01/13: 「沖縄のシンボル 守礼門」
二千円札 「二千円札大使認定証」二千円札流通促進委員長・湖城英知/サンクス平尾(平尾本通商店街)。リトル沖縄として有名な大正区平尾の商店街
『あまから手帖』1993年6月号
大阪の沖縄関係資料室に守礼門の扁額「守禮之邦」の拓本がある。沖縄学の祖、伊波普猷は1932年10月『琉球新報』「『首里』の語源は結局わからないー東恩納学士の浦添旧都説を裏書きすべき一史料」の中で、尚眞王以前は瑞泉門が正門、守礼之邦の最初の意味は「首里親国」「しよりくに」とする。
改訂前のチラシ
2010年7月28日ーギャラリートーク 湖城英知「2、000円札発行について」写真・左から、新城栄徳、渡口彦邦氏、講師の湖城英知氏(沖縄海邦銀行元頭取、沖縄都市モノレール元社長)、大城宗憲氏(株式会社南都会長)、那覇市民文化部の島田さん。/2010年8月4日ーギャラリートーク 宮城篤正氏を囲んで。
1428(尚巴志7)年ー国門を創建す。傍に曰く、中山と(旧記に曰く、中山の2字は内官柴山進めて以って額と為すと)
1477年ー歓会門創建
1534年ー陳侃『使琉球録』「是の日黎明、世子、衆官をして館門の外に候たしめ、詔勅を導引して国に之く。国門は、館を距たる路三十里、山海の間に介在す。険側高卑斉しからず。砥の如く矢の如く能はず。将に国に至らんとす。五里の外に牌坊一座有り。扁して中山と曰ふ。此れより以往、路皆平坦にして九軌を容るべし。旁に石墻を壘ね、亦百雉の制の若し。世子、此に候つ。龍亭至りて、五拝三叩頭の礼を行い、之を国門に導く。門は歓会曰ふ」
1561年ー郭汝霖、李際春渡琉□『重編使琉球録』「国につくとき、その五里外に、一座あり、『中山』の額がかけられている。これから先は、道はすべて平坦で、九軌をいれることができる。道のかたわらは、石垣をつみあげて、百雉の制ににている。世子はそこ(中山坊の所)で待っていた」
1606年ー夏子陽『使琉球録』「吉日を卜して万暦三十四年七月二十一日に封王礼を挙行した。この日の明け方、世子は衆官をしてすべて吉服せしめ、天使館の外へ出迎えさせた。私は詔勅をささげて龍亭の中に安置したてまつり、国王と妃へ頒賜される服と物とを取って彩亭の中に置いた。儀注通りに国へ前導した。路の両側はすべて兵を並べて儀衛とし、隊伍を整えて立っていた。国は一里ばかりで、坊があり、その額に『中山』とある。ここから進むと首里坊である。現在は『守礼之邦』の額である。わが中国の声数の及んだことを記したのである。天使館から東へ行き、ここにつくと、地勢はやっと平坦となる。世子は守礼坊の下で出迎え、龍亭の到着を見るや五拝三拝叩頭の礼をおこない、国門へ案内した。門は『歓会』という」(原田
1719年ー徐葆光、海宝が冊封で渡琉→□『中山伝信録』「中山王府ー坊牓があって『中山』という。道の南に安国寺がある。その向い側の町並の、切石を積んで削いだような石垣があるのが世子邸である。道の両側は、すべて切石の低い石垣で、高さは三,四である。道の真ん中に、蘇鉄の一叢があり、まわりを石で囲っている。更に進むと半里ばかりで坊牓があり、『守礼之邦』とある。中山王は、平伏して、詔をこの坊の下の道のかたわらで迎えた」(原田訳)
1731年11月ー『琉球国旧記』「坊楼ー1392年、閩人三十六姓を賜り、文教は大いに明らかとなり、礼楽は日々に新たとなり、中国同様の世となり、礼楽制度は中華とちがわなくなった。太祖皇帝は、これをおほめになり、『守礼之邦』と申された。後に、改めてこの額をかけた《昔は、いつもは『首里』の額をかけており、勅使がお出でになった時だけ、改めて『守礼之邦』の額をかけていた。近頃から、常時『守礼之邦』の額をかけている》。」(原田訳)
