1971年8月 雑誌『青い海』4号 渡久地政司「角を磨け、素っ裸になれー選挙・議会・若者のことなどー」

1987年8月 『やまとの群星/関西で活躍する沖縄の県人たち』琉球新報社 「渡久地政司」→本書は元『青い海』編集発行人で作家の津野創一が編集協力した。


1965年7月 名城大学沖縄県人会『南端』(責任者・糸数哲夫)
糸数哲夫
昭和36年ー那覇高校卒。昭和44年ー名城大学大学院法学研究科修、商学修士、法学修士。昭和44年ー名古屋在加茂会事務所入所。昭和50年ー那覇市にて税理士事務所開業→現在は沖縄県宜野湾市字我如古。

1986年3月、琉球新報の松島弘明記者から、名古屋、三重のウチナーンチュの取材で大阪に来るという葉書(中城城跡)をもらった。後に琉球新報大阪支社に行き、私も旧知の人たちに会いたく名古屋に同行した。名古屋の県事務所の職員は大阪の県事務所でなじみのある人たちばかりであったので名古屋、三重のウチナーンチュ情報はすぐに得られた。
松島記者は取材過程で、「愛知県沖縄県人会会員名簿」「でいごの会会員名簿」(1974年10月)、「三重県沖縄県人会名簿」(1974年)、「沖縄県名古屋経営者会名簿」(1985年)などを入手した。麦門冬・末吉安恭の甥の佐渡山安正、佐渡山安治さん兄弟、粟国の末吉和一郎さんの取材には同行した。大濱皓氏は病気で会えなかった。
2010年1月31日、沖縄文化の杜で仲村顕さんから愛知の沖縄の話を聞いた。豊橋市に田島利三郎、犬山市には久志富佐子の墓があるという(後日、墓の写真も見た)。

 大阪・沖縄関係資料室で『阿姓家譜』(阿姓南風原按司守忠 7世西平親雲上守安4男)の原本を見たことがある。資料室主宰の西平守晴氏が実兄から譲られたものである。複製本が那覇市歴史博物館にある。『氏集』を見ると、阿氏には前川、渡名喜、西平、小濱、渡嘉敷、宮平、瀬良垣、伊舎堂、與儀、喜瀬、山元、安和、佐久田、眞謝、江田、金城、照屋の諸家がある。
 名古屋の渡久地政司(とぐち まさしー1937(昭和12)年6月2日、大阪市で生れる。豊田市で育つ。73歳、第3の人生のスタート。体と思考を「解す」だけでなく鍛える。)氏のブログに氏の調査で「○ 太田守松  父渡名喜守重、母なべの長男として沖縄県那覇市東町1丁目20番地で明治35年(1902)生まれる。泉崎小学校、沖縄1中卒、神戸高等商業学校卒。滋賀県立彦根商業学校教諭(大正14年4月)。昭和3年短歌会『国民文学』に入社・植松寿樹に師事。以後、短歌運動。昭和22年3月、日本キリスト教団彦根教会で洗礼。1947年(昭和22年10月)、渡名喜姓を先祖が使用していた太田姓に改名。昭和23年、彦根市立西中学校校長。昭和27年、彦根YWCA創立理事長。昭和34年、井伊大老開国百年祭奉賛会事務局次長。昭和38年、原水爆禁止彦根市協議会会長。昭和45年1月、脳溢血で逝去(67)。
○ 太田菊子  父豊見山安健、母オト(1882年生まれ)の長女として 1905年(明治38)沖縄県那覇市で生まれる。沖縄県立第1高等女学校卒業1921年(大正10)、東京山脇高等女学校卒業1924年(大正13)。大正14年12月、渡名喜守松と結婚。平成5年(1993)逝去(88)・1962年(昭和37年2月)。長年同居の母オト逝去(80歳)。」と太田守松と夫人が紹介されている。守松氏も阿氏である。

「渡久地政司ブログ」(略記)2005年7月28日 
■ 愛知の中の沖縄 事柄覚 ■
愛知の中の沖縄 事柄覚  渡久地政司作成
