1929年年2月14日 シカゴで聖バレンタインデーの虐殺(英: St. Valentine's Day Massacre)
関連〇那覇中学校在学のころテレビで「アンタッチャブル」を見た。エリオットネスを中心とする「正義の味方」アメリカ財務局特別捜査官の活躍を描いたものでいかにも憎々しい「公衆の敵№1」のカポネ像が定着したが、カポネは公衆の酒需要に応えただけで、人間をアメリカ軍の日本・沖縄無差別空襲やベトナム、イラク攻撃のように無差別に人間を殺したわけでもない。カポネも貧しいイタリア・ナポリ移民の子としてニューヨーク・ブルックリンので生まれたことは後に知る。現実の沖縄駐留アメリカ軍兵士の犯罪とダブって見え、アメリカという国は、最近は日本もそうだが、犯罪や戦争までも企業化(マフィア化)にしてしまうものだと妙に納得した記憶がある。長じてカポネ映画も5回見た。カポネに興味があるのは少数派だと思ったが、今でもグーグル検索で人気のある人物で画像、動画も豊富だ。カポネの名前はアメリカ人なら子供でも知っている。
 1964年、東京神保町で入手した中野五郎『ギャングの季節』(1961四季社)、アメリカギャング史の入門書である。□犯罪都市シカゴと全米禁酒法時代の悪夢ー現代アメリカの代表的詩人カール・サンドバーグは、煤煙と鋼鉄の大都会を熱愛して有名な『シカゴ詩集』の中で「世界のための豚殺しや工作職人や麦刈り人夫や鉄道工夫など・・・・・大きな肩を持った都会だ」とシカゴの民衆性を弁護している。しかし、同じアメリカのある評論家が、「シカゴには平和がない。それは抑制されない恐怖と光明の都会である」といみじくも喝破しているように、シカゴこそ自由の国アメリカの明暗をもっとも強烈にかつ露骨に表現した巨大な商業都市であり、偉大な文化都市であり、そして物凄い犯罪都市なのである。(略)
こういう雰囲気の中に、アメリカ社会救済事業の母ジェーン・アダムス女史は1889年に社会改善運動(シヴィック・リフォーム)の烽火をあげて有名な「ハル・ハウス」をシカゴの貧民窟の真中に開設し、またシカゴ大学はじめノース・ウェスターン、ロヨラ、ドポールなどの著名な大学が平和主義と社会学によって権威を高めているのも注目されるであろう。それにシカゴ自慢は1893年のコロムビア大博覧会、1933年の20世紀進歩大博覧会、稀観本専門のニューベリー図書館、フィールド自然博物館、オペラ劇場、マーシャル・フィールド百貨店、アメリカ最大の新聞「シカゴ・トリビューン」など、犯罪都市シカゴの背景はあまりにも文化的であり、また、商業的であると言えよう。ここにシカゴの秘密があり、ガンサーのいわゆる「華麗な矛盾」の悪の華が咲き乱れているのだ。

 16歳、神保町の古書街で一番安いのは週刊誌、雑誌であった。即買ってスクラップ帖にまとめた。雑誌、特に実話系の『週刊実話』しゅうかんじつわ)(日本ジャーナル出版から刊行されている週刊誌。1958年9月に創刊された。いわゆるグラビア・ヌードのある、男性向けゴシップ誌である。暴力団など裏社会の特集が多い事が特徴。『実話時代』、『アサヒ芸能』、『週刊大衆』などと共に「実話誌」のジャンルで括られる事もあるが、実話時代と比べるとやや内容が娯楽重視となっている。→ウィキペディア)の11月21号に「安倍総理が浴びる『一回2億円外遊旅行』」は、10月末にトルコを訪問。2兆円規模の受注にこぎつけて凱旋帰国した安倍総理に、悪評が立ち始めている。(略)『総理の外遊は一回2~3億円かかる』(政治部記者)、多すぎる外遊はストレスで『五輪決定時に見得を切った汚染水問題は加速度的に深刻さを増している。加えて、アベノミクスの第三の矢が定まらない。そのため、多すぎる外遊はそのウサ晴らし』』(政治部記者)と書きたい放題だ。別の誌面には「浄土宗ー東日本大震災で359カ所寺が被災!復興裏で露呈した金満裁判の”不徳”」で、宗教法人は民間会社のように、いくらの収入があって、それをどこに使ったなどのと届け出や公開の義務もないという。ということは秘密法に賛成している公明党も都合の悪いものは秘密に出来る。結構な秘密法ではある。『実話時代』などは、創刊から4半世紀の時を超え、ウラ社会をありのままに伝えるー、と半グレ日本、つまり官僚支配による国民の家畜化が進んでいる今の日本の姿を報じ続けている。


