2018年10月 『絵で解る琉球王国 歴史と人物2』JCC出版 島袋百恵「泰期」


島袋百恵・画「冨名腰(船越)義珍」



島袋百恵・画「城間榮喜」
1978年11月 『沖縄紅型 城間栄喜作品集』京都書院□渡名喜明-終戦直後首里市に文化部が設置され、部長の豊平良顕氏を先頭に活発な文化運動が行われた。首里城をはじめとする市内の旧跡からは市民の手で文化財の残欠の収集活動が盛んに行われ、昭和21年3月には首里市郷土博物館が設立された。城間栄喜氏は仕事のことで博物館に出入りし、館長を兼ねた豊平氏や2代館長の原田貞吉氏の激励を受けた。実業家の稲嶺一郎氏や名渡山愛順氏の激励があったのもこの時期である。昭和25年にはじめて国展に首里風景の紅型を出品した。昭和27年まで出品を続け、毎回入選した。戦後の混乱が続くなかで、一介の職人が日本本土の展覧会に作品を出品し、入選したというニュースは時の文化人を驚かせたものだと城間氏は笑って語る。

城間氏の紅型は次第に人々の注目をひくようになった。昭和27年から画家の末吉安久氏をはじめとして同じく画家の大城貞成、屋宜元六(1923 - 1996)、森田永吉氏等が紅型を習うためにつぎつぎ城間氏のもとに通い始めた。4氏ともに沖縄美術家連盟の会員として、また末吉、大城、屋宜の3氏は、豊平良い顕氏等の主唱で昭和24年から始まった沖縄タイムス社主催の「沖展」の当初からの主要メンバーとして、時の沖縄画壇の指導的立場にあった人々である。名渡山千鶴子、渡嘉敷貞子、藤村玲子さん等女性グループが城間氏の工房に通うようになったのもこの年である。紅型の家系とは無縁な画家や女性が本格的に紅型を学ぶということは、戦前では考えられないことであり、これらの人々が紅型復興にはたした役割を思うとき、この昭和27年という年は戦後の紅型の歴史のなかで画期的な意義を持つ年である。この年の10月に城間氏は高江洲鶴子さんと再婚、鶴子さんは家業を手伝っていた長女道子さんとともに城間氏を助けることになった。



1987年3月 那覇市民ギャラリー「明治・大正生まれの作家たち」 屋宜元六「がじまる」、屋宜元六、儀間比呂志/1989年3月 儀間比呂志『新版画風土記 沖縄』海風社〇琉球紅型ー紅型作家の屋宜元六君は、私の戦前からの数少ない画友である。儀間比呂志「がじまる」

翌年の昭和28年5月に、城間氏を中心に「琉球紅型技術保存会」がつくられた。メンバーは画家の名渡山愛順、末吉安久、大城皓也、大嶺政寛、大城貞成、屋宜元六、主婦の名渡山鶴子、渡嘉敷貞子の各氏である。やるからには昔通りのすばらしい紅型をつくろう、というのが会員に共通する思いであった。いつまで続くともわからない米軍支配のもとで、そして日本復帰など思いもよらない状況下で、画家や新聞人をはじめとする住民の伝統文化再建にかける意気込みはすさまじかった。終戦直後から芸能活動は盛んであったが、柳宗悦の沖縄文化論等を支えにして、伝統工芸復興の気運もいよいよ高まってきた。紅型復興はその先端を行く運動となり、「紅型技術保存会」は産業としての道を模索すべく「琉球紅型技術振興会」に改称、琉球政府から15万円の補助金を受けた。この補助金は材料の購入費や工房の建築費用となったほか、東京在住の鎌倉芳太郎氏所蔵の紅型型紙を複写する費用に当てられた。大嶺政寛氏が上京して染色作家の岡村吉右衛門氏とともに鎌倉氏を訪ねたところ、、同氏は所蔵する型紙のなかからすぐれた型紙3百枚を快く選ばせてくれたという。複写された型紙が紅型復興に大いに役立ったことはいうまでもない。

1987年3月 那覇市民ギャラリー「明治・大正生まれの作家たち」