● 名古屋市東区徳川町にある徳川美術館には、琉球王国の文化財が多く収蔵されている。…徳川美術館に20点の琉球楽器、むかし御座楽(うざがく)に使われた楽器が保存
…、寛政8(1796)年に江戸上がりの使者から贈られたという記録が残って…出自がはっきりしているのは、日本中で徳川美術館の楽器だけ…。
  大野道雄「徳川美術館の琉球楽器」から抜粋。
● 琉球王国賀慶使・恩謝使(琉球国使江戸上がり)が1610年から1872年までの間、18回おこなわれている。上がり、下がりを入れると約34回、愛知の土地を通過している。
1610(慶長15)年の場合、上がり…8月2日美濃大垣泊、3日尾張清州・成興寺泊、5日岡崎泊、6日吉田(豊橋)泊。下り…9月22日木曽福島泊、24日美濃路落合泊、27日岐阜本誓寺泊…であった。
 佐渡山安治(詳細は後記)の調査によれば、寛延(1749)年の江戸上がりの時に殉死した「麻氏渡嘉敷親雲上真厳玄性居士之墓」(古塚達朗「江戸上りの足跡」96-4-2沖縄タイムスでは墓は行方不明とある。しかし、佐渡山安治資料「寛延2年の墓碑」76-3-28沖縄タイムスでは、所在地を発見、と写真入りの記事がある。)と天保3(1832)年に殉死した富山親雲上の墳墓が名古屋市緑区鳴海の瑞泉寺にある。佐渡山安治資料昭和54-12-14沖縄タイムスには、…11月4日、26年ぶりで待望の琉球行列を名古屋に迎える段になって「琉球人通行朝7ツ(午前4時)より本町通京町其外通りに提灯をだし賑合、此日薩摩五ツ過(午前8時)頃御通行、琉球人の行列に先立って、稲葉宿から棺桶が一つ、ひっそりと運ばれて…」。
● 明治26(1893)年9月1日から10日ま で名古屋市で沖縄芝居の興行が行われている。御園座の近くにあった千歳座(広小路南桑名町)。出し物は女花笠踊、上りの口説、下りの口説、女団扇踊、国頭(クンジャン)さばくいなど…、全部ウチナーグチで演じ、客の入りはよくなかったようで、入場料の値引きをしている。明治30(1897)年6月13日、再び名古屋を訪れ、南伏見町の音羽座で公演している。 大野道雄資料から抜粋。
● 戦前の琉球民謡レコード盤(9枚ツル印 7枚・コロンビア2枚)が松本市で1993年に発見され、南風原文化センターに寄贈された。製造した会社は名古屋。アサヒ蓄音機(株)・資本金12万円・名古屋市東区大曽根大坪320番地・大正14年6月6日創業。ここで昭和10年ころまでの間、琉球民謡レコード(ツル印レコード盤)が通し番号202番、曲及び喜劇、古典劇組踊等約400曲が発売された。
● 沖縄県人会の名称のついた組織の最初は、昭和(14)1939年、名古屋沖縄県人会。神山政良(商工省役人)、佐渡山安勇(内務省役人・後記)ら。「われらウチナンチュー佐渡山安治」琉球新報1986-4-12では次の名前が列記されている。大浜皓、南条宏、安江洋、新垣慶申、屋部(不詳)、金城至太郎、米須秀顕(専売公社 津支所長)、神山政良、具志清松、真栄平房政、宮良城盛松、山里平徳、金城朝輝、山里将清、小嶺幸雄ら。戦前の方から戦後の方々までが並んでいるが、なぜか詳細は不明。大浜、安江、南条、米須氏らには、渡久地政司面識あり。
● 昭和20年8月15日直後の沖縄出身者の うち、記録があるもの。…新聞に沖縄出身者は福岡県に沖縄連絡事務所がありそこへ登録して諸手続きをすることで早速登録を済ませた。一日も早く父母へ所在を知らせ、これからの進路について便りをするのですが、何の返事もなく心配でした。次から次へと便りを出したが返事がなかった…。平良榮昌『回想・風雪に耐えて』p91より(平良榮昌・豊橋市在住/琉球親和会会長)
