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「鎌倉芳太郎顕彰碑」甥御さんの鎌倉佳光氏案内/「アートギャラリーかまくら 南米珈琲」鎌倉芳太郎生家(島袋和幸提供)

2014年5月 図録『麗しき琉球の記憶 鎌倉芳太郎が発見した美』

沖縄県立博物館・美術館ミュージアムショップ「ゆいむい」電話:098-941-0749 メール:yuimui@bunkanomori.jp
図録『麗しき琉球の記憶 鎌倉芳太郎が発見した美』 販売価格(税込): 1,620 円


図録『麗しき琉球の記憶 鎌倉芳太郎が発見した美』新城栄徳「末吉麦門冬ー芸術家の名は音楽のように囁く」
図録『麗しき琉球の記憶 鎌倉芳太郎が発見した美』高草茂「沖縄文化の甦りを願うー鎌倉芳太郎が写真で今に伝えるものー」

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高草茂氏と新城栄徳
2015年3月 沖縄県立芸術大学附属研究所『沖縄芸術の科学』第27号 高草茂「琉球芸術ーその体系的構造抄論」



「麗しき琉球の記憶-鎌倉芳太郎が発見した“美”-」関連催事
【日時】5月31日(土)14:00~ 15:30 (開場13:30)
特別講演会/クロストーク
鎌倉芳太郎氏の大著『沖縄文化の遺宝』の編集者である高草茂氏による編集当時のエピソードなどを交えた講演と、「鎌倉ノート」の編集・刊行に携わる波照間永吉氏とのクロストークから、鎌倉氏の沖縄文化に寄せた情熱や思いなどを聞く機会とします。
【講師】高草茂 氏(元岩波書店 顧問)
    波照間永吉 氏(沖縄県立芸術大学附属研究所 教授)


「首里那覇泊全景図」慎思九筆だが印章は慎克熈

沖縄文化工芸研究所□図録の内容を紹介します。
ご遺族や鎌倉自身と交流のあった方、鎌倉資料整理(沖縄県立芸術大学所蔵)に直接に関わった方々が文章を寄せています。記録資料としては将来価値のある図録だと思います。

*波照間永吉「芳太郎収集の沖縄文化関係資料」
*高草茂「沖縄文化の甦りを願うー鎌倉芳太郎が写真で今に伝えるものー」
*佐々木利和「鎌倉芳太郎氏<琉球芸術調査写真>の指定」
*西村貞雄「鎌倉芳太郎がみた琉球の造形文化」
*柳悦州「鎌倉芳太郎が寄贈した紅型資料」
*波照間永吉「古琉球の精神を尋ねてー鎌倉芳太郎の琉球民俗調査ー」
*粟国恭子「鎌倉芳太郎が残した琉球芸術の写真」
*謝花佐和子「鎌倉芳太郎と<沖縄>を取り巻くもの」
*鎌倉秀雄「父の沖縄への思い」
*宮城篤正「回想「50年前の沖縄・写真でみる失われた遺宝」展
*新城栄徳「末吉麦門冬ー芸術家の名は音楽のように囁くー」
*三木健「<鎌倉資料>が世に出たころ」
○図版
○年譜
○主要文献等一覧
○写真図版解説

1927年12月『國本』伊東忠太「不平等は天賦なり」
 1893年、京都で平安神宮の地鎮祭が行われ西村捨三が記念祭協賛会を代表し会員への挨拶の中で尚泰侯爵の金毘羅宮参詣時の和歌「海山の広き景色を占め置いて神の心や楽しかるらん」を紹介し、平安神宮建設に尚家から五百圓の寄附があったことも報告された。ちなみに、この時の平安神宮建築技師が伊東忠太。


