大阪万博開催(1970年3月15日から9月13日)ー梅棹忠夫「万博の準備段階で、岡本太郎さんから『太陽の塔の下に、世界の民族資料を展示したい』と提案がありました。太郎さんはパリ大学で民族学を勉強していた。泉靖一とわたしは『日本万国博覧会世界民族資料調査団』を組織しました」          
岡本太郎「万国博のチャンスに世界中から民族資料を集めた。将来、博物館が出来るとき一つの核になるように、泉靖一、梅棹忠夫両教授に頼んで、蒐集団を組織した。泉さんはすでにない。が梅棹さんはじめ、さまざまの分野の専門家たちがその後もねばり強い努力を続けて、ついに民族学博物館の実現にこぎつけた。世界と無限の交流をする場所。ここでは研究者も一般のピープルも人間存在の意味の、なまなましい暗示を受けるだろう。日本文化にとってうれしいことだ。」/ネットに関連して、1988年7月『みんぱく』に梅棹忠夫館長と奥野卓司の対談がある。奥野氏が「1970年代にアメリカではパソコンと言えば反体制文化と結びついていたね、ドロップアウトしたままになった人達もたくさんいる」と述べている。これは、反体制は自由や解放への道であると同時に逃避や閉塞の道でもある。ということでもある。

梅棹忠夫資料

1974年3月23日~6月2日 大阪万博記念公園エキスポランド「大沖縄展」

「沖縄文庫」-会場内の沖縄文庫で沖縄本を販売する新城栄徳。いつも岡本太郎の太陽の塔を見ながら、民博はまだできていない。/このときの陶器コーナーではシーサー造りの名人・島常賀翁と、陶芸家で駆け出しの平良幸春氏とは一緒に陶芸の用具や釉薬などの材料の店、常賀翁のユンタクを聞きながらシーサー造りを2カ月以上観てきた。常賀翁の三線模合仲間の宮城美能留(宮城 稔)沖縄歌舞団団長の宿泊先のホテルに、一緒に見舞いに行った。
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1952年7月21日『球陽新報』「1周年記念祝賀行事ー第三部 島晴美先生」/1974年ーエキスポランド「大沖縄展」案内パンフ(表紙の踊りは島晴美さんの娘さん)

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1974年 京都国立近代美術館「沖縄の工芸」

旅する仮面

本展に特別協力しているのが国立民族学博物館。
1970年1月、梅棹忠夫氏らが中心となって『季刊人類学』が発刊された。私も早速購入したが、これらの出版活動が1974年6月の「国立民族学博物館」設立につながる。開館当初は私も月に一度は通い、『季刊民族学』、『月刊みんぱく』などを購入した。月刊みんぱく85年1月号には手塚治虫がエッセー「アマゾンの日系一世たち」を書いている。



写真左から城間武雄氏、平良幸春氏、新城栄徳/松島弘明氏
2019年6月4日~9日 沖縄県立博物館・美術館県民ギャラリー 「平良幸春ファミリー展」




2013年5月23日~6月3日 沖縄三越・美術ギャラリー「琉球太田焼窯元・平良幸春一門作陶展」
写真左から新城栄徳、平良幸春氏
ここをクリック「平良幸春一門作陶展出展作品紹介 春奈」


平良幸春ールーマニア国:ブカレスト在住のMonica Gamanさんのペジから奇麗なハイビスカスの写真をシエアさせて頂きました。