1756年ー周煌『琉球国志略』「世子は、衆官を従えて、守礼坊の外で平伏して(勅使を)迎える。龍亭はしばらくとどまる。世子と衆官は立ち上がる。天使は、前へゆき、龍亭の左右に分かれて立つ。引礼官が『排班』と唱える。世子は衆官を従えて、三跪九叩頭の接詔礼を行う。世子は前導して国門(歓会)を入り、正殿の下に立つ」
1853年6月ーペルリ、首里城訪問□→1926年10月ー神田精輝『ペルリ提督琉球訪問記』/1935年3月ー土屋喬雄『ペルリ提督日本遠征記』弘文荘/1947年2月ー大羽綾子『ペルリ提督遠征記』酣燈社/1962年6月ー外間政章『対訳ペリー提督沖縄訪問記』研究社/1985年10月ー金井圓『ペリー日本遠征日記』雄松堂
1879年2月ー渡邊重綱『琉球漫録』「首里ハ主府ニシテ中頭省南隅ニアリ其地高燥十丁方余十七ヶ村ニ分ツ王城中央ニアリ西ニ面ス墻壁橋梁石ヲ畳ンデ造ル第一門ヲ中山ト曰フ(毎門名号ノ扁額アリ)第二守禮(守禮之邦明帝ヨリ贈ル)第三歓会第四瑞泉ー」
1896年6月ー『風俗画報臨時増刊/沖縄風俗図会』東陽堂
1905年4月22日ー『琉球新報』籠城夫「嗚呼中山門ー嗚呼首里の生命」
4月27日ー『琉球新報』放浪生「嗚呼中山門」
1907年
12月18日ー『琉球新報』東恩納寛惇「守礼門考ー坦々たる首里街道の正面に千古の翠色を堪えて立っている守礼門は、今尚暗黙の裏に中山の古い歴史を語って居るが、其のささやきに耳傾けたものはいない。曾つて其下をくぐった長袖寛帯の支那人も、碧眼黄髪の西洋人も、乃至は肩で風切った薩人も、甚だしきは沖縄の物識先生も、皆此の活きた歴史に就いて表面の解釈を下しているに過ぎない。それが物数奇な旅行者の日記に書きこまれて諸方に撒き散らされ、沖縄を誤り伝ふる一の材料となっているー」
1908年6月4日ー『琉球新報』「中山門の入札の結果ー仝門は一昨日正午十二時頃額面及び敷石を除くの外全部入札を挙行したるが入札者七名にて(略)首里区字寒川水旧三十七番地宮里加那が五十二圓二十七銭にて落札したる由」
1909年7月11日~12日『琉球新報』東恩納寛惇「歴史的遺物の保存に就いて識者に協るー(略)吾々は昔中山王国の正門で有った処の中山門を、僅かに三十弐円の薪として売り払った者の罪を、天下後世に鳴らす積もりである。諸君、吾々は上下幾千年に亙る郷土の歴史を調べて、吾々が誠に優秀な国民で有ると曰ふ自覚の上に立って、自ら琉球人たる事を天下に名乗るを矜りとする者であるー」
12月ー東恩納寛惇『大日本地名辞書』(第二 琉球)「中山門跡」「守礼門ー中山門は、当初板葺なりしを、康煕二十二年瓦を以て覆ひたり、守礼門も同様なるべきか。○山里親雲上系譜云、康煕二十二年辛酉三月八日、修補中山門、任惣奉行職、此時改版木蓋以工瓦。-」
1917年8月ー親泊朝擢『沖縄県写真帖』(守礼門)
1919年8月ー『琉球案内』沖縄實業時報社(守礼門)
1920年9月ー親泊朝擢『沖縄県案内』(写真・首里守礼門)
