東北関東大震災後の関西に出てみた。(東日本大震災 2011年3月11日午後2時46分、三陸沖で発生したマグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震により引き起こされた大災害。最大震度7の強い揺れと国内観測史上最大の津波を伴い、東北・関東地方を中心とする広い範囲に甚大な被害をもたらした。また、東京電力福島第一原子力発電所が被災し、放射性物質が漏れ出す深刻な事態になった。→知恵蔵)〇2019年(令和元年)7月9日時点で、震災による死者・行方不明者は1万8429人、建築物の全壊・半壊は合わせて40万4890戸が公式に確認されている。震災発生直後のピーク時においては避難者は40万人以上、停電世帯は800万戸以上、断水世帯は180万戸以上等の数値が報告されている。復興庁によると、2019年7月30日時点の避難者等の数は5万271人となっている。→ウィキ
新城栄徳「関西日誌2011-10」
 私の本格的な古本屋巡りは1965年から始まっている。何ぼネット時代と言ってもこの身に染み付いた古本屋巡礼の快楽は、バーチャル(仮想空間)なネット世界では絶対に味わえないものだ。第一、歩くことによって運動にもなる。古本屋がどんな場所にあるのか訪ねるのも楽しみの一つである。本、新聞もネットで読めるとよく若い人は言うが、持ち時間が余り無い初老には馴染む気力も体力も無い。
 午前10時に布施の自宅を出て、JR永和駅から乗り大阪天満宮に行く。電車賃は170円、那覇市内バス210円より安い。天満宮で「天神さんの古本まつり」(大阪古書古書研究会主催)がある。天気も良く参拝客も多い。5冊1000円コナーで、W・A・スウォンバーグ/木下秀夫『アメリカ新聞界の巨人・ピュリツァー』(早川書房1978)、小糸忠吾『超大国米国ソ連のマスメディア』(理想出版社1981)、高橋康雄『物語・萬朝報』(日本経済新聞社1989)、木村愛二『読売新聞・歴史検証』(汐文社1996)、雑誌は『人物往来』「昭和重大事件の真正報告ーあの時の証人は語る」1955年の復刻版を買った。

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 100円コーナーで、『醍醐寺の研究』(飛鳥園1930)は中にチラシ「出雲大寺薬師」や長崎、大宰府天満宮近くの飲食店の箸袋が挟まれていた。平凡社発行(1929~31)『世界美術全集』21巻、27巻、別巻「宗教図像篇」、最後の巻には週刊朝日チラシ「ワーナー・ブラザース映画『百萬長者』/フエアリイランド/秋の画廊」「日本古墳と安南の墳墓」「古代朝鮮文化の粋」「古今東西女性美名作物語ー上野府美術館」(数点の戦前の新聞切り抜き)が挟まれていた。新村出『広辞苑』(岩波書店1960)、雑誌は、『話の特集』第191号(1981-12)には今話題の島田紳助らの「とことんやったれ!ツッパリ漫才爆走中」が載っている。たしか今の琉球新報社長の富田詢一氏もかつて『話の特集』編集部にいたことがある。『芸術新潮』「ナチスが捺した退廃芸術の烙印」(1992-9)、「悪趣味のパワー」(93-6)、「天災と闘った美術」(95-5)、「『東寺』よ開け!」を買った。
 天満宮を天六方面に行けば末広町の「成正寺」がある。入口に「中斎大塩平八郎墓所」の石碑がたっていて、奥にソテツがある。。東の方も散策。天満東寺町の龍海寺(緒方洪庵墓所がある)に寄る。ここは門が来るたび閉まっている。『大阪春秋』(2006-10)にT・M生が「寺町と掃苔ー著名人の墓碑は文化遺産」を書いていて「それよりも緒方一家といえば、いまも家運隆盛で良識ある優秀な方ばかり(略)戦後緒方家の墓地を整備なさったとき、無縁となられた中家の墓域ぐらい購入されて洪庵先生と並べて眠らせてあげれば、洪庵もさぞかし喜ばれたと思うのですが残念

