2001年3月 榊莫山『莫山夢幻』世界文化社〇秘蔵の一冊/戦争に敗れた昭和20年(1945年)。沖縄へ行くはずで、九州の伊集院で運ばれる船を待っていた。船がなかなかこないうちに、戦争に敗れ、命ながらえて郷里・伊賀の家に帰った。世の中のすべて、価値観はひっくりかえって、しばらく呆然と暮らしていた。(略)その夏、京都の友人から一冊の本がとどいた。本といっても、ハガキほどの大きさで、和紙和とじの薄い本だった。が、それがなんと、表紙には、『雑草集 河上肇』とあるではないか。/〇芭蕉に想う、芭蕉わーるど、芭蕉の句碑

河上肇・資料ー右に1946年6月 河上肇『詩集・雑草集』大雅堂
河上肇ー経済学者・社会思想家。山口県生。東大卒。ヨーロッパに留学中法学博士号を受け、帰国後京大教授となる。またマルクス主義の研究と紹介に努め、青年層に多大の影響を及ぼした。のち大山郁夫らと実践運動に入り新労農党を結成したが、理論的誤りを認め大山らと別れた。獄中生活の後、自叙伝等の執筆に専念した。昭和21年(1946)歿、68才。



1966年1月 儀間比呂志『版画風土記 沖縄』題字/榊莫山 編集/高橋亨




伊賀上野「芭蕉翁記念館」息子と/1963年9月 大阪・大丸 毎日新聞社主催「芭蕉の生涯展」 、1983年6月 上野市観光協会「俳聖 芭蕉翁」、2004年5月 難波別院「南御堂と芭蕉」

御堂筋の南御堂と北御堂

『此附近芭蕉翁終焉ノ地』
御堂筋の南御堂(真宗大谷派 難波別院)前にはソテツ。御堂筋道路の石碑に刻まれている文字は『此附近芭蕉翁終焉ノ地』とあり、松尾芭蕉の終焉の地と言われている。人生の多くの時間を、旅と、紀行文や俳句の執筆に費やした芭蕉は九州へと向かう旅の途中に立ち寄った大阪で病に伏し、51歳の生涯を閉じたとされている。そして、松尾芭蕉の有名な句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」が刻まれた石碑は難波別院境内の中にある。松尾芭蕉辞世の句を刻む石碑には芭蕉(バナナ)の木が傍に立っている。本堂で阿弥陀如来佛を前にして瞑想したつもりが気持ちが良く、つい、うたた寝をしてしまった。別院でパンフ「南御堂と芭蕉」をもらった。善導大師「信心の人はすでに浄土に居(こ)す」。
北御堂(本願寺津村別院)ー本願寺第8代宗主蓮如上人の手により、大坂(明治から大阪)に、親鸞聖人から伝えられた「お念仏」のみ教えを弘めるため、現在の大阪城のあたりに坊舎(後の石山本願寺)が建てられました。1497年のことです。その坊舎を中心にしてまわりに寺内町が形成され、大坂の町は大いに発展していったそうです。しかし、織田信長との長い争いにより、本願寺は生み育てた大坂を離れなければならなくなり、そこで、大坂の門徒はこの地での「お念仏」の灯りをまもるため、天満に近い「楼の岸」に新しい坊舎を建立しました。その後、「津村郷」と呼ばれていた現在の地に移り(津村別院の名称の由来)、津村御坊は「北御堂」と称されるようになり、南御堂(真宗大谷派難波別院。津村別院から南へ約500メートル)とならび大坂のひとびとに親しまれた。津村ホール傍に見事なソテツと巨大な親鸞聖人像が立っている。向かい合う形で蓮如上人像が立っている。善導大師「娑婆に楽ありといえども これ真(まこと)の楽にあらずこれ大苦なり」。

 1914年11月 同人誌『五人』末吉麦門冬「芭蕉の恋ー(略)彼等二人の間に男色の関係のあったといふことは今日から見る程不自然なものではない。鎌倉以来我国には衆道といふことが武家間には非常に盛んであった。足利義政公は  常盤山とはにはさかずいはいはつつじ/春の日数をたづねてもとへ  云々と云はれた。南浦文集に昔々物語を引いて曰く  昔は衆道といふ事有て一四五六、七八の男に生まれ付よきは勿論大躰の生付にても念者といふもの持たぬ若衆は一人もなし。云々(以下略)」
 南方熊楠は麦門冬・末吉安恭からも琉球の男色の情報を得ている。ネットで一々紹介するのは憚れるので割愛する。麦門冬は早婚なのでいわゆる淡いプラトニックで終わってしまった。その分、妻に愛を注ぐことになるが、男色については折々書いている。たとえば1911年1月『沖縄毎日新聞』に書いた東京時代の古手帖には「沖縄の組躍に男色をほのめかしたのに執心鐘入と二童敵討」「伊藤銀月の男色観」、14年11月ー同人雑誌『五人』の「芭蕉の恋」などがそうである。