1984年2月 『徳間書店の30年』徳間書店
 大阪での青年会活動で、『TOWN』の岡村昭彦のハワイのウチナーンチュを思い出した。東京晴海の日本離島センターで機関誌『しま』を貰って帰途、国会図書館で『TOWN』1962年2月号を請求したら特殊な雑誌なので許可に2,3日かかるという。大阪から来ているのにムチャを並べる。即止めて発行元の徳間書店を訪ねた。資料室で閲覧していると資料室責任者の川又さんが編集で使った同誌を下さった。話を聞くと同誌は折込で大きいグラビアでヌード写真が掲載されていて国会図書館の良識に触れたようであるが、もう一つが「日本一山口組の政治と犯罪」も問題となったようである。
null
null
null


 『山口組ドギュメント・血と抗争』(三一書房1968年8月)にさとう・せいこうが著者を「色あくまで黒くにきび顔、身体強健にしてなお品あり。このたび、この若年の友のねばり腰の結実が初めて世に問われる。かつてTOWNという至極短命の雑誌があったが、溝口敦はそこに芽生えた企画を遂にここに草し、私はほとんど無為である。これも戦のならいであろう。いんちきノンフィクション派はいわずともがな、東映ヤクザ映画を礼讃して見せる流行のインテリ左翼、テレビ刑事に何かを仮託したつもりの似非ドギュメンタリストどこまでをも、この書が顔色なからしめんことを祈る。確かに、彼が突撃する他なかったのだ。」、と紹介している。
 私(新城栄徳)と歌舞伎町のことは「わが青春ー新宿歌舞伎町」に記している。溝口著2009年6月『歌舞伎町・ヤバさの真相』文春新書に新宿の歌舞伎町は、これまで様々に形容されてきた。不夜城、眠らない街、マフィアの棲む街、非情の街、日本の下半身、欲望の迷宮都市、外国人労働者の新租界、アジア一の歓楽街、日本一危ない街ーなど。(略)秋葉原は歓楽街とはいえないが、それでもフィギュアやメイド喫茶など「萌え」の聖地として全国どころか、世界に名を知られている。秋葉原はよくも悪くも東京の今の街である。歌舞伎町を昨日の街とはいわないが、ここ数年、中だるみの時期に入っていることはたしかだろう。中国では1978年12月の第11期3中全会で文化大革命期の失脚から返り咲いた鄧小平が、文化大革命を否定して改革開放、現代化路線へと大きく国の政治を転換した。(略)他方、日本では83年、時の中曾根総理大臣が21世紀初頭までに、他の先進国並みに留学生10万人を受け入れるとの目標を設定した。これにより中国からも日本語就学生や私費留学生が徐々に増え始めた。(略)鄧小平は92年の南巡講話で「改革開放を加速せよ」と指示し、同年10月には「社会主義市場経済」を打ち出した。前後して中国人の来日は増大し、91年4月には新宿区役所に英語、中国語、韓国・朝鮮語による外国人相談窓口ができた。

 『日刊ゲンダイ』2013-8-12 溝口敦の切り込み時評ー『自虐史観』を嘆く前に日米地位協定を何とかしろ!(略)米軍は戦後一貫して治外法権に置かれてきた。米軍兵士が人を殺そうが強姦しようが、直後に基地内に逃げ込めば日本の警察は手が出せず、日本の法律では裁けない。日米地位協定は紛う方なき不平等条約にかかわらず、戦後の自民党政府も民主党政府も官僚もアメリカのポチとして、条約改正に動こうとしなかった。