 新城栄徳日記メモー1995年1月1日ー奈良東大寺大仏初詣/1月17日午前5時過ぎに京都で大きな揺れ。東大阪の息子に電話。午後2時23分電車で京阪淀から近鉄経由で布施。/1月24日、尼崎市の兵庫沖縄県人会事務所。沖縄県からのビニールシートが届いていたので配送を手伝う。息子名義で見舞金を贈ったとき宮城幹夫氏も来所し見舞金を贈られた。挨拶をした。1月30日、西宮からバスで三宮。午後8時に帰宅。1月31日、大正区へよって、阪神青木から東灘区へ。その後、息子も神戸へ。

 10・10那覇大空襲の日である。1944年7月のサイパン陥落。10月、アメリカ軍はフィリピンへの進攻作戦を準備。これに先立って、後方の南西諸島から台湾方面に散在する日本軍の拠点を、空母艦載機をもって攻撃した。10日の沖縄の大空襲はこの一環として行われたものとされている。このとき那覇市内の9割が消失して壊滅した。死者は255人以上にのぼった。大阪は翌年45年3月13日から深夜から翌日未明にかけてに最初の大阪空襲が行なわれた。同年3月23日には粟国島空襲、26日には慶良間諸島にアメリカ軍が上陸し沖縄戦が始まった。大阪ではその後、6月から8月にかけて空襲が行なわれた。これらの空襲で一般市民 10,000人以上が死亡したと言われる。それから60数年。未だにアメリカ軍は「トモダチ」としてオキナワ・日本に居座っている。何ら疑問も感じない日米両政府。それを容認する国民の感覚も分からない。今日まで核の傘、原発も容認してきた国民。これからも<しょうがないにゃあ>。


大阪の本・雑誌
 午後から大阪市天王寺区生玉町界隈を見学。法音寺は天王寺区の北部、建物は南面している。新しい本堂だが、古い屋根瓦がよく目立っている。1612年創建。1945年ー大阪大空襲により焼失。戦後再建された。画家上田公長の墓所でソテツもある。浄土宗圓通寺には俳匠の大江丸墓所。ソテツもある。大江は大坂出身。飛脚問屋・嶋屋の主人で、家業上諸国を旅したので、交際がきわめて広く、またたいへん筆まめで、そのうえ長寿でもあったので、残した紀行文や随筆、そして発句などは莫大な数にのぼる。作風としては京都の蕪村派の影響を受けているが、西山宗因や上島鬼貫の模倣をした作品もある。のちに江戸の大島蓼太に私淑し、著書においても蓼太を師として敬っている。
 生魂山齢延寺には幕末に私塾・泊園書院を興して活躍した儒者の藤澤東咳・南岳父子や、画家の鍋井克之、名刀鍛冶師の左行秀の墓がある。また、緒方洪庵、斉藤方策と並ぶなにわの3名医のひとり・原老柳ゆかりの老柳観音がある。やがて「いくたまさん」と呼ばれる難波大社 生國魂神社北門入り口に着く。鳥居をくぐって生玉北門坂をのぼる。神社本殿の脇には11社の境内社がある。一番右側の鳥居は「浄瑠璃神社」で、近松門左衛門や竹本義太夫など人形浄瑠璃(文楽)に成立に功のあった『浄瑠璃七功神』をはじめ文楽および女義太夫の物故者を祭神として祀られている。
 境内社の1つ「鴫野神社」。大坂城外鴫野弁天島にあった「弁天社」は淀君の崇敬が厚く、後に「淀姫神社」として祀られるようになったが、1877年に現在地に移転された。家造祖神社は、家造の祖神を祀り、建築関係者の崇敬が篤い。鞴神社は、鞴(ふいご)の神・鍛治の神を祀り、製鉄などの金物業界の崇敬が篤い。
 境内に井原西鶴像がある。西鶴は1680年、「生玉神社南坊」で一昼夜独吟四千句を興行した。後ろの碑は「南坊」の所在跡を示す石碑、「南坊」は明治初期の神仏分離の折、現在の中央区島之内に移転した法案寺の前身である。「米澤彦八の碑」に京都で露五郎兵衛によって始められた上方落語は、大阪では当社境内を舞台に米澤彦八が広めたとある。「八雲琴の碑」には「二つ緒の八雲の琴に神の世の しらべを移し伝え来にけり」と記され中山琴主(愛媛の人、文政年間出雲大社に参拝し神事を得て完成したと伝えられる、琴は二弦で「八雲琴」)を顕彰。
 1496年、本願寺八世蓮如上人が生國魂神社に接して『石山御坊(後の石山本願寺)』を建立したが、1580年、織田信長に屈し灰燼に帰した。1583年、豊臣秀吉が石山本願寺(現在の大阪城の二の丸周辺にあった)跡に大阪城を築城。そのため、神社に社領を寄進し社殿を造営。1585年に現在の鎮座地に遷されたと伝えられている。明治維新の廃仏毀釈によって境内にあった神宮寺が境外へ分散するなど境内は著しく変化したが、1871年、官幣大社に加列された。社殿は(明治45年)『南の大火』、1945年の戦災による消失、1950年の『ジェ―ン台風』による倒壊など幾度も被災と造営を繰り返し、現在の社殿は1956年(昭和31年)に建立されたものである。10月22日から神社参集殿で「出口王仁三郎耀琓展」が開かれるという。
 近松門左衛門の墓は菩提寺、尼崎・広済寺と、妻側の菩提寺の大阪・法妙寺に建てられ、共に夫婦の戒名が刻まれた比翼墓である。法妙寺は大空襲で焼失し大東市に再建され、後に墓だけが元の場所に戻された。近松の墓を見て、西鶴の墓がある誓願寺を訪ねる。戦災で本堂も繰りも焼けたため、一時途絶えた時期もあったが、毎年9月には「西鶴忌」が行われる。西鶴の墓は1887年を前後する頃、誓願寺境内の無縁墓に押し込められていたのが発見された。境内には、大坂に於ける私立学問所「懐徳堂」を140年余にわたり経営し、江戸時代大坂の文教の発展に貢献した、中井一族の墓がある。→稲垣國三郎にも『中井竹山と草茅危言』(大正洋行1943)の著がある。

