盆の挨拶回りで親戚のところから帰ると『日本古書通信』(日本古書通信社 〒101-0052 千代田区神田小川町3-8 駿河台ヤギビル5F ☎03-3292-0508 FAX:03-3292-0285)が来ていた。本日は物外忌((沖縄学の父・伊波普猷の命日)である。『日本古書通信』1045号の「バジル・ホール来琉200周年」には伊波普猷のことも記している。


2016年8月 『日本古書通信』1045号 新城栄徳「バジル・ホール来琉200周年」

 わが国に航海術や造船術を伝えた英国人ウィリアム・アダムズ(三浦按針)や、平戸のイギリス商館長を勤めた リチャード・コックスも努力した人たちである。アダムズはオランダ船リーフデ号の水先案内人として当時の豊後(大分県)に 漂着した人物である。その後、平戸のイギリス商館長リチャード・コックスの命を受け、シー・アドヴェンチャー号の船長として、 タイへ向かう途中乗組員の不穏な動きを察知して、五島に引き返しているが、その際沖縄から持ち帰った一袋のサツマイモをコックスに 送っている。時に1615年6月2日のことで、コックスはその日の日記に「大御所が大阪の城を取り、フィディア(秀頼)様の軍を 滅ぼした」報せを受けたとも記している。6月19日になって、コックスは、「庭を手に入れて、リケア(琉球)から将来された藷を そこに植え」、1年当たり10匁(英貨5シリング)を支払うと記している。すなわち、平戸に菜園を借り栽培を試みたわけである。 しかし、その後の実績は記されていない。現在平戸の川内浦の鳶の巣に「コックス甘藷畑跡」が残っており、この地域ではサツマイモを 「琉球イモ」または単にイモと呼んでいたといわれるが、そうであるとすると、何らかの実績が見られたのではないかと想像される。→鈴木俊(東京農大国際食料情報学部教授)

1796年 英船プロビデンス号虻田に来航。翌年室蘭に来航
1798年 近藤重蔵、択捉を調査。帰途ルベシベツ山道を開く
1811年 国後でロシア艦ディアナ号艦長ゴローニンが幕府の警備隊に捕らえられる

 バジルホールの現在の認知度を画像検索すると「バジルホール(@ashurnasirpal2)」が出て満島ひかりちゃんが出てきた。「満島ひかり」を検索すると、女優の黒柳徹子の自伝的エッセイ『トットひとり』『トットチャンネル』を原作にしたNHKドラマ『トットてれび』で、満島ひかりが黒柳役を務めているが、映画「夏の終り」では若き日の瀬戸内寂聴を艶っぽく演じている。さらに検索すると沖縄県沖縄市出身。ユマニテ所属。弟は俳優の満島真之介、妹はモデルの満島みなみ、となっていて、初めて沖縄出身だとわかった。話が本題から逸れてしまったが、この偶然も必然として見逃してもらいたい。正確にバジル・ホールでウィキペディアを見ると「19世紀のイギリスの海軍将校、旅行家、作家。インド洋、中国、琉球、中南米各地を航海したことで知られる。ベイジル・ホールと記述されることも多い。 ナポレオン1世に『琉球では武器を用いず、貨幣を知らない』と伝えた」とある。また 「Facebook/バジル・ホール研究会」も参考になる。
 
1816年(文化13)7月25日、イギリス軍艦アルセスト号(艦長マレー・マクスウェル)・ライラ号(艦長バジル・ホール)、那覇に投錨/9月6日、首里王府、マクスウェル館長の国王への謁見要請を謝絶。/7日、両船、那覇を離れる。後にライラ号の乗組員だった退役軍人ハーバード・J・クリフォードが中心となり、琉球海軍伝道会を創設、ベッテルハイムを派遣することになる。→2014年2月 生田澄江『幕末、フランス艦隊の琉球来航ーその時琉球・薩摩・幕府はどう動いたかー』近代文藝社