 東京での右翼、ヤクザの病理集団の資料を雑誌、週刊誌で収集してノートに貼っていたが、大阪で生活すると、ヤクザ抗争があると夕刊紙や週刊誌が特集する。紙面にはヤクザ事務所の住所もある。で、カメラを片手に確認しに出かけた。目の前に、あちこちに事務所があるではないか。北は菱の章友会、一会、金田組、藤原会、南では菱の白神組、福井組、宇田組、宅見組、浅野組など。その過程で右翼新聞社の佐々木記者と友人になり社主にも紹介してくれた。新聞社事務所を訪ねると本棚にはヤクザ資料が並んでいた。ヤクザと右翼は同じものだという。写真、破門状、襲名披露、年賀状など持って行けといわれ持ち帰った。社主は菱の田岡組長、稲川の石井理事長にも会って記事にしていた。ヤクザはシノギ以外は何でもオープンだという。

〇私(芝憲子)は神奈川県立川崎高校の文芸部にいました。(ジマンめきますがこの高校の卒業生には、作家の島田雅彦―現在の校歌を作詞、溝口敦―文芸部の先輩、哲学者の中島義道―クラスメート、などがいて、大変個性的な人が多いといわれているそうです)→「芝憲子のテーゲーブログ 2010-1-7」

梶山季之編集『噂』


徳間康快 とくま-やすよし
1921-2000 昭和後期-平成時代の出版経営者,映画製作者。
大正10年10月25日生まれ。「読売新聞」社会部記者。戦後の読売争議の中心メンバーとなり,昭和21年退社。その後、読売新聞時代の友人・竹井博友が社長をしていたアサヒ芸能新聞の経営を引き受け1954年に徳間書店社長に就任、週刊誌に変更して大きな成功を収めた。東京タイムズ,大映などの社長となり,徳間グループをひきいる。国際合作映画「敦煌(とんこう)」や宮崎駿(はやお)監督のアニメ映画「風の谷のナウシカ」などの製作を手がけた。平成12年9月20日死去。78歳。神奈川県出身。早大卒。→コトバンク

竹井博友 たけい-ひろとも
1920-2003 昭和後期-平成時代の経営者。
大正9年10月9日生まれ。昭和18年読売新聞社会部記者となる。21年退社し,アサヒ芸能出版社などを創立。33年地産社長に就任し,不動産,ホテルなどの地産グループを形成。「読売新聞」の大阪,名古屋進出に際し,大阪本社常務,中部読売新聞社社長をつとめた。平成3年脱税で有罪となる。平成15年7月29日死去。82歳。栃木県出身。明大卒。(コトバンク)

橋下市長の実父がヤクザというのが『週刊朝日』で報じられていたが、1990年代の大阪は市民レベルを反映しヤクザ事務所が彼方此方に有った。橋下市長が記者にトヤカク書かれる筋合いは無い。「カジノ資本主義」(金を動かすだけで儲けること。 何の生産性もないためカジノ(ギャンブル)と本質は変わらない。 その投機によって食料や燃料が高騰し世界中の人が苦しんでいる。)と いうのがあったが、なんでも2025年の大阪万博を機に世界最大級の「カジノ」が出来ると謂う。かつて森喜朗元総理が1988年4月、自民党京都府連主催の政経文化懇談会で「大阪人は金儲けばかりに走り、公共心も選挙への関心もなくした。低俗な風俗産業も必ず大阪から生まれるなど、眉をひそめることが多すぎる。大阪人には道を作るにも公共用の土地を提供する気持ちがない。言葉は悪いが痰壺だ」と発言、宜なるかなである。



