01/09: 沖縄県立博物館・美術館「大城精徳の仕事」
1974年5月ー『琉球の文化』第五号 星雅彦「安次嶺金正の芸術とその背景」
1974年5月ー『琉球の文化』第五号<沖縄戦と終戦直後の生活>
琉球文化社(編集発行人・大城精徳)本社〒那覇市牧志町1-944-6 編集局〒902那覇市安里425丸清ビル2階
関西連絡所ー大阪市東淀川区西中島町5-62青い海出版社内(新城栄徳)
1975年6月 沖縄県立博物館『博物館あんない』琉球文化社
1975年6月1日『沖縄読書新聞』「琉球書院」/1981年6月『全国古本屋地図』「沖縄県の古本屋」
1976年3月 山口栄鉄『チェンバレン 日琉語比較文典』琉球文化社 1976年5月 山口栄鉄『王堂チェンバレンーその琉球研究の記録ー』琉球文化社/写真・1978年8月ー那覇市一銀通りの琉球書院(琉球文化社)と青い海出版社の看板が見える。
1976年7月9日『琉球新報』大城精徳「沖縄よ何處へ!」/1978年1月7日『サンデーおきなわ』大城精徳「沖縄の文化を守るー用途から見た琉球陶器①」
佐久田繁ー沖縄戦の写真、あなたでも買えます/琉球文化社の大城精徳君によると、『金さえ出せば、ペンタゴンでは誰でも買えるんだ』というのである。そして大城君が注文した写真が二か月後に、ペンタゴンから郵送されてきた。その写真をもとに私は、1977年8月『日本最後の戦い・沖縄戦記録写真集』を出版、沖縄三越で写真展もやった。/佐久田繁さんにはアメリカ行きの資金がありません。そのとき、たまたま琉球文化社(出版社)の大城精徳氏が渡米するという話を小耳に挟み、佐久田さんが同氏の描いた絵を買い取ることを条件に旅費の一部を負担して、資料収集を依頼しました。大城氏なら沖縄戦の資料価値を適切に判断できると踏んだのです。→藤田修司(新日本教育図書社長)「異能の人、逝くー出版人佐久田繁氏との思い出」『沖縄県産本ニュース』2005年9月
ワシントンⅮ,Ⅽホワイトハウス/18世紀当時の歴史深い建物に囲まれた、ミシシッピ川沿いのジャクソンスクエアは、特に音楽、アート好きなら絶対立ち寄りたい、現代文化と歴史がうまく調合した、活気あふれた公園です。公園内に入ると、ここをアートスタジオとする、公園中に見られるアーティストたちの才能にも絶句ものです。ご自分へのお土産に、ポートレイトやカリカチュアを描いてもらうのもいいです。
1977年5月
1979年7月 『名渡山愛順画集』琉球新報社〇刊行委員会ー池宮城秀意、石野朝季、大城精徳、久場トヨ、高江洲盛一、田積友吉郎、名渡山愛擴、比嘉良勝、又吉真三、宮城篤正、山元文子」
1979年10月『沖縄アルマナック』大城精徳「沖縄の伝統工芸ー焼き物」社会経済研究所
1979年11月『新沖縄文学』43号 大城精徳「工芸のありかたを探るー沖縄工芸界のゆくえ」
1980年 琉球文化社の前でー大城修くん、澄子さん、藤子さん
1981年 「沖縄の12人の画家たち」(國場組創立50周年カレンダー)大城精徳「島の浜辺」F60号(金城竹治氏所蔵)
1981年9月 沖縄の雑誌『青い海』106号 大城精徳「中国現地にみる 琉球文化のルーツ」
1982年1月10日 「新生美術協会」発足(大嶺政寛会長)
1982年3月 『琉球刊本 御教条・太上感応大意・童子摭談』(沖縄県立図書館資料叢書 第三巻)発売元・琉球文化社
1982年3月 『大里村史』(通史編 資料編)編集委員・大城精徳
1982年9月『新生美術』創刊号 事務局・沖縄県那覇市牧志1-12-6 琉球文化社
1982年5月 『琉球の古陶』大城精徳「琉球の焼物について」諸見民芸館