近松門左衛門
井原西鶴(浮世草子)、松尾芭蕉(俳諧)とともに元禄三大文豪として名高い浄瑠璃・歌舞伎作者の近松門左衛門の墓は尼崎の広済寺(→HP)と、地下鉄谷町線「谷町6丁目」下車、谷町筋を南へ 谷町7丁目交差点南へすぐ、ガソリンスタンド手前の狭い道の奥にある。墓は、当初近くの法妙寺境内にあったが、同寺は大東市へ移転し、墓だけは現在地におかれ、押し込まれたようにして残っていた。1980年に整備が図られ、国の指定史跡となった。【広済寺】尼崎市にある日蓮宗の寺(ソテツもある)。957年(天徳1)多田満仲が妙見菩薩を勧請して創建したと伝え、のち荒廃。1714年(正徳四)日昌が堂宇を建立。近松門左衛門の墓がある。俗称、近松寺。(広辞苑第四版)帰途、浄土真宗本願寺派西正寺のソテツを見る。□→「HP・近松のまち・あまがさき」
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近松門左衛門は1653年(承応2年)の生まれで(出生地については諸説あり)、本名は杉森信盛、幼名は次郎吉といい、越前・吉江藩士杉森市左衛門信義の次男として誕生する、。元禄年間を中心として、貞享~享保と約40年間にわたり劇作家として活躍し、1724年(享保9年)に72歳で没した。
京都に移った近松は公家に仕え、その間、浄瑠璃の語り宇治嘉太夫と出会い、彼のもとで浄瑠璃作家の修行を始めます。天和3年(1683)、嘉太夫に書いた「世継曾我」が世評を得、嘉太夫の門下にあった竹本義太夫とも提携するようになりました。貞享元年(1684)、大坂に竹本座を創設した義太夫を祝って書いた「出世景清」を契機として、現実的、個性的描写による浄瑠璃の新生面を開き深化を遂げました。
元禄期後半の約10年間は、上方の名歌舞伎俳優坂田藤十郎との緊密な提携のもと、歌舞伎制作に主たる情熱を注ぎました。代表作として「傾城仏の原」があります。坂田藤十郎のために20数作の歌舞伎狂言を著している。「曽根崎心中」「心中天網島」「女殺油地獄」などの世話物に代表される作品に描かれる人間の姿は今日に通ずる所も多く、伝統芸能や演劇、映画などの中で再創造され、たくさんの人に感動を与え続けている。
藤十郎が都万太夫座(京都)の座元を引退すると大坂に移住し、義太夫の竹本座専属となって浄瑠璃の創作に専念しました。元禄16年(1703)「曾根崎心中」で大当たりをとって以降、次々と傑作を生み出していきました。「曾根崎心中」については、麦門冬・末吉安恭が組踊談叢で「近松門左衛門が心中の『死ににゆく身をたとふればあだしが原の道の霜一足づつに消えてゆく・・・』まで書いて後をつづけ得ないで困っていると際、来訪した伊勢の俳人涼菟に助言を求めて、『夢の夢こそはかなけれ』とつけて貰った話と似て居る」と書いている。

□岩田涼菟
岩田涼菟(いわたりょうと)1659~1717 本名は岩田正致。通称は又二郎。初号は団友、のち団友斉、元禄十三年頃涼菟と改号した。後、神風館(じんぷうかん)をついでその三世を名乗る。本職は伊勢山の神職。俳諧は芭蕉門下、後世この軽妙な俳風を伊勢派と呼んだ。江戸の其角とは同門の親友。 著書に『皮籠摺』『山中集』『砂つばめ』などがある。享保二年(一七一七年)四月二十八日没。享年五十九歳 (→三重県ゆかりの俳人たち )


写真前列右から池宮城積宝、山口全恭、渡久地政憑、野村安茂。後列右から末吉麦門冬、嘉手川重利、當眞嗣合、屋嘉宗恭、仲吉良光

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末吉麦門冬

左から真境名安興、伊波普猷、末吉麦門冬(末吉安久画)

石川正通□先輩追慕ー布袋腹に酒杯乗せて踊りたる麦門冬の珍芸懐ふ





麦門冬・末吉安恭の筆跡