2018年10月4日-『熊楠ワークス』№52に「[追悼]中瀬喜陽先生」が載っている。飯倉照平氏の「先駆的な仕事」の追悼文も載っている。このお二人と神坂次郎氏は、1964年以降、南方熊楠と末吉麦門冬との交流を追及(研究ではない)する過程で出会った。私の熊楠イメージ形成には飯倉氏が1972年『別冊経済評論ー伝記特集・日本のアウトサイダー』に書いた熊楠伝が大半を占める。特に中瀬氏には氏の主宰する俳句雑誌『貝寄風』にエッセイを書かせてもらった。
 
俳句雑誌『貝寄風』

□27年間発行されてきた俳誌「貝寄風(かいよせ)」が、8月号(通巻326号)で終刊となる。主宰の中瀬喜陽さん(78)=和歌山県田辺市神子浜1丁目=は「残念に思うがやむを得なかった。後に残る活動ができた」と振り返っている。貝寄風は、中瀬さんが編集を担当していた俳誌「花蜜柑」の主宰者が亡くなり、中瀬さんが知人の田辺市の串上青蓑さんに声を掛け、1984年7月、串上さんを主宰者として創刊。以来月1回発行し、串上さんが亡くなった後に中瀬さんが主宰を引き継いだ。終刊を惜しむ声もあるが、中瀬さんの体調による理由でやむを得ず決めた。

 俳誌には会員の俳句や、中瀬さんによる俳句や短歌の紹介などを掲載している。会員が俳句を作った経緯や思いを掲載しているコーナー「一句の周辺」は、作った俳句を見つめ直すきっかけにしようと設けた。俳句の作り方が分かるという声もあり、人気があるという。会員は創刊当初と同程度の約200人。田辺市や周辺町の住民を中心に、ふるさとについて知ることができるということで県外に住む県出身者らもいる。俳誌のほか、会員で句集「熊野九十九王子」や、創刊20周年を記念した「紀州田辺の俳壇」も発行してきた。また、中瀬さんが研究する南方熊楠を追悼する意味の「熊楠忌」は約10年前、俳人協会に季語として登録された。登録できた背景について中瀬さんは「貝寄風というグループの力があったからこそ」と話している。(→紀伊民報2012年5月19日土曜日)
『貝寄風』 - 新城栄徳「琉球の風」
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 「琉球の風」第1回は2005年4月発行で、作家・神坂次郎氏との出会いを記し「その昔、外様大名の島津家久が徳川家康の許可を得て琉球に出兵し支配下に置いた。そして中国との交易のため『琉球王国』はのこした。島津氏は琉球士族に対して琉球人らしく振舞うよう奨励した。琉球士族は歴史書編纂などで主体性の確立につとめた。清朝から琉球久米村の程順則が持ち帰った『六諭衍義』は島津を介して徳川吉宗に献上された。幕府によって『六諭衍義』は庶民教育の教科書として出版された。それが江戸文学への遠因ともなり滝沢馬琴のベストセラー小説『椿説弓張月』(北斎挿絵)にもつながる。また、清朝の使者歓待のため玉城朝薫がヤマト芸能を参考に『組踊』が生まれるなど新たな琉球文化が展開された」と記した。

