1908年9月ー愼氏我部家7代目・我部政榮葬儀/1929年9月1日『沖縄朝日新聞』「昭和5年1月、三越において本県物産の展覧会を開催することについては斡旋者たる我部政達氏・・・」(この頃、三越に1919年入店の瀬長良直が居る。1934年、銀座支店長。1937年、大阪支店長)


1955年7月1日『琉球新報』我部政達「本土に散在する郷土文化財について」
 1973年3月ー『琉球の文化』第三号<特集・琉球の伝統玩具/琉球の塗物>□琉球文化社〒902那覇市安里425丸清ビル2階/コザ支社(城間喜宏)/関西支局(沖縄関係資料室・新城栄徳)/神奈川出張所(平良秀夫)


<50年前の琉球の玩具>我部政達が1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」に出品したもの。

特集Ⅱ・琉球の漆器
  琉球漆器考(再録)ー石沢兵吾
  文献にみる琉球漆器の古さー山里永吉
  漆に魅せられてー前田孝允
  琉球独得の漆芸「堆錦」についてー編集部
  沖縄漆工芸の現状と将来を考えるー伊差川新
  沖縄の漆器素材と漆料の問題ー多和田眞淳
  琉球の漆工芸・郷土玩具に関する文献ー新城安善 
  現代沖縄の工芸家ー漆芸家・前田孝允さん


左のカラー図は、崎山嗣昌「闘鶏」/古倉保文「首振りトラ」、


1974年9月 『月刊 歴史手帖』名著出版「地方史雑誌・文献目録ー◇琉球の文化 第三号」

1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」

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沖縄県立図書館出品の「程順則肖像」が見える

1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」、写真・ペルリ提督の首里城訪問のジオラマ
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「二十日正月踊」のジオラマ
1月ー『琉球展覧会出品目録』□永見徳太郎ー琉球女日本男遊楽の図、琉球船競漕の図、琉球人行列/島田佳矢ー琉球木彫聯、琉球木彫額、琉球竹花生、琉球細麻衣(笠、片袖、秋夏模様)、新月型酒入、龍模様花瓶/銘苅正太郎ー東道盆
山村耕花ー麻紅格子衣裳、麻茶地縦格子衣裳、麻紺地蝶梅模様衣裳、麻紺地花笠模様衣裳、麻紺地茄子模様衣裳、麻薄藍地松梅紅葉模様衣裳、木綿薄藍地牡丹鳳凰模様衣裳、木綿白地ドジン、麻風呂敷(三ツ巴に一紋付柳にのし模様)、鼈甲 (廃藩以前婦人使用のもの)、蛇皮線(爪付)、琉球胡弓(弓付)/啓明会ー琉球風俗絵、唐船渡来図、古代紅型裂地(300余年前のもの)、焼物製作に関する証書、紅型型紙図案(15枚)、紅型型紙(11枚)、絣図案(16枚)、絣図案(19枚)、手拭図案(2枚)、墨すり紅型図案(5枚)、風呂敷図案集(2枚)、紅型衣裳(3枚)、古代面 能面(4面)・・・比嘉華山は唐船入港ノ図、尚順は「神猫の絵」、富名腰義珍は唐手軸物、唐手本、唐手写真貼、巻藁(板付)、木刀、十手、唐手術写真、六尺棒などを出品している。①杉浦非水は琉球壺(芳月窯・唐草彫)、琉球壺(南蛮模様彫)を出品。
①杉浦非水 すぎうら-ひすい 1876-1965 明治-昭和時代の図案家。
明治9年5月15日生まれ。グラフィックデザインの開拓者のひとり。地下鉄(昭和2年の開通時)や三越のポスター,たばこのパッケージなどを手がける。図案家の団体「七人社」を設立。昭和10年多摩帝国美術学校(現多摩美大)校長。30年芸術院恩賜賞。光風会会員。昭和40年8月18日死去。89歳。愛媛県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は朝武(つとむ)。(→コトバンク)/日本のデザイン史に燦然と輝くモダンポスターの傑作『三越呉服店 春の新柄陳列会』です。描いたのは、三越の図案部員として次々と傑作ポスターを世に送り出し、「三越の非水か、非水の三越か」と言われるほどの名声を得た近代グラフィックデザインの父・杉浦非水。日本で最初に商業美術という分野を切り拓き、多摩美術学校の初代校長兼図案科主任教授として日本にデザインを根付かせる為に生涯尽力した人物です。(→美の巨人たち)
ホール催物 講演 東恩納寛惇「琉球の歴史と地理に就て」/鎌倉芳太郎「琉球の文化に就て」