Basil Hallは1788年12月31日、スコットランド エディンバラで生まれて、1844年9月11日ポーツマス王立ハスラー病院で死去(55歳)。
「経済学の父」ことアダム・スミス、詩人のキーツ、ウォルター・スコット、シャーロック・ホームズの生みの親コナン・ドイル、『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』の作家ロバート・ルイス・スティーヴンソン、ジェームズ・ボズウェル、トマス・カーライル、俳優のショーン・コネリー、ユアン・マクレガー、ジェラルド・バトラーなどはスコットランドの生まれである。
スコットランドは、産業革命以前より、科学・技術の中心地であったため、多くの科学者・技術者を輩出している。その発見・発明は、現代社会にはなくてはならないものが多い。電話を発明したグレアム・ベル、ペニシリンを発見したアレクサンダー・フレミング、蒸気機関を発明したジェームズ・ワット、ファックスを発明したアレクサンダー・ベイン、テレビを発明したジョン・ロジー・ベアード、空気入りタイヤを発明したジョン・ボイド・ダンロップ、道路のアスファルト舗装(マカダム舗装)を発明したジョン・ロウドン・マカダム、消毒による無菌手術を開発したジョゼフ・リスターなどはスコットランドの生まれである。
羊の内臓を羊の胃袋に詰めて茹でたハギスが有名。また、スコッチ・ウイスキーは定義上スコットランド産でなければならない。スコットランドには、100以上もの蒸留所があり、世界的にも愛好家が多い。
コリン・ジョイス(『驚きの英国史』NHK出版新書 2012年pp.79-83)ではイギリス人の生活を皮肉って次の物がすべてスコットランド人によるものだとしている。マーマレード、レインコート、自転車、タイヤ、乾留液(タールマック舗装)、蒸気エンジン、イングランド銀行、糊つき切手、タバコ、電話、ローストビーフ、アメリカ海軍、麻酔薬などである。『聖書』にもスコットランド人が最初に出てくるが、これはジェームズ6世が英訳を進めたからである。→ウィキ


『バジル・ホール琉球航海記』最も大きいのが初版(1818年)で、小さいのが3版(1826年)
2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

那覇市歴史博物館で「バジル・ホール来琉200周年記念/ウランダーがやってきた!」の図録を見せてもらった。上の地図に書き込みがある地図も掲載されていた。担当の鈴木学芸員がネット「ヨーロピアナ」①で収集したフランス国立図書館蔵のものだ。(2016ー8ー4)

①欧州委員会は、EU加盟国の図書館や博物館が所蔵する書籍、文献、映像、絵画などを検索・閲覧できる「ヨーロピアナ」という電子図書館を開設した。インターネットを通じて、400万件以上のデータに無料でアクセスすることができる。ヨーロピアナは、2008年11月20日に公式オープン。ところが、初日の1時間で1000万件を超えるアクセスがあり、サーバーが停止してしまった。モナリザの絵やベートーベンの楽譜といった有名なアイテムも閲覧することができ、大変な人気となったためだ。オープン早々「一時休館」となったヨーロピアナは、その後、コンピューターの処理能力を上げて、12月24日に再オープンした。ヨーロピアナは、EU加盟国の公用語である23言語で利用可能であり、欧州市民の誰もが身近に利用できるよう配慮されている。もちろん、日本からもアクセスできる。欧州の図書館や博物館が所有する日本関連のアイテムも閲覧することできる。


「ベッテルハイム」2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

1844年4月28日 フランス人ジャン・バチスト・セーシユ提督率いる5隻の東洋艦隊麾下のフォルニェル・デュプラン大佐の軍艦アルクメーヌ号を琉球へ分遣。宣教師テオドール・オーギュスト・フォルカードと清国人伝道師オーギュスタン・高を那覇に残して5月6日に出帆。→2014年2月 生田澄江『幕末、フランス艦隊の琉球来航ーその時琉球・薩摩・幕府はどう動いたかー』近代文藝社

1853年6月ーペルリ、首里城訪問□→1926年10月ー神田精輝『ペルリ提督琉球訪問記』/1935年3月ー土屋喬雄『ペルリ提督日本遠征記』弘文荘(沖縄県立図書館所蔵本は国吉真哲寄贈)/1947年2月ー大羽綾子『ペルリ提督遠征記』酣燈社/1962年6月ー外間政章『対訳ペリー提督沖縄訪問記』研究社/1985年10月ー金井圓『ペリー日本遠征日記』雄松堂/1994年4月ー大江志乃夫『ペリー艦隊大航海記』立風書房