大阪の本・雑誌
 誓願寺門前にプロレタリア文学を経て、転向。西鶴の浮世草子の作風に学んだ「市井事もの」を著し、時代の庶民風俗の中に新しいリアリズムを追求する独自の作風を確立した 武田麟太郎文学碑がある。この文学碑は武田の小説『井原西鶴』の一節が刻まれている。大阪市中央区上本町「東平公園」にある薄田泣菫の『金剛山の歌』の碑。詩は、作者が本長寺に仮住まいしていた頃、散歩の途中、朝日に輝く金剛山を見て、詠んだと言う。薄田泣菫(1877~1945)は岡山県生れ、24歳で大阪に出て文芸雑誌、詩集を刊し、象徴派詩人として名声を得た。 午後ー近鉄布施駅から鶴橋。近鉄駅改札のまん前にある「高坂書店」では数多くの在日コリアン関連の書籍が売られている。いわゆる「嫌中本」「嫌韓本」も意外に数多く揃えてあり「マンガ嫌韓流」といった山野某の本もある。私はブックオフで買った山野「在日の地図」で、日本の中のコリアンを見つめなおしている。鶴橋商店街はいつも見慣れているが、面白いのは、ガード下にも広がる市場の存在。闇市の世界をそのままに、という風景で八百屋、魚屋、肉屋、乾物屋、そしてキムチ屋、ありとあらゆる韓国食材が揃う、まさに日本の中の朝鮮。大阪の東の玄関口として戦前から発展してきた下町、鶴橋。大阪府は全国で最も在日韓国・朝鮮人が多く、人口は15万人。その多くが大阪市東部の生野区を中心としたエリアに住んでいる。生野区の人口14万人の4分の1に当たる、3万人程度が住んでいると言われる。
 明治、大正時代の大阪は、日本の急激な工業化に伴い大量の労働者が必要となり受け入れた。大阪は大大阪となる。現在の生野区や東大阪市、八尾市あたりには、朝鮮半島から出稼ぎをした人間が大勢住む事となった。終戦直後には210万人程度居たと言われている。その多くが京阪神に住んでいた。現在も在日韓国・朝鮮人の人口は60万人程度居るが、今では在日二世・三世がほとんどで、中には帰化をして日本人になっているものも多く、その実態を掴むのは不可能だ。
 鶴橋商店街を通っていつもは通らない反対の方向に行く。やがて大阪市生野区弥栄神社に出る。秋祭りの地車(ダンジリ)の手入れの最中であった。傍で子どもらが鐘と太鼓の練習をしていた(→「秋祭り」画像検索)。彌栄神社とはバス道ひとつ隔てて鎮座しているのが御幸森天神宮。仁徳天皇を主祭神とし、昔の東成郡猪飼野村の氏神、天皇崩御の後、この森に社殿を建立し、天皇の御神霊を奉祀して、御幸森と称したという。このバス道がかっては百済川だった。猪飼野は猪甘津と呼ばれ、 百済川には日本最初の橋が架けられたと言う。天神宮に沿って御幸通商店街がある。反対側に韓国式の立派な門、沖縄の守礼門と似かよっている。商店街は東西で3つの区画に分かれており、コリアタウン色が強いのが御幸通中央商店街。ほとんどの店舗がキムチ屋や肉屋、韓国料理店や屋台料理、民族衣装、それに韓国の音楽CDやDVDを売る店舗となっている。この商店街は大阪に永いこと住んでいるが初めて来た。