1923年6月ー眞境名安興・島倉龍治『沖縄1千年史』日本大学□「中山門ー球陽に云ふ宣宗使を遣はし、皮弁冠を賜ひ、並に生漆及び各色磨石を買はしむ。宣徳三年(尚巴志即位七年)創めて國門を建て、榜して中山と云ふと」「守禮之邦ー球陽天正七年の條に首里坊門の榜字を易へて守禮の邦といふとあり。蓋し本國支那に通じてより職を修め、貢を入れ、書を読み、禮を学ばしむ。仍って明の太祖称して禮義の邦と為す。嘉靖年間禮部奏して曰く、琉球は海中の諸國に在りて頗る守禮と称す。又尚永王封を受くるとき、制詔に云ふあり、世々職貢を修め、守禮の邦と称するに足ると。是に由り、王法司に命じ、始めて守禮之邦の四字を以て額と為す。然れども平常はただ首里の二字を用ひ、冊使賁臨に会する毎に守禮之邦の四字を以てするを例とすと。康煕二年(寛文三年皇紀二三二三)癸卯始めて榜字を定め守禮之邦と曰ふとあり」
1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」、写真・ペルリ提督の首里城訪問のジオラマ
1930年3月『日本地理風俗大系 弟12巻/九州地方<上>琉球列島』新光社
1932年6月 『婦人公論』久志冨佐子「滅びゆく琉球女の手記」(カット・守礼門)1940年
2月ー大阪戎座で「中山門建築史/ターバーゼーク」
10月ー日本民芸協会『工芸』百三号 柳宗悦□守禮門ー首里城の第2の坊門である。姉妹であった中山門が哀れにも破壊せられて了った今日、此の門が守護を受けて保存せらるるに至ったことは感謝の至りである。構造は支那に発するであろうが、よく咀嚼して独自の風格を示した。結構、均等甚だよく、特に4個の脚柱に用いられた石材の形は見事である。此の門、最初は「賢待門」と呼ばれ、後に「首里門」とも称へられ、又俗間「上の鳥居」とも「上綾門」とも云われた。前の大通りを此の門に因んで綾門大路と名づけた。美しく彩られた門のある大通りとの意であろう。尚清王時代の建立と云うから、今から四百年を越える。中山王国の幾多の歴史的場面は、此の門の前で行われた。一国の威厳を示した國門であって、幾度か冊封使は此の大門をくぐった。かのペルリー一行を接し迎えたのも茲である。「守禮之邦」と題した扁額は、琉球の心を語るように見える。此の門を通して遠く首里城の正門を臨む。繁栄な昔は去った。併し此の門が佇む限り日々新たなる遠来の客を集めるであろう。歴史は変わるとも文化の跡を慕る心は人間あら消えない。首里城が保護せられ、修理せられ、整備せられるなら、此の古都に新な繁栄が来ないと誰が云い得よう。
1935年9月 東洋文化協會『幕末・明治・大正回顧八十年史 』「五姓田芳柳 藩使東上の図」
1934年8月ー大阪商船「沖縄航路案内」(大野麦風「守礼門」)
詳細不明だがネット上に次の書籍が見える。富安路葭, 岡茂政著『筑後本吉清水観世音東山名所図会』昭和堂書店, 1931.5
1941年10月ー加藤三吾著・早川孝太郎校訂『琉球の研究』文一路社□「中山門といふのは首里城の第一坊で、下のアエヂョウと呼び、明の宣徳三年に欽差正使柴山が尚巴志を冊封した時に、中山といふ扁額を携へて来て此門に掲げたのであったが、今は門と共に撤去された。守禮門は第二坊で、上のアエヂョウと呼び、明の嘉靖七年に尚清王が封を請うた時の創建で、初は扁額に『待賢』の二字を掲げてあったが、中頃に『首里』の二字に改め、冊封使の来る時のみは『守禮之邦』といふ金字の額を懸けて、左右の門柱には
嘉慶丑年歳次庚申桂秋 廿有王承冊命 三十六島環中山 錦州李鼎元題
といふ聯床を垂れたのであった。しかし後には『守禮之邦』の大額を其儘に掲げて置くことになったので、今も観光者の最も嘱目するものの一になっている」
1947年11月ー日本民芸協会・沖縄人連盟主催「沖縄工芸展」日本民藝館
1951年1月 比嘉武信『布哇沖縄県人写真帳ー来布五十年記念』/1951年3月 雑誌『おきなわ』<ハワイ特集>