1927年12月『國本』伊東忠太「不平等は天賦なり」
□翻って考ふれば、宇宙の諸現象は皆不平等、不自由なるが為に生ずるので、一現象毎に一歩づつ平等と自由とに近づくのである。斯くて幾億劫の後には絶対の平等自由が実現されて宇宙は亡びるのである。社会の現象も亦た不平等、不自由の力に由て起こるので、一現象毎に一歩づつ平等自由に近づくのである。斯くて幾万年の後には絶対の平等自由が実現されて社会は滅亡するのである。個人の一生も亦不平等不自由の為に支配せられて活動して居るのである。吾人の一挙一動毎に一歩づつ平等自由に近づくのを以て原則とする。斯くて百年の後絶対の平等自由が得られた時は即ち吾人の死んだ時である。
人は生まれた瞬間より一歩づつ死に向かって進むので、同時に又自由平等に向かって進むのである。絶対の平等自由を強要するのは即ち死を強要する所以である。要するに吾人は各自の職貴を竭して社会文化の向上に貢献すれば善いので社会の安寧秩序を保つべき条件の下に吾人の平等自由が適当に制限さるべきことを認容しなければならぬ。制限なき平等自由は假令之が與えられても吾人は之を受けることを欲せぬものである。何となれば之を與ふる者は悪魔であり、之を受くる者は之が為に身を亡ぼすからである。
 
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1924年3月25日『鹿児島新聞』「取壊す首里城」
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1924年4月4日『鹿児島新聞』「首里正殿は保存」

1924年
3月ー鎌倉芳太郎、伊東忠太との共同名義での琉球芸術調査が啓明会の補助を受ける。5月ー鎌倉芳太郎(東京美術学校助手)、沖縄出張し首里市役所内に「美術研究室」(写真暗室)を設ける。

①『科学知識』「琉球紀行」□余は沖縄到着の第五日目の晩に脚の関節に鈍痛を覚えたので、テッキリやられたと直覚して寝に就いたが、夜半過ぎから疼痛が全身の関節に瀰漫し来り、朝になって見ると起きかえることは愚、寝返りも出来ぬ程の痛さである。(略)兼ねて東京を出発する時、琉球に悪疫の流行して居ることを聞知して居たので、入澤達吉博士に注意事項を問うた処が、博士は若しも沖縄で病気に罹ったら金城医学士の診療を受けるがよいと教えて呉れた。そこで早速同学士の来診を求めた所が、学士は直ちに来て呉れた。一診してこれは軽いデング熱である、2,3日で快癒すると事もなげに断言して呉れたので大いに安心した。(略)金城学士の話によれば、那覇市では殆ど毎戸に患者があって、一家一人も残らず感染した例も珍しくない。那覇6万の人口中、少なくともその三分の二は感染したものと思われるが死者は今の所43人である。夫は何れも嬰児で脳膜炎を併発したのであると云う。余が全治した頃は那覇の方は下火になり、追々田舎の方へ蔓延する模様であった。土地ではこれを「三日熱」と唱えて居る。夫は熱が大抵三日位で去るからである。
8月20日午後3時 大阪商船の安平丸で鹿児島へ。8月22日ー『沖縄タイムス』伊東忠太「琉球を去るに臨みて」。8月25日に東京着□→1925年1月~8月『科学知識』に琉球紀行を連載□1928年5月ー伊東忠太『木片集』萬里閣書房(写真・首里城守礼門)
1925年
1月ー鎌倉芳太郎、沖縄の新聞に啓明会から発行予定の「琉球芸術大観」発表。□(イ)序論ー分布の範囲、遺存の概況、調査物件の項目 (ロ)総論ー史的考察、時代分期
(ハ)各論①建築ー1王宮建築、2廟祠建築、3寺院建築、4住宅建築、5陵墓建築、6橋梁建築 ②琉球本島の部ーイ純止芸術(美術)篇ー1紋様、2絵画、3彫刻 ロ応用芸術(工芸)篇ー1漆工、2陶磁、3織工、4染工、5金工鋳造、6雑工 ③宮古八重山の部 ④奄美大島の部

1925年2月 坂口総一郎『沖縄写真帖』第一輯 画・伊東忠太

1926年2月『考古学雑誌』第16巻第2号 伊東忠太「古琉球の芸術」

1929(昭和4)年
     『世界美術全集』第21巻 平凡社「琉球美術各論」
     □伊東忠太「琉球芸術総論」 鎌倉芳太郎「琉球美術各論」
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2月ー平凡社『世界美術全集』第21巻□鎌倉芳太郎ー(彫)天尊像、(絵)尚円王御後絵、尚貞王御後絵、尚純公御後絵、金剛法会図細部、渡海観音像(自了)、高士逍遥図(自了)、(工)放生池石橋欄羽目、観蓮橋石欄羽目、瑞泉門石獅、歓会門石獅、正殿唐破風前石龍柱、御盃及御酒台並浮彫金箔磨大御菓子盆及小御菓子盆、美花御小飯並浮彫金箔磨大御菓子盆、あしやげこむね橙紅色 子地雲龍鳳文綵繍牡丹雉子文綵繍□伊東忠太ー(建)守礼門・冕ヶ嶽石門、沖宮、天久宮、円覚寺仏殿、円覚寺三門、崇元寺石門、霊御殿(玉陵)
1929-3    『世界美術全集』第22巻 平凡社 

