1971年8月 沖縄の雑誌『青い海』夏季号 「自衛隊の沖縄配備をめぐって」


”自衛官への道〟を選んだ若ものたち〇そのうちの若もの父は、佐野真一の著作に詳しく紹介されているが、右翼団体の代表・・・・本誌編集部

高校生は発言する

自衛隊・沖縄配備の青写真〇自衛隊の”沖縄上陸〟が成功しても、将来、沖縄を二度と”日本の防衛„に利用すべきでない。・・・鍛治壮一・毎日新聞記者→1956年(昭和31年)東京大学教養学部卒業後、毎日新聞社に入社。東京社会部記者として1965年(昭和40年)から航空担当となる。その後、サンデー毎日編集次長に就任。社会部編集委員などを歴任した。1985年(昭和60年)に同社を退社し、ジャパンタイムズ編集委員を経て独立。航空に関連する記事執筆を専業とするライターとなり、防衛・航空問題を専門とする。ほか、通産省委員など歴任した。ウィキ
沖縄返還と自衛隊・・・久住忠男・軍事評論家→くすみ-ただお1908-1993 昭和時代の軍人,軍事評論家。昭和4年海軍にはいり,20年中佐として南方軍総司令官寺内寿一(ひさいち)のもとで参謀をつとめる。28年から評論活動をはじめ,43年首相の諮問機関沖縄基地問題研究会の座長。本土なみの沖縄返還や核軍縮を主張した。平成5年12月21日死去。85歳。徳島県出身。海軍大学校卒。著作に「海軍自分史」など。コトバンク
沖縄防衛計画と、その意味するもの〇その強大化された日本の軍事力も”核〟を持たねば世界のベスト3には参列できない。・・・小山内宏・軍事評論家→1916-1978 昭和時代後期の評論家。小山内薫の次男。戦前,フィリピンのセント-トマス大に留学。戦後六○年安保を契機に反戦・平和の立場からの軍事研究・評論を展開する。「ヴェトナム戦争」「アメリカはなぜ勝てないか」などをかいた。東京出身。旧制成城高卒。コトバンク
沖縄デー 特設授業の周辺と若者の自衛隊観・・・大城勲・豊見城高校教諭
祖国・国家とはなにか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・桑江良逢

 〇『青い海』夏季号が読者に着いたころ、長髪の関広延さん、津嘉山政栄さんに出会うと「何だ、今度の特集は」と言われた。「僕は編集にはタッチしてませんが、津野編集長に言うときます」と応えた。関さん、津嘉山先生は、どちらも教員だから国の洗脳には敏感だ。関さんはこれを機に『青い海』に注目し始めた。
津嘉山政栄ー大阪で沖縄青年運動にも援助をおしまない人であった。大教組の関広延さんと行動を共にしていた。
1968年10月ー『大阪・沖縄県人屋良さんを励ます会ニュ-ス』第号(発行責任者・津嘉山政栄)/
1971年4月『沖縄差別』第1号□津嘉山政栄「大阪沖縄県人会『沖縄県人は訴える』を考える」、伊差川寛「醜い沖縄県人会」
/1971年8月『沖縄差別』第2号□津嘉山政栄「沖縄返還同盟の声明を考える」、金城良明「沖縄差別とわたし」/
1972年9月『解放教育』№15□津嘉山政栄「在阪・沖縄出身者の子弟の教育を考える」/
1976年2月ー全国解放教育研究会『沖縄の解放と教育』明治図書出版□津嘉山政栄「ウチナーンチュとして生きてきて」「在阪・沖縄出身者の子弟の教育を考える」、本村周広「山口重光君『事件』と沖縄差別」



『MAMOR』106号~108号ー 防衛省が編集協力しているからできる肉薄取材で、その活動内容と、自衛官の素顔に迫る、わが国唯一の自衛隊オフィシャルマガジン。






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1970年9月 『琉球弧』<大阪版>創刊号□儀間進/関広延
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儀間進氏と新城栄徳、中央ーあしみね・えいいち氏


1972年5月 沖縄の雑誌『青い海』関広延「うちなあぐちまでぃん  さったるばすい」


1972年12月 沖縄の雑誌『青い海』19号 新里金福×関広延「対談 沖縄の可能性とは何か」
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□新城栄徳、新里金福と関広延対談をセットする。
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1972年ー新里金福氏書簡→新城栄徳宛


1965年10月 浦崎純『消えた沖縄県』沖縄遺族連合会・沖縄時事出版社 □新里金福「歴史の証言」ー今ベトナムの戦線では、防衛を口実に日ごと、殺戮がくりかえされている。それも宣戦布告なしの反復攻撃という国際道義を無視した方法によってである。

1966年3月ー新里金福『沖縄の思想』未来社
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資料「関広延」


関連ー「核はこうして貯蔵されている<辺野古の核弾薬庫>」『週刊ポスト』1973年11月15日号「平野部の”70%„が米軍基地の沖縄」。アベ政治が辺野古に拘る一因か。

 2015年11月27日の『琉球新報』に友寄貞丸の「かちゃいほーちゃい」が女性セブン記事を紹介、株投資で年金損失 アベ政権、儲け優先に運用ー損失が出れば年金の受給額が減らされる。アベノミクスは「アベノリスク」「アベのみクスッ(笑)」「アベのミミクス(耳垢)」などといわれるゆえんだ。前の方には、悪夢は繰り返された。年明けの新聞社襲撃に続き、パリで起きた同時多発テロには、週刊誌も多くの誌面を割いた。空爆こそ参加していないものの、いつテロが起きても不思議でない属国日本、とある。

 
1940年2月29日『沖縄日報』「垣花の石油倉庫発火」