1951年11月12日ー『沖縄タイムス』石野径一郎「守禮の國」(金城安太郎の守礼門の挿絵)
1954年1月ー社団法人「沖縄観光協会」設立(事務所・那覇市勧業課内)。□→57年4月ー琉球政府工交局内。
1956年2月ー金城唯恭編『新沖縄文化史』仲座久雄「郷土の国宝建築・首里城守礼門ー1953年5月、ペルリ記念祭に際し仲座久
雄、知念朝英により5分の1の模型が造られ首里城正殿と共に首里博物館ペルリ記念館に陳列」
1958年10月6日ー『琉球新報』「総仕上げ急ぐ守礼門ー4百年前の姿を再現」 12月15日ー『琉球新報』伊波南哲「十字架の下に」(カット・守礼門)
写真・守礼門と少女たち/山田實・撮影
中山門
12月17日ー『琉球新報』「年末回顧ー琉球のシンボル”守礼門”復元なる」
1959年1月ー『オキナワグラフ』「沖縄の彩色ー復元成った守礼門」
1959年1月『守礼の光』「写真ー守礼門」
1960年5月ー『今日の琉球』(表紙絵・津山彬「守礼門」)
1961年1月ー『守礼の光』(表紙・守礼門)
1961年9月『月刊沖縄』創刊号「新聞を食いつぶした三人の社長(宮城邦貞、仲宗根仙三郎、玉城勝信)」/1963年7月『月刊沖縄』17号/1966年1月『月刊沖縄』(表紙・守礼門)36号
1962年 「沖縄バス 観光案内図」
琉球切手/1961年 琉球映画芸術協会『観光映画 大琉球』
1963年1月ー比嘉春潮・霜多正次・新里恵二『沖縄』岩波新書□「ペリーの艦隊沖縄へ来る」
1963年2月ー富田祐行『沖縄 宮古・八重山群島』(ブルーガイドブックス44)実業之日本社
1968年12月ー『カラー旅14・沖縄』主婦と生活社(守礼門)
1968年9月 長谷川小太郎『沖縄 宮古島 石垣島』(ガイド・シリーズ20)日本交通公社/1970年5月 戸塚啓二『沖縄』日本旅行研究所
1970年2月 『新しい日本 九州③』国際情報社
1970年7月ー『日本歴史大辞典』第五巻□比嘉春潮「守礼門ー首里城正門の歓会門外に建てられた中国の牌楼に似て、しかも、独得な様式の門である。楣間に『守礼之邦』の額が掲げられている。16世紀、尚清王の時の建造で最初は『首里』の額を掲げたが、1579(天正7)年尚永冊封の詔に『惟爾琉球国、遠処海浜、恪遵声教、世修職貢、足称守礼之邦』とあったので、この句をとって『守礼之邦』に代えた。首里と守礼とは琉球語で同音であるからでもあったろう。しかし冊封使渡来のときは『首里』を掲げる例であったが、1663年(尚質王時代)以後は常時用いることになった。この守礼門は1933(昭和8)年国宝に指定されたが、太平洋戦争で崩壊した」
10月ー石野朝季『カラー沖縄・南西の島々』山と渓谷社(守礼門)
12月ー『沖縄の旅』月刊沖縄社(守礼門)
1972年4月ー『週刊読売』「沖縄・いま還る美しき南国」(守礼門)/5月ー『週刊朝日』(表紙下・守礼門)
5月15日ー『朝日新聞』サトウサンペイ「フジ三太郎ー失礼之門」
1972年7月ー『月刊空手道』空手時報社(金城裕)
1974年 津野創一『沖縄』(yammini22)山と渓谷社
1978年ー石野朝季『アルパインガイド16・沖縄と南西諸島』(守礼門)/『ブルーガイドブックス沖縄』実業之日本社(守礼門)
1981年5月ー『南風吹く島へ沖縄|旅の時間』凱風社(守礼門)
1982年9月ー『交通公社のポケットガイド35・沖縄』(守礼門)
1992年 『マップちゃんの沖縄』日地出版(守礼門)
1992年10月ーまんが新里堅進、アシスタント大城美千穂、監修・又吉眞三『まんが首里城ものがたり(上)』琉球新報社
