『和漢三才図会』(わかんさんさいずえ)は、1712年(正徳2年)頃出版された日本の類書(百科事典)。
編集者は大坂の医師寺島良安で、師の和気仲安から「医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり」と諭されたことが編集の動機であった。中国の『三才図会』を範とし、いわば絵入りの百科事典である。全体は105巻81冊に及ぶ膨大なもので、各項目には和漢の事象を並べて考証し、図を添えた。本文は漢文で解説されている。三才図会をそのまま写した項目には、空想上のものや、荒唐無稽なものもあるが、著者が医師(もちろん漢方医)であるだけに、東洋医学に関する記事は非常に正確で、鍼灸師の中には、これをもっとも信頼できる古典と見る人もいる(→ウィキペディア)




『和漢三才図会』「龍蛇部」

1951年5月『南方熊楠全集』1 十二支考(1)乾元社
○龍の起源と発達ー1867年版ゴルトチッヘルの希伯拉鬼神誌に、聖書に所謂龍は雲雨暴風を蛇とし、畏敬せしより起こると解た。亜喇伯人マスーヂー等の書に見る海蛇(聖書の龍と同根)は、其記載旋風が海水を捲上る顕象たる事明白で、其を我国でも龍巻と云ひ、八雲の立つ同様下から立ち上がるから龍をタツと訓み、乃ち旋風や龍巻を龍と云たと誰かから聞いた。・・・・

1979年12月 吉野裕子『ものと人間の歴史 32 蛇』法政大学出版局
○たとえば隣国中国の天地開闢の創世神は、伏犠・女媧の陰陽神であったが、この二神の神像は人間蛇身の兄弟神で、しかもその尾を互いにからませあっているから」夫婦関係を示している。要するに中国の祖神は蛇なのである。この蛇の夫婦神は劫初の洪水をのがれ、天の裂け目をつくろって平和をもたらし子孫をのこして栄え、人間の祖となったのである。このように蛇は人間の祖先にまでたかめられるのに対し、キリスト教では、性を人類の祖先に教えた蛇は諸悪の源、原罪をつくったものとして邪悪の権化と見なされ、多くの聖画の構図にみられるように天使の足は永劫に蛇を踏みつづけている。 出雲大社竜蛇神図


1982年7月号『遊』「龍の美術誌」




1987年3月 『龍の物語』新宿書房




2002年4月 土屋禮一『龍の本』ビジョン企画出版社

2015年3月 秦恒平『湖(うみ)の本 123 繪とせとら日本』「龍蛇の問題ー『龍の研究』といった本があるかどうか、無くはあるまいが、まだ目にしたことがない。にもかかわらず、『龍』に関心をもってきた。干支の『辰』も、関心に含まれてはいる。しかし根ざした思いとしてはあくまで『龍』である。と同時に、龍頭蛇尾ともいう。根はひとつで、おもむくところ、必然『蛇』にも注意せざるをえない。現実問題として、『龍』の問題は余儀なくむしろ『蛇』を介して思案せざるをえない。・・・」

伝説の地(共興地区東小笹) 
 名主は、龍神(りゅうじん)を深く信仰していたので、毎日海岸に出てお祈りをしていた。ある日のこと、いつものようにお祈りをしていると龍神が現れ、「日頃、お前の信心深いのには実に感心している。今日は龍宮城(りゅうぐじょう)へ招待しよう。私の後について来なさい」と言った。信仰厚い名主は、招かれるままに龍神の後をついて行った。青い瓦、朱塗(しゅぬ)りの柱、美しい彫りもので飾った回廊(かいろう)、今まで見たことのない、宮殿であった。珍しい飲み物や食べ物、それにすばらしい音楽、美しい踊り。名主は、龍神から手厚い持て成しを受けた。何もかもが夢を見ているようで、いつの間にか、数日がたってしまった。→千葉県匝瑳市