● 戦後、名古屋市と周辺には、鳴海町、守 山町(後、名古屋市に合併)など多くの沖縄出身者が居住していた。上原勘松郎(愛知沖縄県人会連合会会長・顧問・元教員)の話(渡久地政司聞き書き)では、戦後まもなく名古屋でも沖縄人連盟が結成され、沖縄に帰郷する人たちに毛布などを支給するように愛知県庁と交渉するなど救援活動をおこなった。名古屋での沖縄人連盟の組織、活動は不明。
● 愛知県内全域に呼びかけての沖縄県人 会は、昭和○○年ころ。佐渡山安勇(元愛知県職員)が中心で、南条康宏(舞踊家・早稲田大学卒・那覇市出身)、名城良図(医師・東京医科大学卒・那覇市出身)、安江洋(沖縄一中卒、首里出身)等が参加していた。結成の経緯は、鈴木始(首里出身、沖縄一中卒、豊田市在住)が詳しい。
● 佐渡山安勇、安正、安治の業績。安勇―明治16年首里に生まれる。沖縄一中卒、内務省役人、大正12年名古屋市に移住、愛知県職員。晩年、那覇や祖先のことを大学ノート3冊・回想録「思い出の故郷」「祖先考古」にまとめた。(安治資料・安治亡き後、沖縄から来た古書店主が持ち去る、行方不明。)佐渡山家の祖先佐渡山安達は琉球王国の尚育王につかえた宮廷画家。安正は安勇の長男、明治44年那覇市生まれ、名古屋東海中学卒、千葉大学造形科卒、陶芸家。県立工業高校教師。岐阜県土岐市に工房。安正の遺作・土岐川の支流妻木川の下石(おろし)橋の欄干に巨大なシーサー4体が守護神のごとく鎮座している。安正の長男安彦は工業デザイナー。安勇の次男安治は大正2年首里生まれ、中京商業卒、名古屋通商産業局課長で退官。晩年、琉球使節江戸上りの調査・研究に没頭、数々の資料を発見、沖縄タイムス等に発表。没後、資料は散逸。鈴木始(豊田市)が縁戚にあたる。


● 名城良図―明治31年那覇市生まれ、東 京医科卒、享年94歳。名古屋市熱田区で産婦人科医院開業。郷里沖縄への熱い思い・復帰運動を全身で訴え、グズグスやテェゲー主義を嫌い、県人会の動きが鈍いとして「でいごの会」を主宰、沖縄県名古屋事務所誘致署名運動など独自に行った。「でいごの会」資料は渡久地政司保存。
● 大浜 皓(あきら)―名古屋大学名誉教 授・文学博士、著書「中国古代の論理」「老子の哲学」等多数。明治37年石垣市登野城生まれ。東京大学大学院卒。沖縄復帰までの約10年間、愛知沖縄県人会会長としてバラバラになりかけた組織をまとめた。愛知県、政党、愛労評、学者などと折衝。党派・主義を超えた運動を推進。没後、書籍は石垣市に寄贈。
(資料の一部は渡久地政司所有)
● 米須秀顕―明治40年首里出身、中央大 学卒、日本専売公社三重県津所長・退職。大浜会長の後継・愛知沖縄県人会会長。
(この時期の資料は散逸)
● 仲井間宗智―明治38年那覇市生まれ。
守山沖縄県人会所属。米須会長後継。愛知沖縄県人会会長。屋良朝苗沖縄県知事が名古屋市に来訪した時、名鉄ホテルで歓迎会を主催。
(この時期の資料は散逸)
● 南条康宏―那覇市出身、早稲田大学卒、
舞踊家。愛知沖縄県人会役員。南条宏―舞踊家、愛知沖縄県人会役員、自宅(名古屋市中区南武平町)の稽古場が県人会の会合に度々使用されていた。宏の妻・南条君子―1911年宮崎県生まれ、本名高江洲とみ子、沖縄高女卒、夫宏とともに名古屋南条児童舞踊研究所(南条舞踊学校)を創立。(若干の資料・渡久地政司所有)
● 昭和39年度「でいごの会」役員。会長
