私は中学時代、島袋源一郎の『伝説補遺沖縄歴史』を愛読していた。伝説だから多少神話的な要素もあった。こういった歴史書は今となっては郷愁を伴ない懐かしく私の琉球学の大半を占めている。だから昨今の客観的というか整理過剰な歴史書には郷愁を感じることはできない。だから友人たちの歴史書以外は手にすることは無い。
巻頭  琉球各王統一覧
第一章 沖縄人の祖先ー日本列島の地形より観たる沖縄/向象賢の日琉同祖論/新井白石と藤井貞幹の説/英国僧侶及ペルリ一行の観察/チャンバーレン博士の説/宜湾朝保の古語比較/亀田次郎氏の及金澤博士の言語学的考察/新屋敷教授の言語比較/久米・白鳥両博士の日本民族説/坪井・鳥井(居)・松村3博士の人種学説/北里闌氏①の言語学的観察/桐原博士②の血清学的考察/伊波文学士の考察/柳田・折口両氏の土俗学的調査/伊東・黒板両博士の調査/其他土俗の類似
第二章 天孫子王統ー開闢説/アマミキヨと東御巡禮/三地方の区分/神々出現して守護す/当時の風俗/南島と日本本土との交通/隋の煬帝琉球を招撫す/天孫氏の没落/沖縄と琉球の名称に就いて
第三章 舜天王統ー第一代舜天王/片髻伝説/鬼餅の由来/源為朝渡来に関する諸説/第二代舜馬順凞王/屋良漏池の伝説/第三代義本王/義本王の末路と南山佐久眞王子の行方
①北里闌ー国学者。熊本県生。歌道を鎌田正夫・高崎正風らに学ぶ。渡独後、もっぱら日本の古代語の研究をすすめる。昭和34年歿、90才。 →コトバンク
②桐原真一(1889〜1949)ー旧東京帝国大学医科大学を卒業。卒業生として助手を務めた後、1926(大正15)年に名大の前身、旧愛知医科大学の教授に就任した。胃鏡でがん、潰瘍、胃炎、胃下垂などの患部を直接見ようと、数百回の診断と観察を繰り返した。昭和初期、胃の中を見る検査には筒のように太く硬い、真っすぐな「胃鏡(いきょう)」が使われていた。出血や吐き気を伴うことから多くの医者に敬遠されていたが、あきらめずに研究を続け、今ののみ込みやすい胃カメラにまで発展する基礎をつくった。がんの早期発見を実現。


島袋源一郎資料

1932年
3月ー島袋源一郎『伝説補遺沖縄歴史』沖縄書籍□「中山門建つー此年国門を首里に建て、中山と榜した。旧記によれば、中山の二字は内官柴山の進めた額であったという。因みに此の中山門は俗に『下の鳥居』と称し、県立第一中学校の南角、那覇一帯を俯下する大通りに明治の末頃迄遺存していたが、今は破壊して『上の鳥居』即ち守礼門のみ残っている。蓋し其の建築は同様のものであった」

1933年
2月25日ー『沖縄日日新聞』「守禮門・外六ヶ所國寶保存物に指定、文部省から告示さるー守禮門、所在地首里市、首里城正面の大路には元二棟の坊門があった第一門たる中山門は腐朽大破したので明治四十一年に撤去し今は第二門たる守禮門のみ残っている朱禮門は明の嘉靖六(我が大永七年)の創立にかかり爾後数次の修理を経たものである古名を待賢門又は首里門と称していたが清の康煕二年(我が寛文三年)以後『守禮之邦』の扁額を其眉間に常掲するに及守禮門と称するに至った。門の概形は支那式の三間這牌楼に似たるも彼此相違せる著るしき点は下層屋根を中断せずして一端より他端に通じて一直線に造れることである又其の構造を見るに柱の脚部は総て木の枠組みと石の挟み束とを以て二重に組固め柱の上部は押肘木より成れる一種の天竺様の斗拱を組して屋根を支承し更に中央部二本の柱は下層屋根を貫いて上方に延び茲に再挿肘木の斗拱を構え以て上層屋根を受けているかかる構造法は他に多く類例を見ざる所にして琉球建築の一特色と云ふべきものである」
5月ー『島』創刊
7月ー仲宗根源和『沖縄県人物風景写真帖』(新光社の写真の守礼門)
10月ー東京「明正塾」閉鎖