2016年1月8日 若狭の龍神





1992年6月『新生美術』10号
山里永吉×浦崎永錫□古きよき美術放談ー浦崎「ぼくが絵が好きになったのは、小さいころ若狭町の漆器屋の大見謝さんという人が、ランとかタケだとかを実に美しく、どんどん描いているのをうっとり見とれていたもので、それが一つの刺激になったのだと思うネ。」 山里「若狭町といえばそのころ沖縄の芸術家の出身地で絵をかく人には若狭町出身者が実に多いんだ。比嘉華山、金城南海、親泊英繁、西銘生楽、渡嘉敷衣川、野津久保、渡嘉敷唯仁、それに浦崎永錫がそうだろう。古くは有名な彫刻家・田名宗経もそうだし、若狭町は芸術家の輩出する町だネ。これは若狭町、漆器の影響だと思うな。」  浦崎「そうか、田名宗経も若狭町出身か、初耳だ。漆器の刺激と、それに景色がいいことだろう。夕方になると、おとなも子供もいっぱい若狭町灣小に出て夕日に見とれていたものだ。・・・・・」 



 龍はシーサーに比べて那覇市内には少ない。お土産品にもない。ジャッキー・チェンのカンフー・アクション映画に「龍拳」があった。沖縄ヤクザのドンの半生を描いた『旭龍』と題する文庫本も書店に並んでいる.ドンで思い出したがヤマトの右翼やヤクザ団体名称には、戦前の内田良平の黒龍会、戦後の黒龍倶頼部(世話人・影山正治大東塾長)、独眼竜こと森田政治が創った蒼龍会、小天龍組(新居志郎組長)、愛媛の神竜会、岐阜の全日本昇龍会、熊本の龍生一家(上村元生組長)などが思い浮かぶ。この団体の構成員は入墨にはなぜか龍が多い。個人名には坂本龍馬をはじめフランス文学者の澁澤龍彦、元内閣総理大臣の橋本龍太郎など多数ある。地名にも龍のつくところはあちこちにある。なにしろ干支の一つだから12年に1回はなにかと話題になる。


孔子廟(久米至聖廟)                                 




福州園は中国福建省福州市(ふっけんしょう・ふくしゅうし)と那覇市の友好都市締結10周年と、那覇市市制70周年を記念して、1992年に完成しました。園内は中国の雄大な自然と福州の名勝をイメージして造られている。

老人ホーム(料亭松乃下跡)の裏側にかつて「料亭松乃下」の中庭に飾られた龍。

御菓子御殿 国際通り松尾店


那覇市ぶんかテンブス館


那覇市立壺屋焼物博物館 ー焼きと沖縄の焼物、そしてこれからの壺屋の未来が伺える博物館。
沖縄の焼物をテーマとした博物館。つねに沖縄の焼物を支え、リードしてきた壺屋のまち全体が博物館というコンセプトのもと、沖縄の焼物の歴史や壺屋焼きの技法・制作工程について詳しく紹介されています。1階奥にある映像シアターでは、戦前戦後の壺屋の暮らしや仕事ぶりを知ることができます。3階企画展示室の外にあるニシヌメー広場は地域のイベントやミニコンサート会場として開放され、広場にある拝所には焼物の関係者だけなく壺屋の発展、健康祈願などの目的で拝む地域の人々が多く訪れている。 →おきなわ物語|沖縄観光情報WEB


竜宮通りから見た国際通り屋台村


さいおんスクエアの爬竜船

○→龍柱は沖縄の文化だ!沖縄の龍柱を集めてみた。 – ウリ!Okinawa

 台北 大稲埕慈聖宮、いわゆる大稲埕媽祖宮は、俗に媽祖や天后と呼ばれる航海の守護神、天上聖母を祀ったものです。法主宮・霞海城隍廟と合わせて大稲埕三大廟と並び称されています。正門の対聯には「第一門開観音山拱秀、数千艇聚奎府水流輝(大門を開ければ観音山の美しい風景が取り囲んでいる。奎府の船着き場には数千艇が集まり、水面は輝いている)」とあり、古今の慈聖宮の変遷が分かります。同治5年(1866年)の創建時には、慈聖宮はもともと現在の西寧北路と民生西路の交差地点に建設されていたのです。廟の目の前には大陸との貿易を担った特別港の「対渡口岸」があり、南北に流れる淡水河岸を見渡すことができました。八里区の観音山も慈聖宮の右前方に横たわっていました。ところが1910年、日本の総督府により市区の改正が行われ、廟は取り壊されてしまいました。そこで、地元の同安人たちが資金を集め、延平北路の現在地に再建したのです。もともとの梁柱と石材を利用して1914年に落成した廟は、昔の姿を今に伝えています。 →台北市政府観光伝播局


宜蘭 東嶽廟