 1856年、チェンバレンは母親エライザ・ジェインの死によって母方の祖母とともにヴェルサイユに移住した。それ以前から英語とフランス語の両方で教育を受けていた。またフランスではドイツ語も学んだ。帰国し、オックスフォード大学への進学を望んだがかなわず、チェンバレンはベアリングス銀行へ就職した。彼はここでの仕事に慣れずノイローゼとなり、その治療のためイギリスから特に目的地なく出航した。1873年5月29日にお雇い外国人として来日したチェンバレンは、翌1874年から1882年まで東京の海軍兵学寮(後の海軍兵学校)で英語を教えた。1882年には古事記を完訳している(以下略)。前出の『チェンバレンの交友』には「日本を広く世界に紹介した人というと、ハーンをあげるものが多い。少し前ならシーボルト。ところが西洋ではシーボルトの次はチェンバレンである。」とし、友人としてサトウ公使、アストン、小泉八雲、門弟の和田万吉、岡倉由三郎(註)らとの交友を紹介している。

岡倉由三郎 生年慶応4年2月22日(1868年) 没年昭和11(1936)年10月31日 英語学者。天心の弟
出生地神奈川・横浜 学歴〔年〕東京帝大文科選科
経歴東大選科でチェンバレンに言語学を学ぶ。東京府立一中教諭、七高教授を経て明治29年嘉納治五郎校長の招きで東京高師教授。新村出らと「言語学雑誌」を発刊、35年から独、英に留学。大正15年に東京高師を退官するまで英語科の主任を務めた。その後、立教大学に奉職。開始当時のNHKラジオの英語講座では巧みな話し方で人気を集め、外国語教育、基礎英語の普及に大きな功績を残した。ヘボン式ローマ字の採用を主張したほか、昭和8年出版された「新英和大辞典」は岡倉辞典といわれ、一般に広く用いられた。→コトバンク
岡倉天心の長男の岡倉一雄は朝日新聞記者で、岡倉覚三の伝記をまとめた。孫(一雄の子)の岡倉古志郎は非同盟運動にも関わった国際政治学者、曾孫(古志郎の子)長男の岡倉徹志は中東研究者、玄孫(徹志の子)長男の岡倉禎志は写真家、玄孫(徹志の子)次男の岡倉宏志は人材開発コンサルタント、西洋史学者の岡倉登志は天心の曾孫にあたる。→ウィキペディア/ラングドン・ウォーナー(一八八一〜一九五五)は、ハーバード大学で考古学を専攻。卒業後、五浦で岡倉天心の薫陶を受け日本美術を研究。
1909年11月、アメリカ人・ウォーナー来沖。

1991年5月30日『琉球新報』松島弘明「文化ノート/ウォーナー資料を追え」
1996年5月17日『沖縄タイムス』「ワーナー資料沖縄の民芸品 米博物館が保存」
 ラングドン・ウォーナー(Langdon Warner、1881年8月1日 - 1955年6月9日)は、アメリカの美術史家。ランドン・ウォーナーとも表記される。太平洋戦争中に日本の文化財を空襲の対象から外すよう進言した人物とされるが異論も多い。マサチューセッツ州エセックス生まれ。1903年ハーバード大学卒業。卒業後ボストン美術館で岡倉天心の助手を務め、1907年に同美術館の研修候補生として日本に派遣された。1910年にロンドンで開催される日本古代美術展の準備をしていた岡倉らを手伝い、3冊の詳細な出品カタログ『日本の寺とその宝物』の英訳に協力した。帰国後東洋美術史を講義、ハーバード大学付属フォッグ美術館東洋部長を務めるなど、東洋美術の研究をした。1946年、米軍司令部の古美術管理の顧問として来日。朝河貫一とは親交が深く、数々の書簡を交わしたりウォーナーの著書に朝河が序文を寄せたりした。→ウィキペディア○日本各地にはウォナー記念碑が6か所もある。最初の法隆寺の碑から、最後はJR鎌倉駅前の碑。

