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錦糸町駅
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 1964年夏、錦糸町で友和寮の屋上、夜空を見ながらレコードプレーヤーで琉球民謡を聞いていた。今おもうと月並みの民謡であった。以前、東京の美術史家・浦崎永錫さんを訪ねたとき、浦崎さんは「わたしは沖縄にはこだわらない」と言いながらも月並みの琉球民謡レコードを聞かしてくれながら話に応じた。私は1972年11月発行の沖青友の会機関誌『石の声』10号に「試験管の中の人生」と題し「僕は今、琉球民謡を聞きながらコレを書いているが、『琉球』というカプセルのなかに己の人生のすべてがあり、誰かがいう、『君、琉球というセマイ発想ではアカン!モノは大局的に世界的な発想で見なくチャーアカンデー』余計なお世話である。・・・しかし郷土の民謡はイイネェー。ジーンとくる。・・・自分自身が<石>という、無生物に近づきつつあるという幻想をいだかせるではないか!ヤー。チンボーラー』と記している。
☆1974年後半、私は墨田区江東橋の社員寮に住んでいた。そのころ、ゼロメートル地帯と言われていたが、今でも変わらないようだ。江東区、墨田区及び江戸川区には干潮時の海水面よりも低い地域がある。加えて、神奈川県川崎市川崎区にも海抜ゼロメートル以下の地域がある。大阪市湾岸部の港区や西淀川区、北区、浪速区、城東区、大正区、西成区を中心に海抜ゼロメートル未満の地域があり、同じく阪神工業地帯を形成する兵庫県尼崎市南部や西宮市南東部にも海抜ゼロメートルか海抜マイナスの地域がある。オランダは干拓によって国土を広げ、干拓地に農地を広げ、都市を建設してきた。アムステルダムやロッテルダムなど、同国の主要都市の多くは干拓によって広げられたゼロメートル地帯に存在している。→ウィキ

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『真境名安興全集』第四巻に「組躍女物狂と謡曲隅田川」が載っている。「玉城朝薫の組躍女物狂も、亦梅若丸の叡山に居たことから、思ひついたのであらうか、人盗人が御寺に宿り込んだ為めに発覚して、捕へられ、少年は母に引渡されて肉親の温かい愛に蘇へるといふことになって居る・・・」
 〇組躍女物狂ー人盗人(真境名由康)、子供(比嘉園子)
 〇1987年2月 『隅田川絵図』隅田川文庫
 梅若塚の由来(東京都墨田区の木母寺略誌による)「 梅若丸は、吉田少将惟房卿の子、5歳にして父を喪い、7歳の時比叡山に登り修学す。たまたま山僧の争いにあい、逃れて大津に至り信夫藤太という人買いに欺かれ東路を行き隅田川原に至る。旅の途中から病を発しついにこの地に身まかりぬ。ときに12歳、貞元元年3月15日なり。いまはの際に和歌を詠ず。 尋ね来て問はは応へよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと このとき天台の僧、忠円阿闍梨とて貴き聖ありけるが、たまたま此処に来り、里人とはかりて一堆の塚を築き、柳一株を植えて標となす。
 あくる年の3月15日、里人あつまりて念仏なし、弔いおりしに母人、わが子の行方を尋ねあぐみ、自ら物狂わしき樣してこの川原に迷い来り、柳下に人々の群れおり称名してありしに、塚の中より吾が子の姿幻の如く見え言葉をかわすかとみれば、春の夜の明けやすく浅茅の原の露と共に消え失せぬ。夜あけて後、阿闍梨にありしことども告げてこの地に草堂を営み、常行念仏の道場となし、永くその霊を弔いける。 」→謡蹟めぐり 隅田川※他に舞台は埼玉県春日部「古隅田川」という説もある。


2012年7月 生田誠『墨田区・江東区今昔散歩 東京スカイツリー®の見える街』彩流社

2015年9月 江東区地域振興部文化観光課文化財係『下町文化』№271○野本賢二[【泡盛の壺】発見!~泡盛が結ぶ沖縄と江東~]
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2006年7月『40年前の東京ー春日昌昭のトウキョウ』生活情報センター/1960年11月23日『琉球新報』
 ★2017/12/27/ AERA編集部富岡八幡宮続報 殺害された姉宮司ホスト通いで月200万円 犯人弟の息子は都内の神社で働く






ラジオ沖縄「沖縄復帰記念 琉球芸能大百科 おきなわの詩」儀間比呂志「装画」

儀間比呂志の絵・版画が使われているレコード・CD

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あけみ、ひなみ/勢理客宗玉(1838年~1900年)/勢理客宗徳(1857年~)
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1915年8月30日『琉球新報』「琉歌吹込みを聞くー1昨日から石門通り森楽器店主の主催とせる琉球音楽奨励会のレコード吹込みを奥武山公園内城間氏別荘でやっているが昨日吹込みを為すべき音楽家は首里から高江洲氏那覇から城間、伊差川、我謝、池宮城喜輝の諸氏であったー」

