊氏
目取真俊
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1987年3月1日『樹海1』(目取真俊・個人誌)/1985年9月『季刊おきなわ1』・1985年12月『季刊おきなわ2』
1989年6月『すくみち』第3号 「準備室の動きー6月1日、島袋正採用」
1990年3月『すくみち』第11号 「『琉球新報』3月13日ー『すくみち』10号を発行」(写真・仲原弘哲、仲里千恵美、島袋正)
1999年11月12日『琉球大学学生新聞』「2000年サミットと沖縄基地問題」
□目取真俊ー貴大学の高良倉吉先生のごとき御用学者は、『沖縄は主催者である政府の良いパートナーとしてサミットを成功させ、政府との新しい関係を築く布石として使えばいい。』(『アエラ』6/21号)などと述べていますが、いかにもマキャべリストらしい発言で笑止の極みです。(略)」
1998年『EDGE』№9 目取真俊「そこらへんをもっと、深めていかないと、高良倉吉みたいになるわけですよ。琉球王朝史観みたいなものを振りまわして、否定的な沖縄の歴史像に対し大交易時代の明るい俗受けするような歴史観をもってくる。しかし結局は現実主義の名のもとに政府の『沖縄政策』に対する批判力を失っていく。そういった危険性というのは絶えずあるわけです。」