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1972年11月『別冊経済評論』「日本のアウトサイダー」
桐生悠々(むのたけじ)/宮武外骨(青地晨)/伊藤晴雨(石子順造)/高橋鐵(竹中労)/沢田例外(森長英三郎)/安田徳太郎(安田一郎)/田中正造(田村紀雄)/菊池貫平(井出孫六)/山口武秀(いいだもも)/北浦千太郎(しまねきよし)/古田大次郎(小松隆二)/平塚らいてぅ(柴田道子)/高群逸枝(河野信子)/長谷川テル(澤地久枝)/宮崎滔天(上村希美雄)/橘撲(髙橋徹)/西田税(松本健一)/謝花昇(大田昌秀)/南方熊楠(飯倉照平)/出口王仁三郎(小沢信男)/山岸巳代蔵(水津彦雄)/尾崎放哉(清水邦夫)/添田唖蝉坊(荒瀬豊)/辻潤(朝比奈誼)/稲垣足穂(折目博子)/天龍(秋山清)/淡谷のり子(加太こうじ)/谷川康太郎(猪野健治)
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タルホ




「発禁本」資料  
現代筆禍文献大年表
明治28年3月     沖縄県私立教育会雑誌(沖縄県 安井宗明)
明治33年10月    沖縄青年会会報(渡久地政瑚)
大正5年         沖縄民報6月15日第677号
大正10年2月     不穏印刷物2枚「沖縄庶民会創立委員発行」
大正13年11月    沖縄タイムス「11月13日14日亘る難波大助に係る不敬事件判決言渡に関する記事」
大正14年5月      地方行政5月号 神山宗勲「燃え立つ心」

 1978年、桃源社発行の酒井潔『愛の魔術』に澁澤龍彦が解説で「酒井潔は堅苦しい学者ではなく、何よりもまず、面白く語って読者を楽しませようとする、根っからのエンターティナーがあった。それは本書をお読みになれば、誰にでも十分に納得のいくことであろう。明治の南方熊楠ほどのスケールの大きさは望むべくもないが、彼自身も南方に傾倒していたように、その方向の雑学精神の系統をひく人物であったことは間違いあるまい」と書いている。

麦門冬ー熊楠ー岩田準一ー乱歩
 1931年6月には竹久夢二が元北米の邦人新聞記者・翁久充の企画で、サンフランシスコに入り、1年余にわたり米国に滞在し、ロスを中心に展示会や在米見聞記「I CAME I SAW」の題で新聞連載、スケッチ旅行などをしている。アワビ漁で成功した小谷源之助はポイント・ロボスの海岸に来客用の別荘を建て芸術家や文人、政治家らを宿泊させていた。夢二研究家の鶴谷壽(神戸女子大教授)が夢二と宮城与徳(画家・ゾルゲ事件に連座)が小谷家の方と一緒に写っている写真を発表している。夢二は翁と新聞社のストのことで喧嘩別れをし、気の合う若い与徳としばらく一緒に生活しながら絵を描いていたようである。夢二は翌年の10月にはヨーロッパへと足をのばし、欧州各地を渡り歩き、ドイツの邦人グループと一緒になってユダヤ人救済運動に関わっている。彼は平民社の幸徳秋水とも交流し、医師の安田徳太郎とのつながりもある。彼の反戦のコマ絵をみると、夢二の美人画はもの悲しい憂いにみち、放浪とロマンを追い続けた夢二の後ろ姿に重なる。(大城良治)


 夢二の弟子に岩田準一が居る。□岩田準一 いわた-じゅんいち 1900-1945 昭和時代前期の挿絵画家,民俗研究家。明治33年3月19日生まれ。中学時代から竹久夢二と親交をもつ。江戸川乱歩の「パノラマ島奇譚」「鏡地獄」などに挿絵をかく。郷里三重県志摩地方の民俗伝承の研究や,男色の研究でも知られ,南方熊楠(みなかた-くまぐす)との往復書簡がある。昭和20年2月14日死去。46歳。文化学院卒。旧姓は宮瀬。著作に「志摩のはしりかね」など。(コトバンク)□→「岩田準一と乱歩・夢二館(鳥羽みなとまち文学館」(.所在地〒517-0011三重県鳥羽市鳥羽2丁目 交通アクセス鳥羽駅から徒歩で10分 ..お問合わせ0599-25-2751) .

