1978年4月 『青い海』72号 東良恒「インタビュー 沖縄県民は旅がお好きー❝沖縄の旅❞20年をツーリストの窓からみると」


2004年6月19日『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網25『自治おきなわ』の年表」
 1985年創刊の『あじさい』(発行人・照屋栄一、編集責任・森根良一)の流れを汲み、発行部数13部の『山学校』(91年創刊、発行人・比屋根照夫)という同人雑誌があった。大城イチノ、照屋京子、伊佐眞一、渡口善明、志堅原郁子、盛根良一、宮城剛助、沢岻悦子、又吉盛清の諸氏が執筆した。私も参加し「絵図資料と首里城」を書いた。同人の盛根良一氏から自身が関わる沖縄市町村会『自治おきなわ』に自由に何か書けと言われた。
雑誌『青い海』の中に載っている事項や人名に解説、注釈を加えてみたいと常に思っていたので年表を中心に『自治おきなわ』(1996年)に「関西におけるウチナーンチュの歩み」を書いた。まず雪舟が北京で描写した「琉球人像」を弟子が模写したというのを載せたが、同じもので鮮明なのが豊見山和行著『北の泉、南の琉球』(日本の中世5)に載っている。
 年表の1899年の項に記入した岡倉覚三(天心)来沖は、大里喜誠氏(沖縄県立武道館建設推進委員会会長)が確認してくれた。大里氏の首里のご自宅で伺ったものである。氏はビッシリと記された手帳を見ながら上地一史元沖縄タイムス社長は親戚、上間正諭タイムス社長(当時)は県立二中の同期であること、弟・喜三氏が47歳で亡くなったこと、学生時代から日記は欠かさずつけている、東京で興南社を興し東恩納寛惇『童景集』を刊行したことなどを語った。

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左ー新城栄徳宛の大里喜誠氏ハガキ/1991年6月3日『琉球新報』大里喜誠「岡倉天心と沖縄」
 ☆1916年1月22日『琉球新報』「山田画伯と語る」
○昨日朝日の寂泡、民報の尚球両君と共に山田画伯を其の寄寓せる徳田氏宅に訪ねた。山田氏は一見美術家らしい容貌を具え或る理想に憧れたような瞳を動かしつつ慇懃に語られるよう▲赤い瓦と常盤木が当地へ参った第1の印象です。上京してから支那に行く途中一度はチト寄った事がありますが七年前の事ではあるし今度始めてのような感じします、気候は随分変わりますがそれとて又冬装束も出来ますし、外套も着られます識名へ参りますと蛍が居ました、-年中育ち居ると見えます、マァ▲五月でも咲きそうな気候ですね。材料ですか実に豊富ですな私は彫刻と絵と両方やる積りです始めは彫刻の方から入りました、帝劇の鳩ですか、はい私がやったのです私は従来の日本の彫刻を甚だ貧弱に考えまして殊に洋館には不調和なることを感じましたので▲募集が有りましたから応じましたら私がやることになりました、鳩が五十羽孔雀が二羽それに花が溢れる所を彫刻したのであります。絵の方も始めは想像的でありましたが、今は進んで来て古墳を研究し西・や希臘等を参酌して描く事になって居ます例えば▲神武天皇を描きにしても今迄の神武天皇でなく希臘の古武士に見るようなものです。(略)岡倉覚三氏は沖縄は平安朝時代の▲絵巻物を見る心地がすると申して居ります、小学校の時琉球人と云うので随分恥も掻きましたが芸術家に着目されてからは歴史に於いて沖縄人たる事を誇りにして居ります。

 年表も今みると粗い。1915年、大阪で琉球民謡をレコードにする、という記述もなく、ハワイでホノルル旅館を経営していた宮里貞寛が27年に帰朝し、神戸でゑびす屋旅館を開業、そこへ甥の宮里定三が来ていたこともふれられていない。定三は沖縄で初めてのホテルを造ることになる。同じくハワイでホノルル音楽団員を務めた新川嘉徳が帰沖し39年、大阪マルフクレコードで自作の「梅の香り」を吹き込む、も無い。年表の増補改訂は今後の課題だ。
私は1998年、『沖縄県図書館協会誌』に「『近代沖縄の雑誌』総目次と解説」を連載した。2000年、大阪人権博物館の仲間恵子さんが中心となって関西沖縄文庫を活用し、ウチナーンチュにとって記念すべき図録『ヤマトゥのなかの沖縄』がまとめられた。なによりも関西ではウチナーンチュの歩みを日々刻印する沖縄県人会兵庫本部(尼崎市西長洲町2-26-12)の機関紙『榕樹』が、沖縄人連盟や『青い海』の流れも汲み今も脈々と流れている。

 

『毎日新聞』2019年7月11日ー評論家の竹村健一(たけむら・けんいち)さんが8日、多臓器不全のため死去した。89歳。葬儀は近親者で営んだ。喪主は長男真一(しんいち)さん。京都大卒業後、1955年から約8年間、毎日新聞大阪本社の「英文毎日」編集部で勤務した。報道やバラエティーなどのテレビ番組に出演。パイプを片手に「だいたいやねえ……」と切り出す独特な関西弁で人気を集めた。また、手帳を片手に「奥さん、ぼくなんか、これだけ」という決めぜりふも話題になった。



右ー『琉球新報』1982年9月4日ー竹村氏は著作、講演のほかテレビタレントとしても売れっ子。パイプを口に、手帳一冊を片手に「資料を多く持っているやつは仕事ができない。これだけですよ」などのテレビコマーシャルでも有名だが、今回の盗用騒ぎは、やっぱり”資料〟がなければ本は書けないことをご自身で立証したといえそうだ。

システム手帳

1984年には日本国内でもFilofax(ファイロファックス)が正式に発売された。著名人の愛用者がしばしばマスメディア上で「便利な手帳」とするコメントを発した事から、1980年代末 - 1990年代中頃より類似製品を含めて急速に愛好者が増加した模様。1985年にジャーナリストの山根一眞が書いた「スーパー手帳の仕事術」(ダイヤモンド社刊)が日本で最初のシステム手帳Filofaxの解説本と言われる。日本で言われる「バイブルサイズ」を最初に日本で流布したのは山根で、欧米では使われていない単語である。なお、日本初の国産システム手帳は、1968年に経営コンサルタントの奈良総一郎が考案した「システム・ダイアリー」である。→ウィキ