1995年4月ー沖縄県歴史教育者協議会『平和のためのガイドブック沖縄』(守礼門)
1989年3月 儀間比呂志『新版画風土記 沖縄』海風社/2000年1月1日『琉球新報』「守礼門 倒壊寸前 時を経て・・・今夏お札に」
1951年1月『来布五十年記念ー布哇沖縄県人写真帳』(表紙・守礼門)
1951年11月12日『沖縄タイムス』石野径一郎「守禮の國」(金城安太郎の守礼門の絵)
1957年12月『今日の琉球』(表紙・山田真山「狛犬」)
1958年3月、『今日の琉球』(表紙・大嶺政寛「風景」)/10月6日『琉球新報』『総仕上げ急ぐ守礼門ー四百年前の姿を再現/楼門に彩色をする琉大生」/10月16日『琉球新報』「きのう盛大に落成式!感激に涙する老婆も」(琉大生の一人が宮城篤正沖縄県立芸術大学学長)。
12月15日『琉球新報』伊波南哲「十字架の下に」(カット守礼門)/12月17日『琉球新報』「年末回顧(文化)琉球のシンボル”守礼門"復元なる」
1959年1月、『オキナワグラフ』「沖縄の彩色ー復元成った守礼門」/7月、『オキナワグラフ』「賑わった日活まつり」(守礼門と宜保俊夫琉映専務、葉山良二ら)
1960年3月、『オキナワグラフ』「島にきたマーコ(中村万寿子)と守礼門」/5月、『今日の琉球』(表紙・津山彬「守礼門」)/10月、『今日の琉球』(表紙・柳光観「獅子舞」)
1961年1月、『守礼の光』(表紙「守礼門」)/11月、『今日の琉球』(表紙・名渡山愛順「守礼門、正殿」)/12月、『守礼の光』(目次カット「」守礼門)
1962年3月、『オキナワグラフ』「東宝映画『旅愁の都』(旅愁の都(1962) - goo 映画
)ロケ隊(浜美枝、星由里子ら)と守礼門」/8月、『オキナワグラフ』「ようこそ森永観光団」(守礼門の前で)/6月、『今日の琉球』(表紙・久場とよ「獅子」)
1963年2月、『守礼の光』「琉球の文化財ー守礼門」
1964年10月、『守礼の光』「ナンシーさんの墨絵修行」(金城安太郎)
1965年1月、『今日の琉球』(表紙写真・守礼門と琉装の女性)/9月、『守礼の光』「琉球文化財はかく保護されたー守礼門」
1967年1月、『守礼の光』(表紙・守礼門)/5月,『守礼の光』川平朝申「琉球の結核予防対策」(予防シール守礼門)/7月、『今日の琉球』(表紙・紅型模様の守礼門)
1968年1月、『守礼の光』川平朝清「全住民に奉仕する沖縄放送協会」
1970年、愛知電機工作所・愛知金属工業さんご会『さんご』1号(表紙絵に守礼門)
1972年5月、『守礼の光』「沖縄返還特別号」(表紙・守礼門)「琉球政府立博物館ー1966年当時のポール・W・キャラウェー高等弁務官の個人的関心と援助で設立された琉球政府立博物館がなかったとしたら、これらの多くは失われたかあるいは忘れ去られてしまったであろう。この美しい時代建築(博物館)は、那覇市の我那覇昇氏の設計、キャラウェー高等弁務官がこのためわざわざ招いた米国内務省の博物館設計の専門家による技術援助で建てられた」
1972年5月、山口組機関誌『山口組時報』第4号(小田秀臣編集長/織田譲二)発行、表紙は守礼門と組旗、山口組系東亜友愛事業組合沖縄支部長の宜保俊夫の「沖縄の地より」が載っている。
1976年8月『オキナワグラフ』「守礼門(写真)ー知事さんの名前は知らなくてもこの門の名は知っている」/12月『オキナワグラフ』「守礼の門(写真)現代でも沖縄を象徴する代表的な門として有名」
1980年1月、千葉修『守礼門』(歌集)短歌新聞社