『山口組時報』
私は東大阪の布施駅ちかくに住んでいた。通り道の鶴橋駅を7時ごろ散策のおり小田秀総業の2階でボヤ騒ぎがあり、パトカーが無線で「親分(小田秀)と、子分8人がいる」と喋っていた。その小田秀組長は怒号し子分をどやし続けていた。すぐ目の前だったが火はすぐ収まった。小田秀組長は『山口組時報』の編集責任であった。かつて佐野真一氏も『山口組時報』の編集に誘われていた、と本人が書いている。
null
大阪・小田秀組総本部、1980年ー八興建設(瀬川清社長)が2億4、000万円で請け負う
null
山本健一を中心とした3代目山口組組織図□田岡組長の写真は粟国出身者が多い大阪天六の市場にあった金田組事務所に飾っていたもの、この組事務所は窓が空きっぱなしで組員がいつも不在であった。

山本健一初代山健組組長(バックの扁額は頭山満の書)
null
初代山健組組織図
null
写真ー1977年6月ー徳島・勝浦会2代目襲名、左から諏訪健治、勝浦隆司、松浦一雄、図越利一、山本健一
 通勤電車の近鉄線から山本健一組長の入院している大阪市生野区の今里胃腸病院の看板がよく見えた。山本組長は1982年2月4日に肝硬変に腎不全を併発して死去。関西の夕刊紙ではいつも病状を伝えていたので病院の看板が見える毎に思い出していた。


写真ー本多仁介
神戸大嶋組の四天王の一人と言われた本多仁介が、1938年豪雨にみまわれた神戸の河川工事を行い本多組を立て1940年に大嶋組から独立、本多組を結成。本多組は倉庫業、湾岸荷役業をシノギとしており「ミナトの六人衆」と呼ばれるようになる。ダイエーの中内功会長も闇市で活動していた当時を回顧し、「本多さんは大親分だったですよ」と証言している。 二代目本多会の時代まで所属していた最後の若衆であった四国の竹形の逝去とで本多会を支えていた者達はほぼ生存しなくなった。本多仁介の関わったものは今や、倉庫会社、建設会社など、いわゆる堅気の企業としてしか残っていない。 →ウィキ

null
null
null
null
1983年9月『スコラ』「兵庫県下主要暴力団」
null
写真ー左が図越 利一(ずこし りいち 1913年9月17日-1998年7月7日)は三代目会津小鉄会会長。
右が石本久吉小久一家総長
□石本久吉原作
1965.10.31 関東破門状  東映京都
1967.08.26 浪花侠客伝 度胸七人斬り  東映京都
1969.02.01 緋牡丹博徒 花札勝負  東映京都

null
1992年4月 高山登久太郎『警鐘ー無謀なる権力の狭間にて』ぴいぷる社
〇一流建設会社の間にも、いわゆる”談合„が今でも常識化され、実地されている実態をよく知っている。いつでも告発できる資料を持っている。大企業と役人と政治家ーこの三位一体の”なれあい„”癒着〟があっては、どうしょうもない。甘い、うま味のある仕事は、みんな持っていかれてしまう。天下りは、なにもこの北海道開発局にかぎったことではない。大蔵省、通産省、建設省をはじめとしてほとんど全官公庁において、なかば堂々と実地されている。大蔵省の役人たちは、銀行や証券会社へ天下りしている。そこで高給をもらい、4,5年務めて退職金までもらい、あとは遊んで暮らすといった寸法だ。どこまで国民をナメているのか。(略)大体、公務員(官僚)は、退職後2年間は、その前の5年間に密接な関係にあった企業に就職することは禁じられている。しかし、現実には守られていない。-
□高山 登久太郎(たかやま とくたろう、 1928年 - 2003年6月15日)は、ヤクザ。指定暴力団四代目会津小鉄会長。在日本大韓民国民団中央本部中央委員、滋賀韓商常任顧問。本名は“姜 外秀”(カン ウェス)。若い頃は、“今里のタッカン”、“タッカン”と呼ばれた。→ウィキ