1910(明治43)年9月15日、冨山房発行『學生』第一巻第六号 中村清二「琉球とナポレオン」
 中村清二(女優の中村メイコは兄の孫にあたる)「チェンバレン氏は英国の使節を廣東に上陸させて待っている間に朝鮮と琉球を見物し、帰国の途次セントヘレナ島を訪れてナポレオンに会見し琉球の物語をしたとある。」と記している。

1912年 バージル・ホール・チェンバレン「ある新しい宗教の発明」(神道の資源を引き継ぎながら新たに作り上げられた天皇崇拝のシステム)→タカシ・フジタニ『天皇のページェントー近代日本の歴史民族誌から』(1994年 日本放送出版協会)/2016年10月『春秋』島薗進「明治天皇崩御と国家神道」

1925年12月 沖縄県海外協会『南鵬』創刊号 真境名安興「ベージル・ホール、渡来に関する琉球側の記録」

1926年6月 武藤長平『西南文運史論』岡書院
○内藤虎次郎「西南文運史論序」/新村出「小序」
○末吉安恭、東風平東助二君の好意で古き『沖縄集』一冊(写本)と新しき『沖縄集』二冊(宜湾朝保輯板本)とを一覧した。

右 ピントウ航海記 1663年ロンドン刊行  ホール著琉球紀行 1840年ロンドン刊行


伊江朝睦筆「島津日新公いろは歌」(????宮城氏所蔵)



1930年8月『日本地理大系 第九巻 九州篇』改造社

1931年12月『琉球新報』伊波普猷「ナポレオンと琉球」
1932年1月 『改造』伊波普猷「ナポレオンと琉球」
1934年
1月ー沖縄県立図書館の郷土文献以外の参考品(三線、鉢巻、陶器、漆器)は昭和会館の教育参考室に移される



1936年3月(1948年2月 再版) 中村清二『見たり聞いたり』「琉球とナポレオン」(初出1910年9月発行『學生』冨山房)古今書院

1943年4月 中村清二『田中館愛橘先生』中央公論社/1947年1月 中村清二『硬と軟』要書房

1937年1月9日、神戸から那覇港に波上丸処女入港/4月、在米沖縄県人会(松田露子)『琉球 THE LOOCHOO』第4号/4月27日、午後7時入港の首里丸でベッテルハイム孫ベス・プラット夫人がルーズベルト米大統領の親書を持参来沖。宝来館で休息、波上宮参拝、護国寺、善興堂病院を訪問。午後は金城那覇市長を訪問、又吉康和の案内で泊の仲地紀晃宅、天久寺、外人墓地。/5月2日、金城那覇市長公舎で晩餐会、プラット夫人作の油絵「ベッテルハイム像」を那覇市に贈呈。



3月30日ー『沖縄日報』「展けゆく歴史の曙・ペルリ艦隊来航記念号」
       沖縄日報主催「ペルリ日本来航80年記念祭」講演/神田精輝・島袋源一郎

    
1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社

4月27日ー沖縄郷土研究会と沖縄文化協会が合体し「沖縄郷土協会」発足、太田朝敷会長
1934年4月27日 昭和会館で沖縄郷土研究会と沖縄文化協会が合体し沖縄郷土協会発足
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1934年7月30日 沖縄郷土協会評議員会(昭和会館)、郷土博物館の建設とペルリ提督上陸記念碑建設のため県下から2万円の募集を協議。
関連○2015年3月 『記憶と忘却のアジア』青弓社 泉水英計「黒船来航と集合的忘却ー久里浜・下田・那覇」

1938年8月から須藤利一は『沖縄教育』に「ベージル・ホール大琉球航海記」を1939年まで連載。1938年12月には台湾愛書会の『愛書』に須藤利一は「琉球の算法書」を発表。1940年1月、須藤利一は野田書房から『大琉球島探検航海記』を出した。発売所は東京は日本古書通信社代理部、那覇は沖縄書籍となっている。この本は天野文庫と比嘉文庫にあるが口絵に「バジル・ホール肖像」が付いていないが、戦後復刻本には付いている。また川平装幀も微妙に違う。
1970年4月、『沖縄ポスト』(『沖縄ジャーナル』改題)「沖縄への理解訴えー沖縄関係資料室」/5月11日、NHKラジオ「ここに生きるー沖縄文庫にかける(西平守晴さん)」