・名城良図、副会長・西里安雄、監事・翁長良明、顧問・佐渡山安勇、大浜皓、南条康宏、
・照屋勘吉、米須秀顕、安江匡平。
(「でいごの会名簿」渡久地政司所有)
● 昭和40年度愛知沖縄県人会役員名簿―会長・大浜皓、副会長・名城良図、米須秀顕、幹事・宮里弘、安江匡平、会計監査・徳永盛和、当間嗣勝、会計・仲井間宗智、当銘保夫、緑支部長・識名盛善、守山支部長・天願二男、西支部長・末吉和三郎、猪子石支部長・大城盛雄、昭瑞支部長・盛島薫永、中支部長・安江匡平、港南支部長・新城清亀、豊田支部長・渡久地政蔵。(資料・渡久地政司所有)
● 昭和42年、知念実著「沖縄からの就職
少年」(村田書店)刊行。知念実―名古屋市の豊国機械工業(株)に勤務しながら沖縄からの就職少年の実態、問題点を詳細にまとめる。復帰前の集団就職少年・少女の記録として貴重。著者は名古屋市港区に在住していた。(渡久地政司所有)
● 昭和45年度愛知沖縄県人会会費納入者
調べ。守山支部48人、緑支部45人、豊田支部14人、西支部19人、昭和支部20人、猪子石支部16人、中支部1人。計194人。計194.900円。 (「愛知沖縄県人会たより」第7号 昭和45年11月11日号、渡久地政司所有)
● 愛知沖縄学生会―『獅子しさー』1号(昭和42年11月12日)、『獅子しさー』2号(昭和43年12月7日)、『獅子しさー』3号(昭和44年12月1日)。愛知教育大学生であった高良倉吉琉球大学教授も出筆している。 (資料・渡久地政司所有)
● 愛知沖縄青年会―『でいご』7号(昭和43年8月)
● 復帰運動(1960年~73年)
 沖縄の本土復帰運動には、ユニークなものがあった。愛知では、愛知県、政党、労働組合、大学、病院、宗教団体、市民が党派、主張、主義を超越した組織をつくったところにユニークさがあった。
昭和41年2月、愛労評と社会党の代表団7名は鹿児島経由で訪沖、与儀公園での集会に参加、南部戦跡を視察しておおきなショックをうけた。その後、愛労評・社会党は、10数回にわたって沖縄調査団を派遣した。中心人物の一人庄司悠一(愛労評・社会党)は、沖縄に50数回訪問している。そして昭和42年○○月第1回愛知と沖縄を結ぶ会が○○で開催された。実行委員には、戸刈近太郎金城大学学長、三雲次郎名城大学学長、大浜皓愛知沖縄県人会会長・名古屋大学教授、名城良図でいごの会会長・医師、阿久津槙名鉄病院長、鬼頭正男沖縄現地調査事務局長、大脇保彦弁護士、竹川登介医師、岩瀬幸男愛労評、村井瀞一中小企業代表、藤原承玄宗教者、吉岡義紀県議らが名前を並べていた(肩書きはいずれも当時)。
この大会の次第は次のとおり。
● 沖縄救援カンパ運動―愛労評と市民団体は、街頭や職場で沖縄救援カンパ活動をおこない当時1台3万円もした車椅子50台を沖縄の老人ホームに寄贈した。また、宮古島台風被害直後、平良市民会館建設資金として1.000ドル贈呈した。
 愛知県大府市にあった国立結核診療所には、常時100人の沖縄からの結核患者が入院していた。この入所には、大浜皓名大教授、勝沼六郎所長、片岡廣幸医師など多くの病院関係者の尽力があった。愛知沖縄県人会も度々慰問活動をおこなった。
 杉田眼科病院(名古屋市中区栄)の杉田医師は、沖縄の白内障の患者を私費で招き、手術など治療をおこなった。
● 沖縄と愛知を結ぶ会(1968年8月25日)
中日劇場―愛知県知事、名古屋市長、名古屋商工会議所会頭らが挨拶。沖縄県から復帰協会長喜屋武真栄が来名し、琉球古武術を披露、普久原舞踊団、嘉手納清美らが琉球舞踊を演じた。この集いは3回ほどおこなわれた。