1993年3月『りゅうぎん』№311 松崎洋作「守礼門」
2005年3月ー『まっぷるぽけっと沖縄』昭文社(守礼門)
2006年4月ー『タビリエ沖縄』JTBパブリッシング(守礼門)/7月ー『てくてく歩き15・「沖縄」』実業之日本社(守礼門)
2008年6月ー『大人の街歩き16・沖縄』成美堂出版(守礼門)
2009年9月25日、第45回琉球新報賞祝賀会場で。左から湖城英知氏(2千円札流通促進委員会委員長、第43回琉球新報賞)、新城栄徳、由井晶子さん(東京の沖縄学巨人たちの秘書的存在。新聞記者、今でも健筆をふるう)、比嘉梨香さん(沖縄県教育委員会委員長)
2009年12月28日『日本経済新聞』湖城英知「二千円『平和』に値打ちー二千円札も、来年で10年を迎える。私の運動も10年になる。決して遊び半分でやってきたわけではない。10年運動してダメなら、もうやめようかとも思う。政府に直訴してみようかとも考えている。あるかないかわからないような状況のままなら、二千円札自体やめてしまった方がいい。来年はそのくらいの覚悟で、節目の年の普及活動に取り組むつもりだ」
□先週の初め、渡口万年筆の渡口彦邦氏を訪ねると湖城夫人が「2千円札大使認定証」を用意していることを話された。昨年、ジュンク堂の前で渡口氏と湖城英知氏が「2千円札大使認定証」宣伝のテレビ撮影をしていた。そこへ私は偶々通りかかったので湖城氏から認定証1枚もらった。後日、沖縄コレクター友の会メンバーにも配るため湖城宅に伺い夫人に入手依頼したものであった。早速に前島の湖城宅に御じゃますると湖城氏も居られて会話する。その折に湖城氏が2009年12月28日の日本経済新聞に書かれた「二千円札『平和』に値打ちー沖縄のシンボル守礼門描く、流通促進へ活動9年」を頂いた。
□2010年2月9日、那覇市歴史博物館で外間さんに、県や市の観光課などに守礼門がデザインされているポスターがないかと聞く。なるみ堂(翁長良明携帯090-3793-8179)に行くとコカコーラ缶に守礼門が描かれているのがあった。また、なるみ堂では戦前の懐かしい沖縄絵葉書をパネルにして販売を始めているが、絵葉書には守礼門もある。泡盛、オリオンビールなどはどうであろうか。沖縄文化の杜で美術館目録を見ると守礼門の絵が一点あった。美術館の出口で儀間比呂志さんに出会った。儀間さんも絵本や版画、油絵などで多く守礼門を描いておられる。
2010年7月3日ー『沖縄タイムス』「2千円札 県外は休眠ー発行中止、日銀に在庫、県内は流通増加」/『琉球新報』「2千円札発行10年 9億枚の札どこに、大半がお蔵入り」 NHK昼のニュースの守礼門展に眞喜志康徳氏が写っていた。夕方のOTBのニュースでも守礼門の会場風景。
7月4日ー『琉球新報』「社説ー沖縄PRする紙幣の普及をー2千円札の流通拡大は(日本)政府の責務でもあるはずだ」
7月6日ー『沖縄タイムス』「守礼之門歩み紹介ー2000円札発行10周年企画」
7月9日ー『琉球新報』広告特集「2千円札10歳慣れ親しみ広めよう」(普及企画として那覇市歴史博物館の守礼門展紹介)
2016年10月26日 国際通り「世界のウチナーンチュ大会前夜祭パレード」
2020年1月24日 NHK「沖縄の歌と踊り」山田實さんの守礼門や首里城正殿の写真、守礼門前での池宮喜輝、屋嘉宗勝、幸地亀千代の三線演奏、乙女椿のバックの首里城正殿は新城喜一氏が描いたもの。知名定男の次男の定人は息子と同年。
首里城公園サイト (http://oki-park.jp/shurijo-park/index.html)