1970年7月 川平朝申『琉球王朝史』月刊沖縄社
1974年5月 川平朝申『琉球王朝史』月刊沖縄社
1974年5月 川平朝申『沖縄県庶民史』月刊沖縄社
1971年4月、『青い海』創刊

7月16日『週刊言論』「西平守晴ー私設『沖縄資料室』で真の理解を訴え続ける」
この年の前後をみると、1969年4月ー安田寿明『頭脳会社ーシステム産業のパイオニア』ダイヤモンド社、1970年9月ー野口悠紀雄『シンク・タンク』東洋経済が出ている。私も1971年9月発行の『石の声』8号に「関西沖縄青年ミニ・シンクタンク構想」を書いた。

8月11日『読売新聞』(大阪版)「大阪に沖縄ありーサラリーマン部長が沖縄関係資料室」/10月『青い海』第7号□新城栄徳「粟国島」/12月11日、関西テレビ「土曜イブニングショウ」に沖青年友の会出演



1911年版『ネルソン百科全書』にチャンと我琉球の事が書いてあるのである。(略)

1912年11月10日 『琉球新報』「世界的記録に於ける我琉球」



1972年7月 亀川正東『沖縄の英学』研究社出版
○いかなる歴史の因果かはしらないが、沖縄はかつて信じられないほど5百年という長い年月にわたって中国とふかい親交をむすび、それからあと薩摩の島津に支配され、やがて廃藩置県によって沖縄県となるや、今度は急転直下、太平洋戦争終結によってアメリカの統治下におかれるなど、まことに数奇な運命をたどってきた。由来、沖縄の教育の基調は和学であったし、その主潮は中国の古典であったことは、すでに歴史の明らかにするところであるが、漢学が沖縄に及ぼした影響はまことにはかりしれないものがあった。しかし文化13年(1816)英国人バジル・ホールの一行が那覇港に来航したのを契機として英学が沖縄に導入されるにおよんで、はじめて沖縄に西洋の言語や思想や学問等が移入されるや沖縄の人々もだんだん西洋の文化の恩恵をうけるようになったのである。
目次=1 初期、琉球と諸外国の交流/2 バジル・ホール来航の背景と英学の端緒/3 宣教師ベッテルハイム来琉の周辺/4 ペリーの来琉と中興の英学/5 廃藩置県と沖縄の英学/太平洋戦争前後の沖縄の英語教育
1974年 沖縄の雑誌『青い海』7月号№34<特集・異国船来琉と近世沖縄>西欧人の眼にうつった近世沖縄・・・・・・・・・・・・・・・・大熊良一/ペリー提督 沖縄航海記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・外間政章/バズィル・ホール 大琉球島航海記・・・・・・・・・・・・・須藤利一/座談会「西洋との出会い」外間政章、友寄英一郎、仲泊良夫、照屋善彦
1974年9月 須藤利一『異国船来琉記』法政大学出版局 
1972年10月『南島史学』創刊号
○幕末、琉球に侵入した仏英両国の宣教師ーその対応、斎彬・斉昭・・・・・宮田俊彦
1973年10月『南島史学』第三号
○南島研究会と須藤利一教授・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三木 健
○○○○○○
右は雑誌『青い海』1974年の新年号<特集・よみがえる沖縄の芝居>(表紙は博物館の龍頭)に載せた広告。
1974年 沖縄の雑誌『青い海』7月号№34<特集・異国船来琉と近世沖縄>西欧人の眼にうつった近世沖縄・・・・・・・・・・・・・・・・大熊良一/ペリー提督 沖縄航海記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・外間政章/バズィル・ホール 大琉球島航海記・・・・・・・・・・・・・須藤利一/座談会「西洋との出会い」外間政章、友寄英一郎、仲泊良夫、照屋善彦


沖縄関係資料室
1974年10月『南島史学』第五号
○宗教建築物としての「神アシャギ」に関する研究・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・建部恭宣
1976年5月『南島史学』第八号
○大浜信泉先生を悼む・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・窪徳忠
○江戸期琉球物刊本について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・横山學 
 1976年ー沖縄関係資料室に「南島史学会関西支部」を置く


