淀川長治
1981年9月『青い海』106号 淀川長治「私と映画と人生」
1982年2月『青い海』110号 淀川長治「人生はロング・ランー個人主義と他人主義」




淀川長治 よどがわ-ながはる
1909-1998 昭和後期-平成時代の映画評論家。
明治42年4月10日生まれ。映画雑誌の編集部員,洋画配給会社の宣伝部長をへて昭和23年「映画之友」編集長となる。のちフリーとして活躍。テレビ「日曜洋画劇場」の解説者として出演,映画への愛を独特の口調でかたり人気をあつめた。平成10年11月11日死去。89歳。兵庫県出身。第三神戸中学卒。著作に「映画散策」「映画千夜一夜」など。(→コトバンク)



1973年8月 『ワンダーランド』創刊号 淀川長治「ロイド映画の楽しさを忘れてやしませんか」
植草甚一
うえくさじんいち(1908―1979)
評論家、エッセイスト。東京・日本橋生まれ。早稲田(わせだ)大学建築科中退。初め外国映画、とくにヒッチコックのスリラー映画などに独自の批評を展開。さらに欧米の現代文学、推理小説、現代美術、漫画、ジャズなどの現代音楽の紹介・批評へと多くの趣味を生かして広範囲に活躍。「ワンダーランド」(のち「宝島」)を創刊,編集。1960年代以降は自らニューヨーク生活を繰り返して、つねに現代に密着した自由な雑学精神で一生を貫き、前衛的若者芸術の教祖的存在でもあった。著書に『僕は散歩と雑学が好き』(1970)、『雨降りだからミステリーでも勉強しよう』(1972)、『映画だけしか頭になかった』(1973)など多数。→コトバンク
1974年創刊の月刊「宝島」。前身は「ワンダーランド」という雑誌で、責任編集者はエッセイストの植草甚一氏(1908~1979)でした。植草氏は、映画、音楽、文学評論など多方面で活躍し、1970年代の若者文化に革新的な影響を与えた人物として知られます。「ワンダーランド」は、アメリカ文化を紹介し、大小の記事を詰め込んだカタログ雑誌のつくりで、「シティー・ボーイ」という言葉をいち早く使い出した雑誌と言われています。





奈良の大佛(盧舎那仏)の手のレプリカと新城あけみ


神戸・能福寺の大佛
初代の大仏は今時大戦中の昭和19年(1944年)5月に解体、金属回収供出され、また、翌年3月には神戸大空襲により伽藍は全焼したとのこと。現在の大仏は平成3年5月に関係者の努力により再建されたもの。ところでこの大仏の寄進者の中に映画解説者の故淀川長治氏や画家の故東山魁夷氏の名前が見えます。淀川長治氏についてはこの近くで生まれ、少年時代、よくこの能福寺の境内で上映されていた活動写真を見に行っていたという経緯があったそうです。なお、東山魁夷氏についても、横浜生まれながらも、3歳から18歳までの15年間を神戸で過ごしたということ故の寄進だそうな。→「たんぶーらの戯言」


岐阜大仏(ぎふだいぶつ)は、岐阜県岐阜市の黄檗宗金凰山正法寺にある大仏です。 日本三大大仏の一つと称されることもあります。岐阜県重要文化財指定。
特徴
釈迦如来の大仏。像高13.7m、顔の長さ3.63m、目の長さ0.66m、耳の長さ2.12m、口幅1.31m、鼻の高さ0.36m。
最大の特徴は、日本最大の乾漆仏である事です。周囲1.8mのイチョウを真柱として、木材で骨格を組み、 竹材を編んで仏像の形を形成しています。この竹材の上に粘土をぬり、一切経、阿弥陀経、法華経、観音経等の経典が書かれた 美濃和紙を張り付けて漆を施し、さらに金箔を施してつくられています。 経典は当時の住職が読み一枚一枚貼られています。この事から、別名を「籠大仏(かごだいぶつ)」といいます。 全身が金箔で覆われ、穏やかな顔とあいまって独特の雰囲気があります。奈良の大仏や鎌倉の大仏と異なり乾漆仏の為、 損傷に対して脆いといいます。 この大仏の製作に大仏製作では一般的な銅ではなく竹を使用しているのは、岐阜提灯や岐阜和傘など岐阜の文化が 関係してると云われています。 →「岐阜観光、com」


別府大仏
コンクリート製の大仏の草分けとして昭和2年に完成した愛知県の聚楽園大仏(18.8メートル)と並ぶ貴重な大仏だ。国際観光地別府の象徴として人々に愛されてきた、かどうかは知らないが長い間別府に君臨し続けたのは間違いないこの大仏は大変残念な事に老朽化により平成元年取り壊されてしまった。 昭和をきっちり生き抜いたコンクリ大仏の大先輩に敬意を表しつつ、現在は姿を消してしまった別府大仏のかつての姿(特に内部)に迫ってみようと思う。→「珍寺大道場」