平成17年7月 俳句誌『貝寄風』』(編集発行・中瀬喜陽)新城栄徳「琉球の風②」
4月、南方熊楠顕彰会から『南方熊楠邸資料目録』が贈られてきた。巻末の人名索引に私の名前が有る。驚くと同時に記憶が甦った。1984年の夏、麦門冬・末吉安恭書の軸物「松山うれしく登りつめ海を見たり」を背に担ぎ熊本城を経て、田辺の熊楠邸を訪ねた。折よく文枝さんが居られたので麦門冬の写真を仏壇に供えてくださいと差上げたものであるが、大事に保存され且つ目録にまで記されるとは夢にも考えなかった。飯倉照平先生に電話で伺うと、研究会では熊楠没後の写真なので収録することに悩んだという。と書いた。そして麦門冬の親友・山城正忠を紹介した。正忠は那覇若狭の漆器業の家に生まれた。若狭は漆器業が多い。麦門冬の手ほどきで琉球美術史研究に入った鎌倉芳太郎(人間国宝)は「思うに(福井県)若狭はその地勢、畿内に接して摂津と表裏し(略)、古来日本海における外国貿易の起点となっていたが、十五世紀の初頭以来南蛮船も着船し、この地の代官も書をもって朝鮮国と通交しており、小浜から出て東シナ海に向かい、琉球に新しく出来た那覇港に、貿易物資(漆器)生産のための若狭の居留地が造成された」(『沖縄文化の遺宝』)と推定している。
平成17年12月 俳句誌『貝寄風』』(編集発行・中瀬喜陽)新城栄徳「琉球の風③末吉安恭と南方熊楠」
7月、立教大学の小峯和明氏と奈良女子大学の千本英史氏から南方熊楠特集『國文学』8月号を恵まれた。小峯氏は「熊楠と沖縄」を執筆され「それにしても、末吉安恭との文通が半年(1918年2月~9月)あまりでとだえてしまったのはなぜであろうか」と疑問を呈しておられる。千本氏は「等身大の熊楠へ」で「熊楠はいたずらに祀り上げるのでなく、その、すぐれた可能性を引き継いでいくことが求められている」としている。
そこで熊楠と末吉安恭の文通の周辺をみてみたい。柳田国男が『郷土研究』を創刊した1913年3月に柳田は伊波普猷に「琉球の貴重文書の刊行」についての書簡を送っている。程なく沖縄県庁では筆耕に『中山世譜』など写本を命じている。6月、黒頭巾・横山健堂が来沖し伊波普猷や安恭らと親しく交わり『大阪毎日新聞』に「薩摩と琉球」を連載。無論、沖縄の新聞にも転載された。
1914年に安恭らは同人雑誌『五人』を創刊、安恭は古手帖(抜書き)をもとに男色をテーマに「芭蕉の恋」を書いた。7月、伊波普猷、真境名安興らは県知事から沖縄史料編纂委員を拝命。1915年の1月に沖縄県史編纂事務所が沖縄県庁から沖縄県立図書館に移された。主任は安恭の友人で同じ池城毛氏一門の真境名安興である。当然、先の『中山世譜』などは県立沖縄図書館のものとダブルことになる。安恭は安興から『中山世譜』『球陽』などの写本を譲り受けた。安恭は『球陽』などを引用して『琉球新報』に「定西法師と琉球」「琉球飢饉史」、朝鮮史料で「朝鮮史に見えたる古琉球」を書き琉球学の開拓にこれつとめた。
熊楠宛の書簡で安恭は前出の「芭蕉の恋」に関連して「芭蕉翁も男色を好みし由自ら云へりと鳴雪翁の説なりしが、芭蕉がそれを文章に書き著せるもの見当たらず候が、御承知に候はば、御示し下され度候」とある。いかにも見た目には学究的だがその気質は芸術家である。安恭は俳人として麦門冬、歌人として落紅、漢詩人として莫夢山人と号したが俳諧が気質に合っていたようだ。前出の古手帖には「芭蕉」「子規」「俳句に詠まれた琉球」「俳句の肉欲描写」「沖縄の組踊の男色」などが記されている。
安恭は熊楠と文通を通じてお互いに聞きたいことは殆ど聞いたと思う。文通が直接には途絶えても沖縄の事は安恭贈呈の『球陽』で当面間に合う。『日本及日本人』誌上では安恭は亡くなるまで熊楠と投稿仲間であった。1919年1月、折口信夫編集『土俗と伝説』には熊楠の「南方随筆」と並んで安恭の「沖縄書き留め」がある。しかも同年6月、安恭は安興らと「沖縄歴史地理談話会」を設置し活動に入り安恭も自ら企画・講演をなしその内容を新聞記者として、創刊メンバーとして『沖縄時事新報』にも書く忙しさである。