 今年3月15日にJR西日本「おおさか東線」が開業した。5月26日、息子の家(布施)から近い真新しい長瀬駅から乗る。久宝寺駅で乗り換え王子経由で9時前に法隆寺に着く。法隆寺は日本仏教の始祖といわれている聖徳太子を祀っている。日本最初の世界文化遺産でもある。法隆寺には和歌山有田の修学旅行生がバス3台で見学に来ていた。このときは夢殿とその周辺を見て帰った。那覇に帰る前日の6月6日、あけみと一緒に改めて法隆寺見学、金堂は改修工事中で上御堂で御本尊の金銅釈迦三尊像を拝観。1998年に完成した大宝蔵院には百済観音像玉虫厨子などが安置されている。出てすぐの所の大きな蘇鉄の前で、あけみを立たせて記念写真。法輪寺、法起寺の三重塔も見学した。
 辛口批評家の谷沢永一氏著『聖徳太子はいなかった』新潮新書によると、柳田国男は聖徳太子が虚構であることを知っていた。古事記や日本書紀について書くのは柳田は慎重であったという。柳田が自分の見るところ信じられるところにしたがって記紀をいじれば、なにしろあの時代においてのことであるから、かならずヤケドするとわかっていた。とくに民俗学は理論をおしすすめてゆくと、当時やかましかった国体の問題につきあたる。折口信夫」も微妙に避けた。現代の学者がおのれの創見であるといなないているテーマのいくつかは、知られていたけど書けなかった、という。俳人・末吉麦門冬も南方熊楠宛の書簡で「小生も嘗て『古事記を読む』の題にて古代人の恋愛問題を論じヨタを飛ばし過ぎた為か、これを載せた新聞の編集人が、検事局に呼出されて叱られた」と書いている。


契沖の出家した妙法寺(今里)
 息子の家からほど近いところに司馬遼太郎記念館と、契沖の出家した妙法寺(今里)がある。契中は水戸光圀と出会い『万葉代匠記』をまとめた。本居宣長は契中を「古學の祖」と位置付けた。今里駅から大阪市内に入ると天王寺公園がある。琉球処分のとき警官で来琉したのが池上四郎、大阪の礎を築いた関一市長は著名だが、その関を呼び寄せたのが池上6代目大阪市長である。池上の銅像が天王寺公園にあるが池上の曾孫が沖縄に何かと縁がある秋篠宮紀子さん。北上し中之島に出る。その昔、豊臣秀吉が大阪城築城のときに全国から巨石が集められた。川に落ちたのも多数にのぼる。中之島公会堂近くに豊国神社があった。神社は大阪城内に移された。その跡に木村長門守重成表忠碑がある。碑は元沖縄県令で大阪府知事を退いていた西村捨三と、大阪北の侠客小林佐兵衛が発起し安治川口に沈んでいた築城用の巨石を引きあげ建立したもの。毛馬公園には那覇港築港にも関わった工学士・沖野忠雄の胸像がある。

木邨長門守重成表忠碑(彦根西邨捨三譔 日下部東作書)
【日下部鳴鶴】書家。近江彦根の人。名は東作,字は子暘。彦根藩士日下部三郎右衛門の養子となったが,桜田門の変で父は殉死した。1869年(明治2)東京に出て太政官大書記となったが,後年は書をもって身をたてた。はじめ巻菱湖(まきりようこ)の書風を学ぶが,80年に来朝した楊守敬の影響を受けて六朝書道を研究,のち清国にも遊学して見聞を広め,深い学識と高古な人柄とによって彼の書名は一世を風靡した。現代書道発展の先駆者として,その功績は高く評価されている。→コトバンク