山田真山・住所変遷
山田泰雲君は元篆刻てんこく師の弟子であったが、芦野楠山先生の世話で師の許しを得て私の門下となった。大分出来て来て、これからという処で病歿しました。→青空文庫/高村光雲「幕末維新懐古談・その後の弟子の事」
1916年   東京府下日暮里谷中本1017
□石野瑛『南島の自然と人』表紙・山田真山画「オメントー」
1918年   東京市下谷区三崎南町60
1929年   東京市外井萩町上荻窪963
□2001年3月『新生美術』山田博「具志堅(聖児)先生の思い出」
□真山家族ー妻・博子(小堀鞆音の娘)、長男・真、次男・博、長女・栄子、3男・光三
小堀鞆音 こぼり-ともと
1864-1931 明治-昭和時代前期の日本画家。
文久4年2月19日生まれ。川崎千虎(ちとら)にまなび,歴史画を得意とした。明治31年日本美術院の創立に参加。41年東京美術学校(現東京芸大)教授。大正8年帝国美術院会員。門下に安田靫彦(ゆきひこ),川崎小虎(しょうこ)ら。昭和6年10月1日死去。68歳。下野(しもつけ)(栃木県)出身。旧姓は須藤。本名は桂三郎(けいざぶろう)。作品に「宇治橋合戦」「武士」など。(→コトバンク)
1937年   名古屋市中区米野町居屋敷52

1937年7月18日『琉球新報』「工房を開放し太田翁の胸像 本日、一般へ観覧さす」
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山田真山、太田朝敷像制作
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比島移民翁・大城孝蔵立像
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先月、芸大の小林純子准教授研究室に遊びに行くと山田真山資料がまとまってあった。沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館には真山の下絵、スケッチ、平和祈念像の構想図が、1986年に遺族から寄贈された。今回、その整理が終わったので報告を書いているのだと小林さんは言う。小林純子「山田真山による下絵資料について」に真山の略歴がある。私も以前、那覇市が真山の日本画、彫刻作品を購入するにあたって参考資料を提供したことがある。



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□山田泥真・真由美さん親子に会う。琉球紅型の作家で名前はドロシー。親しかったアメリカ人につけてもらったという。昭和22年生まれ。 「山田真山という号です。小堀鞆音の娘と結婚して生まれた長男は東南アジアで戦死、次男は戦時中に学徒出陣でなくなりました。これは後妻のうちの母が育てた子ですが。父は紙徴兵にもなれないくらい体も弱く小さくて、いつも戦争に送り出す側でした。ですが戦後は琉球政府で画家として重用され、切手の図案を書いたりして、平和を祈念して記念塔におさめる仏像の原型を作りました。62で私を、64で弟を生れて全部で12人子どもをつくって92歳でなくなりました。母はレストランをやってハンバーガーなど作って父を支えた。(→森まゆみブログ)

1894年3月20日ー『國民新聞』流虬浪人(佐々木笑受郎)「八重の潮風ー沖縄の現況(工業)工業とては全く織物と漆器の二種のみ世に謂う薩摩飛白とは元と此地の産にして曾て島津公の配下となりし時貢物として奉呈せしを各地に散布するに至りて終に呼で薩摩飛白と云ふ(略)那覇在住の内地人の手にて作らるるものと監獄囚人の作るものとあれども漆器は共に珍らしきまでに光沢あり朱尤も美なり之に要する木材青貝は当地に産すれども漆は内地に之を仰ぐなり遠く昔より製造さるるものと見えて旧家には珍らしき意匠のもの美しき青貝巻絵のものを蔵するあり近年内地の注文倍々加はり便船毎に内地に向うもの実に尠からず」
山城正忠
1932年5月ー『琉球新報』「山城正忠氏の思出ばなしー学校へ出るのも嫌でたまらず鬱々として楽しまずツてな具合でサボっていた矢先、親父が漆器業で失敗したので家計は頓に貧困を来して私の通学は程なく覚則なく退校問題が両親間に話かけられていたー」

山城正忠は与謝野鉄幹・晶子の弟子であった。上は山城正忠に贈られた色紙ー左は与謝野晶子、右は与謝野鉄幹

1924年3月24日ー去る2月15日から4週間の会期を以って那覇市公会堂に於いて漆器講習会を開催。昨日終了証書授与ー金城南海、阿波蓮本英、知念積喜、亀島汝翼、根路銘恵仁、大城朝怒、友寄英顕、普天間真栄、嵩安安銓、饒平名光輝、真栄平房冨、稲福盛助、他11名

浅田漆器店カタログ



米次漆器店カタログ