 大行社ー大正13年(1924年)6月11日 清水行之助が後藤新平のほか、有力諸賢の後援を得て設立。戦後永らく休眠状態にあったが、1981年に岸悦郎が旧知の仲である清水から要請があり、暫定的に会長代行となった。結成式には稲川会初代会長の稲川角二や住吉連合代表の堀政夫が列席した。岸は公式には堅気でありながら任侠右翼であることを認めていた。→ウィキ

 「メンズサイゾー」2011-9-22 〇9月21日発売の「週刊文春」(文藝春秋)でビートたけしが「暴力団との関係」を赤裸々に語り、大きな話題となっている。暴力団との交際が原因で島田紳助が引退したことにより、芸能界と暴力団の関係がクローズアップされ、どのタレントもヤクザとの関わりが明らかになることにおびえるようになった昨今、なぜあえて暴力団との関係を自ら語ったのか。
記事では、フライデー襲撃事件後に復帰した際に「復帰が早すぎる」として右翼団体に街宣をかけられたことがあると明かしている。紳助が暴力団と関係を持ったきっかけは、同じく右翼団体に街宣をかけられ、その解決を渡辺二郎を通じて暴力団に頼んだことだった。しかし、たけしは右翼団体の関係先である住吉連合会の堀政夫会長をひとりで訪ね、土下座して謝って解決したという。この点が紳助とは違うとして、「タレントとして、そういうのを上手くやって逃げるのも本人の芸」「紳助は逃げる芸がなかった」と語っている。また、10年ほど前に、ある芸人(※文春は中田カウスだと断言)の策略によって山口組の渡辺芳則5代目組長と無理やり面会をさせられたこともあるという。さらに、稲川会からのプレッシャーにより初代会長・稲川聖城氏との面会を断れなくなり、月刊誌「新潮45」(新潮社)で対談したこともあった。(略)

『四国新聞』2002年6月3日ー右翼団体「大行社」(東京都港区)の元会長で総帥の右翼団体「大行社」(東京都港区)の元会長で総帥の岸悦郎氏(76)が台湾で死去していたことが3日、警視庁の調べで分かった。警視庁などによると、岸氏は5月から、がんの治療のため台湾に滞在していたが、今月2日深夜、台北市郊外の別荘で死亡したという。大行社は日本で最大規模の右翼団体。

沖縄の右翼・総会屋

1997年ー『民族』日本民族思想普及会(儀武晋一)/1989年ー『社会時報』桜魂社護国塾(松田昌雄)

 沖縄のネット右翼については目取真俊ブログ(2014-07-08)に詳しい。 〇沖縄の軍事要塞化を下支えするものとして、沖縄県民の意識改革も策されている。沖縄戦の体験に根ざした、軍隊は住民を守らない、という認識を払拭し、米日両軍に積極的に協力していく民間体制を作り上げていくこと。それが日本政府の至上命題となっている。現代戦は総力戦であり、「南の防人」として南西領土防衛をになうものへと沖縄県民を変えていくために、沖縄戦の歴史認識や米軍・自衛隊への認識をめぐる問題が、さらに前景化していくはずだ。
 そういう中で沖縄でも、民間から米軍・自衛隊を支えようと、ネット右翼の動きが活発化している。2013年8月19日にチャンネル桜沖縄支局が開設した。その開局記念の特番に沖縄から、「龍柱問題」で翁長雄志那覇市長を訴えた金城テル氏をはじめ、恵隆之介氏、「狼魔人日記」の江崎孝氏、手登根安則氏、奥茂治氏といった面々が出演している。
 この5人に沖縄対策本部代表の仲村覚氏を加えれば、いま沖縄で活動しているネット右翼の主要メンバーがそろう。チャンネル桜の番組で、沖縄から「魑魅魍魎たち」をたたき出すためには情報戦に勝ち抜くしかない、と発言している手登根氏は、本ブログで批判した『週刊新潮』6月12日号の記事にも出ていた人物で、オスプレイファンクラブの中心メンバーとして、親米軍活動を熱心に行っている。その活動の一つを仲村氏がユーチューブに投稿している。