南島史学会の機関誌『南島史学』
1976年12月『南島史学』第九号
○ウィリアム・アダムズ『琉球諸島航海日誌 1614-15』・・・・・・・・・・・・比嘉洋子・訳
1977年6月『南島史学』第10号
○「沖縄」における県市町村史(誌)刊行の実態とその背景・・・・・・・・・・・・新城安善
1977年12月 『新沖縄文学』37号<沖縄研究の先人たち>
○チェンバレンと琉球語研究・・・高橋俊三/ニコライ・ネフスキーについて・・・島尻勝太郎/クリフォード・・・山口栄鉄
1978年4月 友寄英一郎『西洋史稿』琉球大学史学会○異国船琉球来航史ノート

写真右ー1981年9月 山口栄鉄『異国と琉球』本邦書籍/左が1999年6月榕樹書林版
 昭和女子大学「近代文化研究所」の中心事業であった『近代文学研究叢書』の刊行は、創立者人見円吉の企画・立案によるもので、大学が誇る図書館(近代文庫)の充実した蔵書を生かして調査研究が開始。38巻は「江見水蔭 B・H・チェンバレン 坪内逍遙」である1988年11月、日本古書通信社から弥吉光長『チェンバレンの交友』(こつう豆本82)が出ている。このチェンバレンを補足しながウィキペディアを見ると、○チェンバレンは1850年、ポーツマス(歴史的な軍港であり、世界で最も古い乾ドックが現役で使用される。ネルソン提督の旗艦HMS ヴィクトリーを含み、多くの有名な軍艦の母港となっている)近郊のサウスシー(Southsea)で、父親はイギリス海軍少将。母親は『朝鮮・琉球航海記』の著者であるイギリス軍人バジル・ホールの娘。後にドイツに帰化した政治評論家・脚本家のヒューストン・チェンバレンは彼の末弟であり、リヒャルト・ワーグナーはその舅で、ワーグナー家とも晩年交流があった。後にヒトラーは、ヒューストンを第三帝国の預言者と讃えている。もう一人の弟ハレイは父を継いで海軍将校となった。


1982年3月 『ペリー来航関係資料図録』横浜開港資料普及協会


1982年3月『沖縄県史料 前近代2 ペリー来航関係記録1』沖縄県教育委員会


1981年9月 山口栄鉄『異国と琉球』本邦書籍
□付録「琉球を語る」ー師弟交信録より(外間政章先生との往復書簡)

1987年8月『青い目が見た「大琉球」』ニライ社□左の石販画より右の方が安扶本人に似ていると思われる。
外間ー私は先日首里儀保在住の末吉安久氏を訪ねました。氏は元首里高校の美術の先生だった方で、この方の祖父が毛玉麟のようであります。那覇長官を勤めた人は安久氏の祖父安扶だったとのこと。(略)安久氏の長兄安恭は麥門冬と号し新聞記者で有名な作家でしたが、那覇港での事故で溺死された方です。安恭氏は存命中、ブラウン(ペルリ提督一行)の描いたあの威厳のある琉球人の肖像画を見て、これは自分達のタンメーを描いたものといつも話していたそうです。(1901年6月ー末吉安扶没)
 末吉麦門冬の甥で「江戸上り」研究家・佐渡山安治氏は本邦書籍発行の『江戸期琉球物資料集覧』第4巻に「琉球使節使者名簿」で1850年(嘉永3)の琉球使節の正使・玉川王子尚愼、副使・野村親方 向元模、儀衛正・魏國香ら99名の一人賛渡使・末吉親雲上を安扶としている。中に後の三司官・与那原良傑も居る。
1984年3月『沖縄県史料 前近代3 ペリー来航関係記録2』沖縄県教育委員会



1991年6月 天久斉 編『新版 奄美・沖縄学文献資料目録』(沖縄古書センター ロマン書房本店 古書目録 第6号)□比嘉晴二郎「奇書往来ーバジルホール大琉球島航海探検記/童景集」
1999年3月 『ペリーがやってきた~19世紀にやってきた異国人たち~』(沖縄県史ビジュアル版4 近世①)沖縄県教育委員会
1999年3月 ジョン・マクロード/大浜信泉訳『アルセスト号 朝鮮・琉球航海記』(解説・真栄平房昭)榕樹書林
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写真上ー左から新城栄徳、窪徳忠先生、仲松弥秀先生、眞喜志康徳さん
写真下ー元沖縄都ホテル社長の桑原守也さん、京都西方寺の袋中上人手植えの蘇鉄を前に(新城栄徳撮影)