1982年5月 新城栄徳、天久宮近くの関西沖縄県人会運動の先駆者・浦崎康華翁を訪ねる。同年9月の八汐荘の大里康永氏の出版祝賀会に同行。帰りも同行し、国吉真哲翁の家の前で「ここは親友の家」と紹介された。のちに国吉家にも出入りする。
1982年9月18日~21日 浦添市民会館中ホール『宮城篤正展』大城精徳「学術と武術と芸術の調和の上に築かれた宮城篤正の世界」/9月17日『沖縄タイムス』大城精徳「宮城篤正展に寄せて」
1982年11月 島袋捷子『沖縄現代画家78人』月刊沖縄社
1988年6月28日「われら同期会」沖縄県立農林学校旧校舎の一角/出版祝賀会
1989年6月15日『沖縄タイムス』「われら同期生ー琉球大学美術工芸科10期生/照屋恒宣、宮城篤正、宮良薫、高良憲義、安元賢治、宮城孝也、神山泰治、永山信春ー同期生大城一夫さんの遺作『幹』を前に」/1968年12月宮城篤正『沖縄の美術』
1982年12月『新沖縄文学』54号 「座談会・食文化の交流ー大城精徳・高良倉吉、比嘉政夫、又吉盛清、宮城篤正」
1983年4月26日~5月1日 県民アートギャラリー(電波堂ビル2階)「第7回 大城精徳個展」/2019年12月25日「古美術なるみ堂」にてー「房指輪」「ジーファー」を見る店主の翁長良明氏、哲楽家・紀々さん→紀々の公式サイト「首里城が出来た時の龍のモチーフを見て生まれた『龍神伝説』という曲」。→ 電波堂☆沖縄ソニー坊や博物館
1983年8月21日『琉球新報』
1984年3月『新沖縄文学』59号 大城精徳「沖縄工芸産業における問題点と将来の展望」
1984年4月 新城栄徳『琉文手帖』1号「琉球風俗画六十年 日本画家 金城安太郎」津野創一/大城精徳「序」、宮城篤正「沖縄における日本画家の系譜抄」
1984年4月 大塚清吾『写真集 沖縄の屋根獅子』「座談ー琉球文化と屋根獅子/大城精徳・大城立裕・西村貞雄・大塚清吾」葦書房(福岡市)
1984年6月『琉球新報』大城精徳「中国のシーサー探訪記」/大城精徳「大交易時代の遺産と現代ー獅子像」「中国文化と沖縄―シーサー様式」
1985年11月『琉文手帖』3号「歌人 山城正忠」「歌人・山城正忠」の題字は彦根の井伊文子さん。
1986年5月『写真集 沖縄戦後史』那覇出版社 大城精徳「焦土の中から甦った画家たち」
1988年4月 『沖縄文化財百科』「監修者・又吉真三、富島壮英、宮城篤正、大城精徳、名嘉真宜勝、大城志津子、糸数兼治、嵩元政秀、当間一郎、宜保栄治郎、池原貞雄、多和田真淳」那覇出版社
1989年2月 『わたしのシーサー あなたのシーサー 沖縄獅子の魅力集』週刊レキオ社
大城精徳□獅子が中国伝来のことばであることはいうまでもないが、先に述べた日本語のシシとは違い、中国語ではライオンを意味することばなのである、しかし中国には元来ライオンは棲息していないので、この中国語も外来語だった。中国人がライオンに接したのは西域との交易を通してであった。時代は漢代であよそ2千年前である。西暦76年には今のアフガニスタンとイラン東部に興った「安息」(パルティア帝国)という国から獅子が献上品としてもちこまれたこともあった。この地方の当時のことばではライオンのことを「シ」(SHI)といった。この「シ」という音に中国では、はじめ「師」という漢字を当て、のちに犭偏をつけて「獅」になったとのことである。獅子の「子」については中国語によくみうけられる接尾語で特別な意味はない。
1989年11月 『沖縄美術全集』沖縄タイムス社 宮城篤正「琉球の陶器」/大城精徳「近・現代沖縄の焼物」
左から新城栄徳、宮城篤正氏、大城精徳氏
1990年8月 『名渡山愛順作品集』同刊行委員会(委員長・大城精豊 委員・久田民子、久場とよ、????宮城せつ、国吉保武、星雅彦、山元文子、儀間恒昭、宮城翼、名渡山愛擴 事務局・佐藤吉勝)
