古堅哲氏の書簡/新城栄徳作「才賀藤吉を主にした沖繩電氣株式會社/沖繩電氣軌道株式會社の流れ」

沖縄の電力事業史の本に1981年9月発行の古堅哲『うるまの灯ー沖縄の電力事業史』財団法人・日本電気協会がある。著者の古堅哲氏は1926年7月15日に名護市の屋我地島で生まれた。2013年2月4日に亡くなられた。著に1996年『ゴバン型集落 済井出村の源流』がある。98年に『達姓(大宗家)古堅・世系図』を発行しておられる。
1915年8月1日の『琉球新報』に「沖縄電気株式会社取締役社長・才賀藤吉 病気のところ昨夜死去」記事がある。才賀藤吉の名前は古堅哲さんの『うるまの灯ー沖縄の電力事業史』で知った。今はウィキで才賀藤吉の経歴や沖縄電気は詳しく知ることができる。「才賀 藤吉(さいが とうきち、1870年8月7日(明治3年7月11日) - 1915年(大正4年)7月29日は明治末期から大正初期にかけて活躍した実業家、代議士。各地の電気会社や鉄道会社の経営に参画し、電気王と称された。」

才賀藤吉、その書簡/1913年『日本紳士録』


1915年7月30日『大阪朝日新聞』「才賀藤吉氏逝く」


1983年11月 金城功『近代鉄道沖縄の鉄道と海運』ひるぎ社


1971年ごろ、西淀川の普久原朝喜翁を『青い海』の件で訪ねると、エジソンの写真があった。

1911年10月23日『琉球新報』「『新日本』<アメリカ號>広告ー近世文明上エジソンの功績」
1922年、エジソンはアメリカ国内でジャーナリストとの対談をおこなった際、当時の日本について「日本は進歩的で進取の気性に飛んだエネルギッシュな国である。日本国民をその小さな島国に永久に閉じこめておくことは出来ない」と述べ、日本の拡張政策に理解を示した。→(ウィキペディア)

○1927年ー大阪で普久原朝喜が「マルフクレコード」設立□朝喜は親の借金を返済し、実家も新築した。新しい家には、蓄音機を発明した米国の発明王エジソンの肖像画を掲げた。「偉い人だから手を合わせて拝みなさい」と養父は私たち家族に言って聞かせたものだった。(普久原恒勇)
1931年11月27日に日比谷公会堂にて行われたエジソン追悼会の席上、追悼会長であった金子堅太郎によって「日露戦争の戦費調達のため訪米した際、エジソンより秘密研究室で働く日本人を紹介されたのが岡部芳郎君」と紹介された。→(ウィキペディア)
○おもちゃのまちバンダイミュージアム(栃木県下都賀郡壬生町おもちゃのまち)バンダイの玩具を主とした博物館「エジソンミュージアム」


○京都男山の石清水八幡宮境内にトーマス・エジソン記念碑。白熱電球の改良に際し当社境内の竹を使用したため、2月11日にはエジソン生誕祭も行われる。
○電電宮(でんでんぐう)、京都市西京区嵐山の法輪寺の鎮守社で、電気・電波の祖神として信仰されている神社。電電塔には電気研究者の代表としてエジソン、電波研究者の代表としてヘルツの銅製の肖像が掲げられている。昭和44年(1969年)に大阪万博を記念して社殿が再建。昭和54年(1979年)1月に電電宮護持会(電電宮並びに電電塔奉賛会)が結成され、電電宮・電電塔の維持を行っている。今日では、電気・電波だけでなくコンピュータ関係者や電気通信事業者からも信仰を集めている。→(ウィキペディア)


左に「ナショナル乾電池」広告(1938年6月『琉球新報』)