1990年6月 中瀬喜陽・長谷川興蔵編『南方熊楠アルバム』八坂書房
私の手元に中瀬喜陽さん編著『紀州田辺の俳壇』がある。序に「田辺に俳人が訪れたであろう最初を大淀三千風の『行脚文集』に依るのが従来の定説だった」とある。安恭も1917年9月の『日本及日本人』に「大淀三千風の日本行脚文集に『雨雲をなとかは横に寝さすらむ名は正直(ろく)な神風』といふ歌あり、ろくに正直といふ意味ありしか」と『行脚文集』を引用している。同じく中瀬さん共著『南方熊楠アルバム』の1911年3月・熊楠日記には河東碧梧桐俳句「木蓮が蘇鉄の側に咲く所」」と河東写真が並んでいる。碧梧桐は1910年5月に来沖し安恭の俳句は「将来有望」と述べた。 


私と熊楠(熊野)との関わりを述べる。1964年4月、私は集団就職で白雲丸(後に知るが、芥川賞作家・東峰夫も乗船していた。)に乗船し那覇港から上京。途中、暴風で船は和歌山の串本に避難したのが熊野との出会いである。熊野そのものの熊楠、その熊楠が書いた文から私は安恭を日比谷図書館で知ることになる。

1969年2月に沖縄から南方熊楠記念館を訪ねる。同年夏、京都の職場「紅屋」の慰安旅行で紀伊勝浦で遊び(ここで初めてストリップショーを見る)熊野那智大社を参拝。75年10月、満一歳の息子を連れ高野山(金剛峰寺)に遊んだ。後は、「琉球の風」①②でふれた。
 「琉球の風」第3回は2005年12月発行で、麦門冬の『球陽』入手の経緯、麦門冬と熊楠の文通、私と熊野との関わりを述べた。また沖縄都ホテルの社長であった熊野人の桑原守也氏との交遊を書いた。
 「琉球の風」第4回は2006年5月発行で、琉球学の巨人、東恩納寛惇の琉球学とは後世に残すべき『琉球の誇り』であるとの見解や、「郷土史の研究は単なる科学では無い。郷土に共鳴なくして郷土史を取扱う事は出来ない」との発言を紹介した。また折口信夫が琉球芸能に貢献したことにもふれた。

「琉球の風」第5回は2006年10月発行で、「私は2001年『おきなわ写真の歩み』に、沖縄で日本最初になる写真を撮ったペリー艦隊のブラウン(1853年)、沖縄最初の写真師の垣田孫太郎(1876年)、沖縄人で最初の写真師・山城正択や又吉昌法。福永義一、写真師にして壮士芝居の役者でもある。福永が1902年に大阪から清国人を招聘し「支那そば屋」を開業したのが沖縄そばの直接のルーツとなった」ことを書き、麦門冬の琉球民俗への関心は1915年9月『琉球新報』の紀行文「薫風を浴びて」に始まることも書いた。
 「琉球の風」第6回は2007年2月発行で、「麦門冬は1918年4月10日の熊楠あての手紙で横山健堂『薩摩と琉球』の口絵に吉田博氏の写生せし琉球の墓がある」と述べている。横山は1913年6月に平壌丸で来沖、その著『薩摩と琉球』は1924年1月に中央書院から発行され、序文を大阪毎日新聞の本山彦一が書いている。本山は1908年10月に台湾縦貫鉄道開通式の帰途、桜丸で増田義一、坪谷水哉、鳥居素川らと一時来沖した。
 「琉球の風」第7回は2007年6月発行で、「私は、阿嘉宗教画『首里那覇鳥瞰図』や、沖縄タイムス『沖縄美術全集』所載の『うゃんまぁの図』、山口瑞雨の略歴、丹青協会の集合写真を東京の島袋和幸氏と共同して新聞の社会面で紹介してきた」ことを書いた。麦門冬の琉球美術史にもふれた。
 「琉球の風」第8回は2007年11月発行で、オカヤドカリ研究家の当山昌直氏の収集した坂口總一郎資料にふれ、飯倉照平氏との出会いも記した。「麦門冬は随筆に『蘇鉄』が沖縄から中国に渡ったという説は五雑俎に出て居ります。慶良間の伝説とは反対になって居ります。沖縄の地中から蘇鉄の化石でも出れば自生説が確実となります」と麦門冬が文人の視点で書いていることを記した。  
『貝寄風』新城栄徳「琉球の風」
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平成17年4月
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平成17年7月
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平成17年12月