1915年9月3日『琉球新報』広告「空前の大提供ー本県家庭の大福音/琉球歌と蓄音器」
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1915年9月3日『琉球新報』「琉歌レコード仕上ー森宗次郎、仝仲太郎、山口全則主催の琉歌レコードは去る31日までに吹込みを終了し1昨日技師等は是を携え上阪せるが該レコードの仕上は多分9月下旬ならんー」

1917年1月 那覇商業銀行 監査役・山城高興、城間恒有、森亀次郎/謝花雲石・島袋石扇「琉球音楽野村流始祖先師顕彰碑」始祖・野村安趙、松村真信、桑江良真、城間恒有、伊差川世瑞、世禮國男

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毛氏古堅盛珍は亀川殿内2代の支流平安名親雲上の長男、1852年生まれ。父の役をつぎ平安名の脇地頭、後読谷山古堅の脇地頭。18歳の頃、弦声の道を安室親雲上に学ぶ。次男盛保。1920年没。1915年、城間恒有別荘でコロンビアレコードに辺野喜節を吹き込む。金武良仁は述懐節を吹き込む。

ーXERAー音楽産業の歴史と発展」/→「クラシカル・ギターを止められないby Enriqueー記録メディアの分類」





2010年7月3日『琉球新報』 先達たたえ献奏 琉球古典音楽野村流
顕彰碑前で「ぢゃんな節」「十七八節」を厳かに献奏する会員ら=2日、那覇市若狭の旭ケ丘公園内 琉球古典音楽野村流の4団体で構成する「野村流合同協議会」(國吉正康会長)は2日、那覇市若狭の旭ケ丘公園内にある琉球古典音楽野村流始祖先師顕彰碑前で「野村安趙師を始祖とする野村流先師の遺徳を偲(しの)ぶ会」を開いた。役員ら16人が出席して黙とうを捧げ「ぢゃんな節」「十七八節」を厳かに献奏し先人の偉業をたたえた。偲ぶ会は2008年から始まり3回目。毎年、野村安趙師の命日である7月2日に合わせて野村流音楽協会、野村流伝統音楽協会、野村流古典音楽保存会、野村流松村統絃会で構成する合同協議会が主催する。
 前日の大雨とは一転し晴れ渡った空の下、出席者は報恩の音色を響かせた。國吉会長は「文化庁も(琉球古典音楽を)高く評価し、郷土芸能の真価を認められている。海外へも普及し伝統を継承していきたい。先師への報恩と喜びの会としたい」とあいさつした。

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野村安趙墓

1973年9月 沖縄の雑誌『青い海』秋季号 通巻26号 仲宗根幸市「エイサー(盆踊り)と八月踊り」
b>仲宗根幸市(今帰仁村湧川出身)

1978年9月 仲宗根幸市『琉球民謡選集』海邦出版社(副島豊一)


仲宗根幸市氏の著作(下は左2冊)

1990年4月『すくみち』第12号 仲宗根幸市「湧川の『マリー』について考える」


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左から2人目が仲宗根幸市氏、右端が新城栄徳


むんじゅる節
わが生まれ島、粟国島を舞台にした映画に「ナビィの恋」がある。宣伝ポスターはこの映画の応援団長の名嘉睦稔が描いている。映画では「十九の春」が歌われていた。この歌は仲宗根幸市によると、日露戦争の頃から大正にかけて流行したラッパ節は、北九州の炭坑に伝播し、与論島出身の石炭運搬労働者に親しまれた。全国的に流行した「ラッパ節」を、与論島出身の人たちが三線で歌い、一部補作され歌い広められたのが「与論ラッパ節」「与論小唄」で、これを与那国島出身の本竹裕助が改作し「十九の春」とした。

新城栄徳の伯父の玉寄貞夫は1983年に元粟国村長の仲里秀雄と共著で『粟国島民謡集』を出した。その刊行前に琉球民謡協会名誉会長の川平朝申氏のところへ伯父を同行し序文を依頼した。川平氏はその場で「このほどバジルホール協会会員の新城栄徳君が粟国民謡研究家の玉寄貞夫氏を伴い来訪し、粟国島民謡集を出版するから1文を章して欲しいと望まれた(略)粟国島の民謡が沖縄全島の舞踊となった『むんじゅる平笠』を讃えて、御祝いの辞といたします」とペンで書いて下さった。
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2001年4月29日の儀間さんのFAX