1934年
1月ー沖縄県立図書館の郷土文献以外の参考品(三線、鉢巻、陶器、漆器)は昭和会館の教育参考室に移される



3月30日ー『沖縄日報』「展けゆく歴史の曙・ペルリ艦隊来航記念号」
       沖縄日報主催「ペルリ日本来航80年記念祭」講演/神田精輝・島袋源一郎

    
1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社

4月27日ー沖縄郷土研究会と沖縄文化協会が合体し「沖縄郷土協会」発足、太田朝敷会長
1934年4月27日 昭和会館で沖縄郷土研究会と沖縄文化協会が合体し沖縄郷土協会発足
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1934年7月30日 沖縄郷土協会評議員会(昭和会館)、郷土博物館の建設とペルリ提督上陸記念碑建設のため県下から2万円の募集を協議。
関連○2015年3月 『記憶と忘却のアジア』青弓社 泉水英計「黒船来航と集合的忘却ー久里浜・下田・那覇」

1935年10月ー上原永盛『沖縄県人物風景写真大観』(首里市・守礼門)

1936年
7月ー沖縄県教育会附設郷土博物館、首里城内北殿に設置。

8月ー昭和会館で沖縄観光協会創立総会、会長に金城那覇市長□目標「真の沖縄の姿を内外に紹介して将来世界的観光地帯にしよう」
10月ー文部省より守礼門復旧工事のため森政三国宝調査室技術員が赴任。総工費六千八百圓うち国庫補助五千五百圓
     現場主任に仲座久雄

1936年11月19日ー古琉球の工芸品三点 昭和会館へお興入れー左からー御徳盆、花瓶台、貝摺台附食籠

1937年
1月ー国宝「守禮門」修理打合せで大岡實(工学士)来沖
○大岡實は明治33年(1900年)09月29日に現在の東京都新宿区三栄町で大岡顯三の長男として誕生する。(二人兄妹とのこと)
下記の略歴の通り、東京帝国大学工学部で建築の道へ進み、大学卒業後、文部省嘱託となり古社寺保存に携わる。大岡實は昭和41年10月大岡實先生定年退官記念事業会発刊「日本古建築の特質と私の半生」の中で「私が師事したのは、伊東忠太先生と関野貞先生です」と述べており、大学時代及び文部省嘱託時代を通して二人の恩師の感化を受けたことを表している。→大岡實建築研究所

10月ー田辺泰・巌谷不二雄『琉球建築』刊

1939年
4月ー日本民芸協会『月刊民芸』第1号



2015年5月 『月刊琉球』新城栄徳「沖縄最初の博物館を創った男 島袋源一郎」

仲村渠 克「時評 深読 世界一危険な嘉手納基地ー(略)もともとは、反基地運動のシンボルとして、嘉手納撤去が最優先課題だったはずだ。数万の人間が手を結んで、基地を取り囲む平和運動の“人間の鎖”は、1987年の嘉手納が最初、国内外に大きく報道され、これまでに4回実地された。なぜ、平和運動の最大目標が、嘉手納から普天間にすり変わったのか。(略)米軍の仕掛けた罠ー米軍が固執するのは嘉手納なのだから、『嘉手納の危険性除去』と『負担軽減』をリンクさせれば、(米軍は)慌てふためく。辺野古新基地建設の根拠も消える。」
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1971年9月 沖青友の会機関誌『石の声』8号への提言