● 愛知沖縄県人会休眠状態に。沖縄が本土 復帰した1973年以降、全体としての役員構成ができなくなり、実質的に休眠状態となり、屋嘉比紫盛(愛知県との窓口)が会長職と名称を維持した。この間も緑沖縄県人会は運動会、豊田沖縄県人会はエイサー大会と親睦会、守山沖縄県人会(不明)、愛知沖縄青年会は芸能祭・キャンプなどを行っていた。
● 沖縄県名古屋事務所―県事務所設置運動は1960年初頭からおこなわれていた。昭和40(1965)年、琉球政府東京事務所名古屋支所設置。昭和45(1970)年、琉球政府名古屋事務所開設(名古屋市中村区笹島)。昭和47(1972)年沖縄県大阪事務所名古屋分所開設、同分所 昭和49(1974)年、中村区広小路ガーデンビルに移転。昭和54(1979)年沖縄県商工労働部沖縄県名古屋事務所開設。
昭和59(1984)年沖縄県大阪事務所名古屋支所。平成5(1993)年、(株)沖縄県物産公社大阪営業所名古屋支所を所内に開設。平成6(1994)年7月、名古屋わしたショップを中区錦3丁目に開設。平成6(1994)年11月、名古屋支所を中区錦3丁目に移転。平成7(1995)年4月、沖縄県名古屋事務所へ改組。沖縄県名古屋事務所のエリアは、愛知県、三重県、岐阜県、福井県、石川県、富山県。
● 沖縄の芸能―1945年から1973年までの
間、愛知県内の沖縄芸能団体の存在を証明する印刷物は見つかっていない。琉球民謡、唄三糸、舞踊などは、私的におこなわれていた。
 昭和40年ころ、名古屋市内の野外で嘉手苅林昌が唄三糸を披露した(渡久地の記憶)。
 昭和50年代、豊田民踊同好会が豊田沖縄県人会と会計を同じくして存在し、毎年エイサー大会を開催するようになった。
 昭和60(1985)年7月、名古屋市民会館で組踊「執念鐘入」公演、金城美枝子・玉城節子・島袋光晴・安富祖竹久・島袋正雄・島袋光史ら。(「沖縄年鑑」1986年版)  
 平成17(2005)年、県内の「琉球舞踊、唄三糸、エイサー」団体は、舞踊○、唄三糸○、エイサー○、劇団1、の盛況となっている。
 プロの沖縄・琉球芸能―アーチスト公演は、毎月のごとくおこなわれている。
● 愛知沖縄県人会連合会として再発足―昭和60年前後、上原勘松郎、比嘉照康、山城一男、前原信政、濱盛重則らが愛知沖縄県人会を連合会方式で再発足することに尽力した。昭和○○年、
● 上原勘松郎が初代連合会会長に就任。 (   )、連合会の基礎を固め、発展の基礎をつくった。2代目会長に比嘉照康(  )、3代目渡久地政司(  )、4代目前原信政(現)。
● 昭和○○年、全国に先駆けて「紺碧の会」豊田市に設立され、「名古屋泡盛同好会」も結成された。
● 阪神淡路大震災・兵庫沖縄県人会連合会
お見舞い―愛知・三重・岐阜の3沖縄県人会では、震災直後の○月○日、兵庫県尼崎市の兵庫沖縄県人会連合会本部を訪問、お見舞金を手渡した。
● 第3回全国沖縄県人会交流会IN名古屋 ―平成10年11月8日、名古屋東急ホテルで第3回全国沖縄県人会交流会IN名古屋が開催された。参加者は○○○人、記念講演・高良倉吉琉球大学教授。ここでの残余金を沖縄県福祉協議会に寄付。
● 名古屋市東山動物園にシーサーを寄贈
―東山動物園のコアラの餌のユーカリを沖縄県名護市の森林組合が委託栽培をしたのを機会に、愛知沖縄県人会連合会では、同動物園に大型のシーサー一体を寄贈した。