井原西鶴
西鶴は本名は平山藤五。大阪生まれ。貞門派の俳諧師としてはじめ鶴永と名乗る。『生玉万句』(1673)を契機に談林派に転じ、西鶴と号す。オランダ流と評された前衛精神で1日に2万3500句もの独吟(矢数俳諧)を成功させる一方、浮世草子の処女作『好色一代男』(1682)が評判をよんだこともあり、発展途上の大坂の出版界と並走して二十数編の浮世草子を手掛けた。好色や金銭という装置を通して巧みに世の人心を汲み上げる才能は抜群で、八文字屋本などの後続作に多大な影響を与えた。代表作は『好色五人女』『好色一代女』『本朝二十不孝』『日本永代蔵』『世間胸算用』などがある。
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□西鶴の墓は誓願寺にある。(大阪市中央区上本町西4-1-21)/1979年11月 桝井寿郎『井原西鶴』カラーブックス保育社


□井原西鶴像(大阪市天王寺区・生國魂神社)

 末吉麦門冬の甥・佐渡山安治と文通で親交があった森銑三によると、西鶴作であることが明記されているのは『好色一代男』のみであること、また『一代男』とそれ以外の浮世草子の文体の違いなどから、西鶴自身が執筆したのは『一代男』ただ一作のみであり、他は監修であると唱えた。森説は近世文学研究者の間ではほとんど無視されており(後に中村幸彦らによって再評価されたが)、『新編 西鶴全集』(勉誠出版、2000-2007年)『決定版対訳西鶴全集』(明治書院、1992-2007年)でも採用されていない。(→ウィキ)、また、1910年、沖縄県立沖縄図書館開館にあたって麦門冬は『西鶴全集』『蜀山人全集』などを寄贈した。

□大田 南畝(1749年4月19日~ 1823年5月16日)は、天明期を代表する文人・狂歌師。漢詩文、洒落本、狂詩、狂歌などをよくし、膨大な量の随筆を残した。勘定所幕吏として支配勘定にまで上り詰めたが、一方、余技で狂歌集や洒落本などを著した。唐衣橘洲(からころもきっしゅう)・朱楽菅江(あけらかんこう)と共に狂歌三大家と言われる。南畝を中心にした狂歌師グループを、山手連(四方側)と称した。名は覃(ふかし)。通称、直次郎、七左衛門。別号、蜀山人、玉川漁翁、石楠齋、杏花園。狂名、四方赤良。また狂詩には寝惚先生と称した。1801年(寛政13年)、大坂銅座に赴任し、大坂在住時から「蜀山人」の号を使い始めた。号の由来は、銅の異名を「蜀山居士」と言ったことから。大坂滞在中、物産学者・木村蒹葭堂や国学者・上田秋成らと交流する。(→ウィキ)

1966年2月 新しい日本を創造する総合雑誌『オール関西』創刊号

オール関西 = Monthly magazine the all Kwansai オール関西編集部-大阪市北区西寺町2-8 発行人・小泉康夫 1巻1号 (1966)- ; [復刊] 創刊号 [1巻1号] (Apr. 1984)-
創刊号には「写真ー日本のふるさと 飛鳥の里」、梁雅子「やまとは国のまほろば」、「友人交歓ー岩宮武二、秋山庄太郎」「小磯良平を訪ねて」/1972年6月『オール関西』76号ー高松塚古墳発掘で「古代ブーム」の端緒を切った網干善教、岩宮武二「台湾」大谷晃一「小田作之助伝」(題字・榊莫山)、タレントの中田喜子、宝塚歌劇の汀夏子、藤純子の名をもらった松平純子