1992年7月23日『琉球新報』大城精豊「柳光観画伯を悼む」
1992年12月1日 那覇市文化協会美術工芸部会(浦添健部会長)設立総会、大城精徳・運営委員。
1994年 観宝堂の吉戸直氏(福岡久留米出身)、大城精徳斡旋で仲井真元楷翁の住宅地を購入、店舗とする。
古美術 観宝堂/2019-12-13 店主の吉戸直氏と新城栄徳
1994年9月11日 大城精徳、夫人・澄子さん死去。
1996年6月5日知念宅於、左より仲井真格氏、大城精徳氏、知念良秀氏、石野朝季氏
1996年9月『久場とよ画集』琉球書院
1997年4月30日 パレット久茂地9F「石垣博孝個展レセプション」
1999年11月3日 大城精徳、琉球文化社休業。大阪の福本泰男氏の支援で沖縄尚学高校向かいで「尚文館」開設
2000年5月13日~26日 現代中国藝術センター(〒530-0047 大阪市北区西天満2-3-20 CMACビルディング)「儀間比呂志作品展 絵本と木版画」/下右写真、琉球舞踊「円の会」会主・平良富士子と、儀間比呂志(久米蔡氏)、右から3人目が小林藤子さん
現代中国藝術センターブログー2015-11-30 叔父 大城精徳のこと②ある日の精徳叔父さんとの会話です。多分2002年頃。私は唐突に「精徳叔父さん〜岡本太郎の沖縄文化論って知ってる?岡本太郎って文章素晴らしいよね。本業の現代美術作家としてより文筆家としての方が才能あるんじゃない?」と問いかけました。姪のなまいきな問いかけに精徳叔父さんはいつものように素早く深い知識の蓄積の中から答えを用意すべく応戦体勢を整えてから、「あれはね叔父さんが岡本太郎が沖縄に来た時に運転手をしたさあ。」と鷹揚に答えました。私「え〜そうなの?岡本太郎ってどんな人?」「むすっとしてあまり何もしゃべらないひとだったな。」「イメージと全然違うね。」その後話題はいろいろ盛り上がり、、、いつものように精徳叔父さんの沖縄の歴史、文化、工芸、芸術に関する博学ぶりと記憶力のよさに敬服したのでした。
精徳叔父さんは昭和3年生まれ、旧制中学の時に沖縄戦が始まり鉄血勤皇隊として日本軍と行動を共にしたそうです。戦後は首里高校の先生や毎日新聞の記者を経験した後、琉球政府派遣の留学生としてアメリカへ留学し博物館学を学び、帰国後は琉球博物館で長らく副館長を務めていました。創成期の琉球博物館の仕事に没頭していた様子は、自宅で博物館のカタログを得意の英文訳をつけて執筆していた姿が私の子供のころのうっすらした記憶に残っています。
2017年02月2日伊江家庭園 ファミリーヒストリー的お話です。私の母は昭和10年沖縄県島尻郡豊見城村で八人兄弟の四女として生まれました。太平洋戦争中は次女と三女と共に熊本県八代市に疎開して、姉二人と一緒に現地の小学校へ通ったそうです。初めて雪を見てびっくりしたことや、三女は成績がよく、自分は勉強があまりできず、学校が好きではなかったなどよく話していました。私の覚えている祖母はのんびりおっとりした人でしたので、家族の血脈を守る為に兄弟の中で次女三女四女だけを遠く離れた八代市に疎開させる決断をしたことが想像できませんでした。そして学校の成績がよかった次女は後に、琉球尚清王(1527年即位)の第七子を始祖とする伊江御殿の分家伊江家に嫁ぎました。私は沖縄に戻る時には度々この叔母の家にやっかいになっていました。首里の伊江家には自然の琉球石灰岩の岩山を巧みに利用した大きな庭園があり、この伊江家の庭園は清朝の冊封使の歓待にもしばしば利用されたそうです。庭には来訪した冊封使の書が岩に刻まれています。私の泊めてもらっていた部屋はこの庭に面していて、初夏の夜にはカエルの大合唱が聞こえてきて、その昔の使者もこうして眠りについたのかと不思議な気持ちがしていました。あるとき叔母が私に一点の書を見せてくれました。それは昭和60年頃清朝の冊封使の五代前に当たる子孫が伊江家を訪れた時に書き残したものだそうで、それは中国仏教協会会長、第5代西泠印社社長の趙僕初氏でした。