池上四郎

池上四郎ー1877年、池上は警視局一等巡査として採用され、間もなく警部として石川県に赴任した。その後、富山県などの警察署長、京都府警部などを歴任し、1898年からは千葉県警察部長、兵庫県警察部長を務めた。1900年には大阪府警察部長となり、その後13年間に渡って大阪治安の元締めとして活躍した。その清廉で、自ら現場に立ち責任を果たす働きぶりと冷静な判断力は、多くの市民からの信頼を集めた。1913年、市政浄化のため、池上は嘱望されて大阪市長に就任した。財政再建を進める一方、都市計画事業や電気・水道事業、さらには大阪港の建設などの都市基盤を整備し、近代都市への脱皮を図った。御堂筋を拡張し大阪のメインストリートとする計画は池上の市長時代に立案され、続く関一市長時代に実現を見た。また、市庁舎の新築、博物館や図書館などの教育施設や病院の整備など、社会福祉の充実にも注力した。池上は1915年に天王寺動物園を開園させ、1919年に全国初の児童相談所・公共託児所を開設した。1923年には大阪電燈株式会社を買収し、電力事業を市営化した。また1923年9月に発生した関東大震災では、いち早く大阪港から支援物資を東京に送り、被災者の救済を行った。(ウィキメディア) 
 1879年3月、松田道之琉球処分官が、後藤敬臣ら内務官僚42人、警部巡査160人余(中に天王寺公園に銅像がある後の大阪市長・池上四郎も居た)、熊本鎮台分遣隊400人をともない来琉し琉球藩を解体、沖縄県を設置した。この時、内務省で琉球処分事務を担当したのが西村捨三であった
 1918年、富山県魚津で火蓋を切った米騒動は、瞬く間に全国を席巻し、軍隊の動員を待たねば沈静化せず、ために時の寺内内閣は総辞職した。大阪では、その米騒動の収拾のために米廉売資金が集められていた。その残金を府・市で折半したのであるが、府(林市蔵知事)では発足したばかりの方面委員制度のために利用した。市(池上四郎市長ー秋篠宮妃紀子曽祖父)では「中産階級以下の娯楽機関として市民館創設資金」27万7千円弱が市に指定寄附されたのを受けて、1921年6月20日、天神橋筋六丁目(天六)に日本初の公立セツルメント「市立市民館」を開設したのである。これが、1982年12月に閉館を迎えるまで62年間にわたって、大阪ばかりでなく全国の社会福祉界に歴史的シンボルとして存在した「大阪市立北市民館」(1926年の天王寺市民館開設とともに改称)の始まりであった。


□小林佐兵衛   生年: 文政12 (1829) 没年: 大正6.8.20 (1917)
明治期の侠客。大坂生まれ。通称は北の赤万(明石屋万吉)。年少から侠気を発揮し,幕末には大坂の警備に当たった一柳 対馬守に請われて捕吏頭を務めながら,禁門の変(1864)で敗れた長州藩士の逃亡を助けたりする。維新後に大阪の消防が請負制度になると,渡辺昇知事に頼まれ北の大組頭取として活躍した。米相場で成した資産を投じ,小林授産所を営み,多数の貧民に内職を教え,子どもは小学校へ通わせた。明治44(1911)年9月,米相場の高騰で苦しむ貧民のため,取引所へ乗り込んで相場を崩す。貧民700人の無縁墓を高野山に建立。浪速侠客の典型として,司馬遼太郎の小説『俄』のモデルになる。 (コトバンク)




2004年11月25日『沖縄タイムス』新城栄徳「莫夢忌ー末吉麦門冬没後80年」

1912年9月23日、26『沖縄毎日新聞』麦門冬「田岡嶺雲と云ふ人」
○・・・丁度三十三年の頃のことである其頃私共の愛読した雑誌は新聲であった・・・其の雑誌の臨時号にこの田岡嶺雲①先生の肖像が載って居たので嬉しかった・・・肖像を鋏で切り抜いて私の愛読書たる嶺雲揺曳の見返しに糊で貼りつけて文章と肖像を見比べたものである。この頃私の友人にSOと云ふ人間が居た・・それで文学好きで私と趣味があって居たので他の二三名の同志と小さい倶楽部を設けて始終談論を闘わして居た・・学校生活のつまらぬ追憶ばかりしたが私は卅五年東京に出て日露戦争の終結頃までごろごろしていたが丁度戦争のしまひ頃であった神田の美土代町の青年会館で珍しくも田岡嶺雲先生の演説があった其頃はもう嶺雲と云ふ人は私共の頭から印象が薄くなって居た此人もまだ生きて居たか位に思って居たが曾てはその文章の愛読者その思想の憧憬者であった私ゆえ御顔を拝する好機会は今夕にありと云ような思ひをしてその演説会の聴衆の一人になった。
①田岡嶺雲
明治時代の文芸・社会評論家・漢学者。本名佐代治。高知県生。教員等を経て『万朝報』『九州日報』の記者となる。文芸批評における社会主義的評論の先駆者。その著書は度々発禁処分を受けた。大正元年(1912)歿、43才。→コトバンク
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1972年3月 昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書13』「石川啄木 田岡嶺雲 F・ブリンクリ 鹽井両江 木村正辞」
     
1989年4月18日ー『沖縄タイムス』長元朝浩 「神山宗勲の小説『闘へる沖縄人』見つかるー新城栄徳さん」
2012年3月14日ー昼、このスクラップを持ち歩いているとき、パレットくもじで長元氏に出会ったので見せた。