1929年
2月ー平凡社『世界美術全集』第21巻(写真・守礼門)□伊東忠太「首里城守禮門ー殆ど支那式の三間は牌楼の型の様であるが、また支那式と大いに異なる点がある。その四本の柱を立てて之に控柱を添えた意匠は支那から暗示を得たのであるが、斗栱の取扱い方は寧ろ日本趣味である。中の間の上に当たって、屋根の上に更に一間の第二層の構架が加えられ、その軒下に守禮之邦と書かれた扁額が懸げられて居る。細部の手法は一體に甚だ自由であり、行く処として苦渋の跡を示さない。門の広さは中の間十一尺五寸、脇の間七尺六寸に過ぎぬ小規模のものであるが、悠然として迫らざる風貌強いて技巧を弄せざる態度は誠に平和の感を現すものである」

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3月ー新光社『日本地理風俗体系』第12巻(カラーの守礼門)□伊波普猷「守礼門ー首里府の第一坊門を中山門と言ひ、王城の正門に近い第二坊門を守礼門と言ふ。前者は三山統一時代の創立で、『中山』の扁額を掲げたが、一時代前に毀たれ、後者はそれより一世紀後の創立で、待賢門と称して『首里』の扁額を掲げたが、万暦八年尚永即位の時、明帝の詔勅中より『守礼之邦』の四字を取って『首里』に代えた。以後守礼は首里の代りに用ひられる」
10月ー鎌倉芳太郎・田邊孝次『東洋美術史』玉川学園出版部



1942年(昭和17年)ー俳聖殿(伊東忠太の設計は、三重県伊賀市にある松尾芭蕉生誕300年を記念する木造建築物。上野公園(伊賀上野城)内にある。


伊東忠太書簡(熊谷錬作宛 1946年6月21日)翁長良明コレクション
 〇飯田市発行の「南信州」という新聞に3回にわたって掲載された「ふるさと文学碑歳時記」のうち、この文学館について、熊谷紀夫という方が書いた文のコピーである。この「歳時記」はのちに南信州新聞社から「伊那谷の文学碑」として出版されたが、既に絶版だそうだ。さて、その記事によると、この地域で教師をしていた熊谷錬作氏が退職後に3000坪もの土地を譲り受け、たくさんの花を咲かせたいとして、夫婦で開墾をして「百花園」をつくり始めたという。時に60歳。その頃、明治36年建築の駒場警部補派出所が改築されることになり、この建物を譲り受けて移築、自分の文学書2万冊をもとに文学館を開設した。
初版本の収集と作者の自筆色紙の収集とともに、広い山の斜面に、すべて作者自筆の文学碑を次々と建碑。しかし、昭和61年、道半ばで79歳で亡くなったという。たくさんの文学書や色紙はどうなったのか知るよしもない。→「小さな旅のアルバム」