2000年12月 目取真区集落総合管理施設記念誌編集委員会『目取真区集落総合管理施設ー記念誌』目取真区集落地域整備事業実行委員会
写真下 前列左から宮城勝臣氏、大城精徳氏、星雅彦氏、宮城篤正氏。後列左から東江清俊氏、一人置いて新城栄徳
□1991年4月30日『沖縄タイムス』「魚眼レンズ(東江清俊さん)19日グランドオープンした『パレットくもじ』内リウボウ4階美術サロンの『ピカソ展』が話題を呼んでいる。この美術サロンの運営を見ているのが東江清俊さん。今月8日にこの欄で紹介した那覇市文化振興課長の宮城信治さんが、新しい劇場の誕生とともに転職する人なら東江さんは、新しい画廊の誕生とともにある人。沖銀本店2楷にあった『物産センター画廊』からパラダイス通りの『ギャラリー南都』を経て、現美術サロンに落ち着いた。デパートが売り場内に持つ画廊という性格はあるが、話題性のある企画展を提供したいと意欲的だ。ピカソ展の次は『北大路魯山人展』を開く。書家、陶芸家、さらにはグルメとして知られ、最近では漫画にも登場する魯山人(1883~1959)の人間像に迫る企画だ。西武グループのバックアップが強みという同画廊。運営を任されるにあたって、東江さん自身、関係者に接して感じたのが、織物とか陶芸関係は東京にもよく知られているようだが、絵画はほとんどまだということ。『沖縄にはどんな画家がいるのかと聞かれてビックリした。今後は県内の画家の作品も西武系デパートなどで紹介できるようにもっていけないものか、考えている。』と話している。」
2001年11月ー「沖縄コレクター友の会発足」佐敷町ちゃんくすば中央が真栄城勇会長
2003年2月15日 かりゆしギャラリー 大城精徳さんと比嘉賀友氏
2007年11月1日 沖縄県立博物館・美術館、那覇市おもろまちに開館
2007年12月17日 大城精徳氏死去
2008年11月9日「新聞資料研究会」琉球新報新聞博物館 琉球新報本社には新聞博物館(http://ryukyushimpo.jp/info/page-129.html ) (2005年4月開館)がある。その機関紙『あめく通信』9号(2008年)に新聞収集家として著名な羽島知之氏の琉球新報での講演「新聞と私ー新聞収集研究60年」と、羽島氏が新聞博物館に寄贈した新聞原紙の目録が載っている。2008年11月9日に新聞博物館で「新聞資料研究会第19回大会」があった。会長の羽島氏以下15人が県外から参加した。沖縄側から岡田館長、新聞研究家の下地智子さん、沖縄コレクター友の会から会長の上原実、副会長の翁長良明、新城栄徳が参加した。新城は羽島会長から『スタンプマガジン』(2008年10月)を恵まれた。同誌には羽島会長の「号外コレクションが語る近現代史」が連載されている。なお横浜にある日本新聞博物館には羽島コレクションが10万点収蔵されている。
左から、上原実(沖縄コレクター友の会会長)、羽島知之(新聞資料研究会会長)、新城栄徳(沖縄コレクター友の会)、翁長良明(沖縄コレクター友の会副会長)。
2019年12月25日 沖縄県文化功労者で沖展会員の画家・城間喜宏(しろま・きこう)さんが胃がんのため宜野湾市内の病院で死去した。84歳。那覇市出身。
2020年1月14日 漆芸家の前田孝允(まえだ・こういん)氏83歳、心筋梗塞のため那覇市内の病院で死去した。
中央が星雅彦氏、2024-2-1死去92歳