 備仲臣道:柳君のように我がままで、自分に随順するものか自分を尊敬するものかでなければ容れられぬ人物にとって、朝鮮の工芸を通じて朝鮮と朝鮮人とを愛し得たのは、幸福だったといえるかも知れない──と安倍能成は「柳宗悦君を惜しむ」という文に書いている(安倍能成『涓涓集』岩波書店)。このように、柳は尊大で、自身に対する思い入れの強過ぎる人物であった。ついでに記せば、柳の李朝美術への理解は浅川巧を媒介としている。浅川には滑らかに話せた朝鮮語が、柳にはできなかった。明らかに柳は民衆の中へ入っていかなかった。
 ここで、長々と書いたのは、柳のお旦那としての姿を浮き彫りにしたかったからであるが、同時にまたそれだけではない。こうしたお旦那の視線、目下のものを見下し、哀れみを垂れる彼の視線や姿勢が、自ずと李朝の美を「悲哀の美」と見誤った根っ子の所にあり、「朝鮮民衆の友人」と自ら任じた柳の赤裸々な姿であると言いたかったからにほかならない。
 柳は「朝鮮の友に贈る書」の中でつぎのように書いている。
  私は朝鮮の藝術ほど、愛の訪れを待つ藝術はないと思う。それは人情に憧れ、愛に活きたい心の藝術であった。永い間の酷い痛ましい朝鮮の歴史は、その藝術に人知れない淋しさや悲しみを含めたのである。そこにはいつも悲しさの美しさがある。涙にあふれる淋しさがある。私はそれを眺める時、胸にむせぶ感情を抑え得ない。かくも悲哀な美がどこにあろう。それは人の近づきを招いている。温かい心を待ちわびている。
 朝鮮語が話せなかった、民衆の中に入ってはいかなかった柳には、彼らの持つ不屈で、おおらかで、エネルギッシュな心がつかめなかったとしても無理はないのではあろうが、朝鮮の美を説明するのに窮して、ついに「苦悶の歴史」のせいにしたのである。この悲哀の美論こそは、そのまま柳の心の悲哀でなくてなんであろうか。
 この文章は、日本の朝鮮政策に対する批判の書であるというが、彼はその中で三・一独立運動に触れてこう記している。
  ここに反省を乞いたい一事がある。吾々が剣によって貴方がたの皮膚を少しでも傷ける事が、絶対の罪悪であるように、貴方がたも血を流す道によって革命を起して下さってはいけない。殺し合うとは何事であるか。それが天命に逆い人倫に悖ることを明確に知る必要がある。それはただに酷いのみならず、最も不自然な行いである。それは決して決して和合に至る賢明な道とはならぬ。殺戮がどうして平和を齎し得よう。
 しかし、考えて見なくてもはっきりとしていることは、このとき、剣によって人を傷つけていたのは、植民地支配を強行していた、柳も当然そこに含まれているところの日本人の側だったということである。なんという身勝手な柳の言い分であろうか。天命に逆らい、人倫に悖る、ただに酷いのみならず、最も不自然な行い──をしていたのは日本人、ひいては柳自身だったのである。
 柳の他人を見下す視線は、こればかりではない。かれは「『喜左衛門井戸』を見る」という文の中にこうも書いている。
  土は裏手の山から掘り出したのである。釉は炉からとってきた灰である。轆轤は心がゆるんでいるのである。形に面倒は要らないのである。数が沢山出来た品である。仕事は早いのである。削りは荒っぽいのである。手はよごれたままである。釉をこぼして高台にたらしてしまったのである。室は暗いのである。職人は文盲なのである。窯はみすぼらしいのである。焼き方は乱暴なのである。引っ付きがあるのである。だがそんなことにこだわってはいないのである。またいられないのである。安ものである。誰だってそれに夢なんか見ていないのである。こんな仕事をして食うのは止めたいのである。焼物は下賎な人間のすることにきまっていたのである。
 読んでいて私は不快な気分にならずにはいなかった。柳という人の、驕って人を見下す辺り憚らぬ体臭がここには匂い立っている。
 柳は「雑器の美」という文でも同じようなことを書いている。
  ほとんど凡ての職工は学もなき人々であった。なぜ出来、何が美を産むか、これらのことについては知るところがない。伝わりし手法をそのままに承け、惑うこともなく作りまた作る。何の理論があり得よう。まして何の感傷が入り得よう。雑器の美は無心の美である。
 たとえば、陶工が無学文盲であったとしても、彼が体に刻むようにして憶えた技術は、彼にとって歴とした教養ではないか。その手練れの掌が作品の美を生む。従って、文盲と決め付けられた陶工の方が、出来上がったものにあとから得手勝手な深読みを加えて悦に入っている、東京帝大出の柳よりも、こと陶磁に関しては知識を持っているはずである。