1999年7月 山下重一『琉球・沖縄史研究序説』御茶の水書房/2004年12月 山下重一『続琉球・沖縄史研究序説』御茶の水書房
第一部 琉球王国の異国接触
第一章 プロヴィデンス号琉球来航記□イギリスの帆走艦プロヴィデンス号(W・R・ブロートン艦長)は、北太平洋探検の途上、1796(寛政8)年蝦夷地のアブタ(虻田)とエトモ(室蘭)に来航し、北方海域を調査して、マカオで越冬した後、翌年、マカオで買い入れた伴走船と共に」琉球に向かったが、不幸にも宮古郡島池間島沖の八重干瀬で座礁して沈没してしまった。
はしがき
1 プロヴィデンス号の探検航海
2 プロヴィデンス号の遭難
3 小プロヴィデンス号の那覇と室蘭来航
結語ープロヴィデンス号来航200年を記念して、1996年と97年に室蘭と宮古で記念式が挙行され、それぞれ記念碑が建てられた。
第二章 ベイジル・ホールとジョン・マクラウドの琉球来航記□第二章 ベイジル・ホールとジョン・マクラウドの琉球来航記□アマースト男爵は、イギリス国王から清国皇帝への特命大使に任命され、多くの随員と共に派遣されたが、護衛の艦隊の指揮は、フリゲート艦アルセスト号の艦長マクスウエル大佐に委ねられ、ブリッグ艦ライラ号の艦長は、ホール大佐であった。両艦が那覇港に投錨したのは、1816年9月16日午後であった。
はしがき
1 琉球王国側の記  2 アルセルト号とライラ号の来航  3 友好関係と文化的交流
4 今帰仁按司の来艦と両艦の退去  5 広東砲撃戦とアルセルト号の遭難  6 ホールのナポレオン会見記  結語 
第三章 琉球通事・牧志朝忠
はしがき   1 琉球英語通事の系譜  2 ペリー艦隊の来琉  3 牧志・恩河事件  4 牧志朝忠の最後ー結びに代えて

2000年9月 『南島史学』第55号 
○ベイジル・ホールのライラ号航海記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山下重一
書評と紹介ー山下重一『琉球・沖縄史研究序説』・・・・・・・・・・・・・・・・・安岡昭男
2002年8月 『南島史学』第59号
○資料ーベッテルハイムの琉球滞在中における英艦来航に関する資料・・・山下重一
書評と紹介ー小玉正任『石敢當』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・喜舎場一隆

2003年5月30日『琉球新報』「ペリー来琉150周年」

2004年9月 照屋善彦・著/山口栄鉄、新川右好・訳『英宣教医 ベッテルハイムー琉球伝道の九年間ー』人文書院
2004年11月 『南島史学』第64号
○ポルトガル人の種子島初来年代をめぐって・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・清水紘一
  -日欧交渉の起源・補遺ー
近世日琉関係における外交・貿易システム・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・深瀬公一郎
  -鹿児島琉球館における聞役・用聞の役割ー
アルクメーヌ号の琉球来航に関する一考察・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岡部敏和


2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文學散歩会

2005年8月 那覇市立壺屋焼物博物館 「日本・琉球の文化資料展ー鎖国から文明開化へー」主催/天久海洋文学散歩会(新城良一)
2007年4月 『南島史学』第69号
○ベイジル・ホールのナポレオン会見記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山下重一

2012年5月ミズリー州ブルックフィールド(ローズヒル墓地) ベッテルハイム墓碑で新城良一氏、手にしているのはベッテルハイム「約翰傳福音書」。

2008年5月 山口栄鉄・編著『ビジュアル版・大琉球国と海外諸国』琉球新報社
2009年4月 オフィス宮崎『ペリー艦隊日本遠征記』万来社
2014年8月 宮崎壽子=監訳『ペリー提督日本遠征記』KADOKAWA