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 1964年夏、錦糸町で友和寮の屋上、夜空を見ながらレコードプレーヤーで琉球民謡を聞いていた。今おもうと月並みの民謡であった。以前、東京の美術史家・浦崎永錫さんを訪ねたとき、浦崎さんは「わたしは沖縄にはこだわらない」と言いながらも月並みの琉球民謡レコードを聞かしてくれながら話に応じた。私は1972年11月発行の沖青友の会機関誌『石の声』10号に「試験管の中の人生」と題し「僕は今、琉球民謡を聞きながらコレを書いているが、『琉球』というカプセルのなかに己の人生のすべてがあり、誰かがいう、『君、琉球というセマイ発想ではアカン!モノは大局的に世界的な発想で見なくチャーアカンデー』余計なお世話である。・・・しかし郷土の民謡はイイネェー。ジーンとくる。・・・自分自身が<石>という、無生物に近づきつつあるという幻想をいだかせるではないか!ヤー。チンボーラー』と記している。






ラジオ沖縄「沖縄復帰記念 琉球芸能大百科 おきなわの詩」儀間比呂志「装画」

儀間比呂志の絵・版画が使われているレコード・CD

1915年8月30日『琉球新報』「琉歌吹込みを聞くー1昨日から石門通り森楽器店主の主催とせる琉球音楽奨励会のレコード吹込みを奥武山公園内城間氏別荘でやっているが昨日吹込みを為すべき音楽家は首里から高江洲氏那覇から城間、伊差川、我謝、池宮城喜輝の諸氏であったー」

1915年9月3日『琉球新報』広告「空前の大提供ー本県家庭の大福音/琉球歌と蓄音器」
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1915年9月3日『琉球新報』「琉歌レコード仕上ー森宗次郎、仝仲太郎、山口全則主催の琉歌レコードは去る31日までに吹込みを終了し1昨日技師等は是を携え上阪せるが該レコードの仕上は多分9月下旬ならんー」

1917年1月 那覇商業銀行 監査役・山城高興、城間恒有、森亀次郎/謝花雲石・島袋石扇「琉球音楽野村流始祖先師顕彰碑」始祖・野村安趙、松村真信、桑江良真、城間恒有、伊差川世瑞、世禮國男

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毛氏古堅盛珍は亀川殿内2代の支流平安名親雲上の長男、1852年生まれ。父の役をつぎ平安名の脇地頭、後読谷山古堅の脇地頭。18歳の頃、弦声の道を安室親雲上に学ぶ。次男盛保。1920年没。1915年、城間恒有別荘でコロンビアレコードに辺野喜節を吹き込む。金武良仁は述懐節を吹き込む。

左に「ナショナル乾電池」広告(1938年6月『琉球新報』)

ーXERAー音楽産業の歴史と発展」/→「クラシカル・ギターを止められないby Enriqueー記録メディアの分類」

1973年9月 沖縄の雑誌『青い海』秋季号 通巻26号 仲宗根幸市「エイサー(盆踊り)と八月踊り」
b>仲宗根幸市(今帰仁村湧川出身)

1978年9月 仲宗根幸市『琉球民謡選集』海邦出版社(副島豊一)


仲宗根幸市氏の著作(下は左2冊)

1990年4月『すくみち』第12号 仲宗根幸市「湧川の『マリー』について考える」


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左から2人目が仲宗根幸市氏、右端が新城栄徳


むんじゅる節
わが生まれ島、粟国島を舞台にした映画に「ナビィの恋」がある。宣伝ポスターはこの映画の応援団長の名嘉睦稔が描いている。映画では「十九の春」が歌われていた。この歌は仲宗根幸市によると、日露戦争の頃から大正にかけて流行したラッパ節は、北九州の炭坑に伝播し、与論島出身の石炭運搬労働者に親しまれた。全国的に流行した「ラッパ節」を、与論島出身の人たちが三線で歌い、一部補作され歌い広められたのが「与論ラッパ節」「与論小唄」で、これを与那国島出身の本竹裕助が改作し「十九の春」とした。

新城栄徳の伯父の玉寄貞夫は1983年に元粟国村長の仲里秀雄と共著で『粟国島民謡集』を出した。その刊行前に琉球民謡協会名誉会長の川平朝申氏のところへ伯父を同行し序文を依頼した。川平氏はその場で「このほどバジルホール協会会員の新城栄徳君が粟国民謡研究家の玉寄貞夫氏を伴い来訪し、粟国島民謡集を出版するから1文を章して欲しいと望まれた(略)粟国島の民謡が沖縄全島の舞踊となった『むんじゅる平笠』を讃えて、御祝いの辞といたします」とペンで書いて下さった。
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