  それは朝鮮の飯茶碗である。それも貧乏人が不断ざらに使う茶碗である。全くの下手物である。典型的な雑器である。一番値の安い並物である。作る者は卑下して作ったのである。個性等誇るどころではない。使う者は無造作に使ったのである。自慢などして買った品ではない。誰でも作れるもの、誰にだって出来たもの、誰にも買えたもの、その地方のどこででも得られたもの、いつでも買えたもの、それがこの茶碗の有つありのままの性質である。(「『喜左衛門井戸』を見る」)
 こう書いたあとに「土は裏手の山から」と続くのであるが、さらに彼のしつこさはつぎのように書く。
  ほとんど消費物である。台所で使われたのである。相手は土百姓である。盛られたのは白い米の飯ではない。使った後ろくそっぽ洗われもしないのである。朝鮮の田舎を旅したら、誰だってこの光景に出逢うのである。これほどざらにある当たり前な品物はない。これがまがいもない天下の名器「大名物」の正体である。
 そうして、
  茶人の眼は甚だ正しい。もし彼らの讃美がなかったら、世は「名物」を見失ったにちがいない。あの平々凡たる飯茶碗がどうして美しいなどと人々に分かり得ようや。それは茶人たちの驚くべき創作なのである。飯茶碗は朝鮮人たちの作であろうとも、「大名物」は茶人たちの作なのである。
とまで極言して柳宗悦は書く。だが、のちに「大名物」とされるような茶碗をさりげなく台所ものに使っていたということにこそ、たくまざる風流は存在すると言うべきであろう。あばら家に千金の駒を繋ぐのが風流ならば、これもまた風雅な振る舞いではあるまいかと私は思う。すなわち、のちの世の日本人が美しさを見出したのであって、朝鮮人がそれを知らなかったかのように斬って捨てる言いようは、私でなくとも、あまりいい気分のものとは思えないはずである。
 ときに、ゆがみや、慣乳や釉剥げに風情を見出したのは、後世の茶人と称される、変にすねた趣味人の手柄ではなく、すでにそれを作った生活者たる陶工こそが一番良く知っていたところのものなのである。そうでなければ、出来損ないとして砕かれ、ものばらに埋もれる定めだったはずではないか。
 では、その美はどのようにして作られるのか。柳はそれについてつぎのように記している。
  彼らは多く作らねばならぬ。このことは仕事の限りなき繰り返しを求める。同じ形、同じ模様、果しもないその反復。だがこの単調な仕事が、報いとしてそれらの作をいや美しくする。かかる反復は拙き者にも、技術の完成を与える。長い労力の後には、どの職人とてもそれぞれに名工である。(「工藝の美」)
この限りにおいては彼の言うことはまったく正しい。今日、美術の基礎では、例外なくデッサンをたたき込まれる。初心の者はくる日もくる日もデッサンに明け暮れる。そうして、ものを見る眼を養い、正しく描く技を培い、感覚と技術との間に隔たりのないようにおのれを磨くのである。反復こそが技術を与えるのである。だが、なぜ柳においては、それが「既に彼らの手が作るというよりも、自然が彼らの手に働きつつあるのである」ということになり、果ては「他力の美」ということになるのであろうか。それが私には理解できない。そのようにして陶工が身につけた技術は彼自身のものである。人間の技なのである。作品の美を生み出すのは人間であって、神でもなければ仏でもない。まして、他力によって生み出されるものであれば、人間はこの上もなく悲しい。みすぼらしい。だが、人間が作るからこそ、芸術は美しく人の心を打つのに違いない。
既に彼が手を用いているのではなく、何者かがそれを動かしているのである。だから自然の美が生まれないわけにはゆかぬ。多量な生産は必然、美しき器たる運命を受ける──とさえ柳は書いている。こう言ってしまうのは、しかし、人間への不信ではないのだろうか。
 美を生み出した者のことをここまで悪し様に言う人を私はほかに知らない。反復が技術の完成をもたらすと彼自身が書いていることとも、これは明らかに矛盾している。
 誤解を恐れずに言えば、柳は自らものを創る喜びを知らない人なのである。彼はなにごとにも手を下さない、手を汚さない、それでいて勝手な解釈だけを楽しむ、軽佻浮薄なお旦那なのである。
 それに引き較べ浅川巧は、美の根源をこの国の人々の持つ大らかさやエネルギーに見ていた。彼は前にも書いたように、民衆の中に身を置いていたし、ときにはハンノキを削って洗濯棒をこしらえたり、チゲの木取りをしていたことが日記にも見え、手でものを作ると「脳が軽快になる気がする」と書いている。この両者の違いが李朝の美を正しく評価するかどうかの分かれ目であったという気が、私には強くしてならない。