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 神戸は1歳の息子(1974年生)を連れて妹と一緒によく行った場所だが、現在、息子は神戸で働いている。2016年5月3日ー神戸市中央区のJR三ノ宮駅北側の交差点で午前11時すぎ、、乗用車が暴走し、歩行者をはねた。兵庫県警によると、14~51歳の歩行者の男女ら5人が重軽傷を負ったほか、乗用車の親子2人も軽傷を負った。同県警は自動車運転処罰法違反(過失傷害)の疑いで、車を運転していた神戸市中央区港島中町、無職沢井国一容疑者(63)を現行犯逮捕した。この神戸駅も見慣れた場所であるが、那覇でテレビを見ると事件の当事者たちの気持ちも考えず不遜というか懐かしい気持ちで見ている。/あけみさん、息子、娘と清荒神初詣

1927年10月ー宮里貞寛(1890年1月26日~1948年2月14日/国頭郡羽地村字真喜屋に生まれる。1906年ー国頭農学校卒業、ハワイに渡航、米屋旅館に就職。後に独立してホノルル旅館経営。)、神戸市神戸区北長狭通り4丁目に「ゑびす屋旅館」開業。兵庫御影で死去。
1988年ー中内功、神戸流通科学大学(中内功記念館)を創設。
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神戸資料

 1995年(平成7年)1月17日午前5時46分、明石海峡を震源地とするマグニチュード7.3の直下型地震「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」によって明石市、神戸市、芦屋市、西宮市、宝塚市など阪神間の各都市(兵庫県の沿海部とその周辺地域)、および淡路島北部が最大震度7の激しい揺れに襲われ、各地で甚大な被害が発生した。死者6,433名、行方不明者3名、負傷者4万人以上、家屋の全半壊24万軒(世帯としては約44万世帯)。地震による火災での全半焼約6,200軒超。災害救助法適用は兵庫県内10市10町にのぼる。
 交通関係については、港湾関係で埠頭の沈下等、鉄道関係で山陽新幹線の高架橋等の倒壊・落橋による不通を含むJR西日本等合計13社において不通、道路関係で地震発生直後、高速自動車国道、阪神高速道路等の27路線36区間について通行止めになるなどの被害が発生した。
 また地震発生直後から長期間にわたるライフライン(上下水道・電気・ガス・電話)の不通、消防・救急体制の混乱、各種産業・企業への被害、文化財への被害など、被害総額はおよそ10兆円に達した。
問題点とその後
 当時の首相は村山富市(社会党)、自社さ連立政権であった。混乱している現地から東京へ被害の実態や情報が伝わるのが遅く、テレビ報道などで状況を把握する事態となった。このように、官邸の状況把握の遅滞、兵庫県知事による自衛隊の災害派遣要請の遅延など、政府・行政側の災害時対応においてさまざまな問題が浮き彫りになった。人命救助の点でも、金銭的な生活支援の点でも、すべての面で従来の災害関連法規や制度ではまったく対応できなかった。人口密集地である都市部の大災害で死傷者も多かったことから数多くの特別な立法措置によって被害対策をおこなうこととなった。
 この大震災の教訓としてその後、政府や行政、企業等では危機対応力の強化、災害時の連絡体制の確保、災害関連法の整備などがはかられ、この震災をきっかけに被災者生活再建支援法が制定、2004年度からは居住安定支援制度が導入されることになった。また地域防災力を高めるための様々な対応や施策、地震研究・地震対策ではこれまでは予知や予防を中心とするものであったが、今後は「被害を出さない」防災にとどまらず、被害が出ても初期に食い止め早期に対応できるような「被害を減らす」減災の重要性などが認識・推進されるようになった。
 数十万人の被災者が出た被災地では体育館などにもうけられた避難所や仮設住宅への長期避難生活、その後の震災住宅への入居など被災者の苦痛は大きく、被災者や救援者に対するメンタルヘルス・ケアの必要性や一般市民による継続的な被災地災害援助ボランティア活動の重要性が認識された。これらの経験を通じて、日本では一般にじゅうぶんには普及していなかった新たな分野への注目や関心が高まる契機ともなった。