 屋良朝信「紀行 -Travelogue-沖縄ー異彩を放つ建築様式 2019-4-8

築地本願寺
 伊東 忠太(1867年-1954年)明治から昭和期の建築家、建築史家。山形県米沢市出身。
学生時代に中央区-晴海ふ頭でアルバイトをしていた一時期がある。JR有楽町駅から歩いて勝鬨橋経由で通うのが常だった。銀座通りからはやや離れるが、視界に風変わりな建築物が唐突に現れる。当初、この建物がお寺であることすら知らず、しばらく後になって浄土真宗本山の本願寺と知った次第。ヒンドゥー様式の外観と仏教寺院との取り合わせに驚いた記憶がある。さらに最近、この築地本願寺が伊藤忠太の設計と知り、この冬山形市内を歩いた際、明治~大正期の和洋亜が混然となった奇抜な建物群を見て以降、異形の建築物に心惹かれるようになった。忠太は動物や怪獣、妖怪が大好きだ。東京商科大(現・一橋大)兼松講堂や震災祈念堂などにも摩訶不思議な動物の彫刻が付けられている。
 それにしてもどうしてこのような奇抜な設計の仏教寺院ができたのか? すでにその頃建築家として名声を得ていた伊東に設計依頼が来るのは当然だが、何よりこの設計案が提案されたときの浄土真宗本願寺派第22世宗主-大谷光瑞の存在が大きい。大谷光瑞は僧侶だが1902年(明治35年)、教団活動の一環として西域探検のためインドに渡り、仏蹟の発掘調査に当たった。その後1914年(大正3年)まで計3回にわたる発掘調査等を実施した。大谷探検隊だ。光瑞の自伝や電位小説を読むともはや稀代の冒険家だ、古くは間宮林蔵、河口彗海や白瀬矗、現代なら植村直己、星野道夫に比肩する。シルクロードの風物に多大な影響を受けた光瑞という後ろ盾があって初め実現した建築設計だろう。伊東忠太に関しては専門分野での多くの書物文献があるのでそちらに譲るがここでは忠太と沖縄の建造物について触れてみたい。
 大正13年沖縄を訪れた伊東は、琉球の建造物に心を奪われた。当時の沖縄といえば、廃藩置県以降、日本に同化しようという傾向が強く、琉球文化はないがしろにされた時代だ。中国/アジアの影響を受けた熱帯域独特の建造物の重要性を即座に指摘。内務省に連絡をとり、首里城など沖縄の重要建造物の保存を強く要請。政府はすぐに対応策を協議し始める。当初、政府は首里城については建て替えを提案するがあくまであるがままの姿をよい状態で保つための方法を指南の上、内務省に取り壊し中止を要請する。中止の電報が届いたのは取り壊し寸前だったという。同じころ民藝の祖・柳宗悦は沖縄,アイヌ,台湾の文化に強い関心を持ちバーナード・リーチ、河井寛次郎、富本憲吉、濱田庄司らともに「民芸運動」を展開した。柳が沖縄の地を初めて踏むのは、1938(昭和 13)、忠太の沖縄行きに遅れること10余年だ。文献によれば柳が沖縄の文化に関心をもったきっかけは学習院中等学科の同期に,琉球最後の国王尚泰(1843–1901)の孫である尚昌(1888–1923)がいたことだという。その頃、沖縄行きを目論んでいたが尚昌のイギリス留学,それに続く 1923(大正 12)年の尚昌の死去によって,立ち消えとなった。参考までに我が事務所近くの川崎大師平間寺-自動車の祈祷殿がヒンドゥ様式を取り入れているので併せて写真を添えた。
 
川崎大師平間寺 祈祷殿


1982-10  鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』岩波書店(新城栄徳所蔵/鎌倉さんの署名入り)   
             
○1990年5月『新生美術』8/9合併号に私(新城栄徳)は「琉球美術史家たち」を書いた□鎌倉芳太郎の琉球美術史研究については、ことさら紹介するまでもないが、その研究は啓明会から『琉球芸術大観』の発刊計画、戦後は琉球大学から『琉球芸術論』の発刊の話があったが、いずれも流れ、1982年、外間守善らの協力もあって『沖縄文化の遺宝』として結実された。鎌倉芳太郎は1975年、八重山に遊び、麦門冬の長女である石垣氏庭園の石垣初枝さんに会った。翌年元旦に麦門冬を偲び歌を書いて初枝さんに贈っている。「天さかる/南の海に/寄る波や/星形の砂/初日晃りつつ」。

鎌倉芳太郎資料の整理研究を展開している沖縄県立芸術大学附属研究所の紀要『沖縄芸術の科学』


2013年8月3日ー鎌倉芳太郎没後30年

2013年7月26日『琉球新報』仲村顕「眠れる先人たちー鎌倉芳太郎」

鎌倉芳太郎が1975年11月、八重山に遊び麦門冬の娘・初枝さんと感激の再会。翌年の元旦に詠んだものを書いて石垣市の初枝さんに贈ったもの。


左から折口信夫(複製)短冊ー麦門冬の娘・初枝さんに贈ったもの。/山城正忠/鎌倉芳太郎短冊ー麦門冬のことを聞いた新城栄徳に鎌倉氏が贈ったもの。娘の嫁ぐ日に詠んだ歌だが、その娘の名が恭子さんであるのは偶然なのか。


仲村顕□千葉県鋸南町にある鎌倉芳太郎の墓。墓誌に「人間国宝 石垣市名誉市民」とある。(写真提供:仲村顕)