03/16: 1915年1月 『沖縄教育』100号 源河朝達「手工教授に就きて」
祖父(源河朝達)は、私の父の父である。1880年【明治13年】生まれです。生きていたら135歳になります。1970年(昭和45年)に90歳で天寿を全うした。私が22歳の時だった。(略)祖父はよくアメリカ世が良いと言っていました。戦前の沖縄、東京での留学生活、東京の小学校で教えたみたいです。はっきりはわかりません。戦後のアメリカ統治時代(25年間)を経験しています。その祖父がアメリカ世が良いと言うのです。祖父は、背が高く、アメリカ人に間違えられたこともありました。穏やかな性格で怒ったことを見たことがありません。祖父の日記が残されています。私が管理しています→腹話術人形けんちゃんの日記(源河光男)
「源河朝達 履歴書」(作成・新垣基)
1903年4月23日 師範学校証書授与式 源河朝達
1903年4月25日 小学校訓導の新任 源河朝達
1903年5月1日 六週間現役兵合格者姓名 源河朝達
(新垣基 提供)
1908年9月13日『琉球新報』
明治41年(1908年)沖縄師範学校にて 前列1番右が源河朝達、2列目右から5番目が山口辰吉 『空手発祥の地 沖縄』(2017年)より(新垣基 提供)
大正7年(1918)沖縄師範学校附属小学校 前列右から4人目が西銘生楽、その左隣が源河朝達 『沖縄県師範学校附属小学校創立百年の記念誌』(1982年)
(新垣基 提供)
1910年 沖縄県師範学校 右端、髭の人物は空手家・安里安恒とされた三宅先生、そこから左へ本田先生、源河朝達先生。前列左から3人目が山口瑞雨先生/1918年
1912年2月ー太平洋画会の吉田博、石川寅治、中川八郎と丹青協会会員/2列目真ん中の柱、右へ、山口瑞雨、源河朝
関連ー1990年5月19日『琉球新報』「近代沖縄の美術家一堂に 東京の島袋和幸氏 浦添美術館に写真寄贈」
1937年9月『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社/1929年3月『大典記念 沖縄人事興信録』、1916年11月『沖縄県人事録』
1933年7月『沖縄縣人物風景寫眞帖』/1935年10月『沖縄縣人物風景寫眞大観』「沖縄縣立工業学校 校長・源河朝達」
1915年1月 『沖縄教育』100号 源河朝達「手工教授に就きて」
1931年6月『沖縄県師範学校創立五十周年記念誌』源河朝達(沖縄県立工業)「思出のまにまに」
1935年8月 『沖縄教育』228号 源河朝達「実業学校協会第1回研究発表ー開会の辞」
1937年10月 『沖縄教育』254号 源河朝達「創立三十五周年を迎へて」「座談会 工業教育の過去と将来を語る」
「雜 報 - J-Stage」耐風瓦の發明 颱風の本場沖繩縣では豫て同縣立 工業學校校長源河朝達氏の研究に 多大の期待をかけ てゐたが, 此程頑丈な 耐風瓦を發明 した, それによ ると沖繩産の瓦を改良 して セメン トで製造 したもの で, その兩側に 小 さい穴を開けて屋根を葺 く時, 針 金でしつか りと結びつけ その上に漆喰を塗 るのであ るが, これは遉がの颱風, 颶風 も絶對に 破損 しないと自信滿 々たるもので目下盛んに製造中である。日刊工業 (昭9. 10. 7)
腹話術人形けんちゃんの日記(源河光男)祖父は〔鉄の扉〕という琉歌集を2冊自費出版しています。その中の一部を紹介します。
1 朝夕水かけて 育てたる梅や よその鶯のとまて鳴ちゅさ
2 恋の無いん世界に生ちかより馬に 蹴られてやい死ぬせましやあらに
3 七八十までや若者のくばい 九十の年からや天下御免
4 いかなる丸徳の味の素やても 恋の味まかす味や無いさめ
5 若者の恋や空はづみやすが 老人の恋や禅味豊たか 注:空はカラと読んで下さい。
6 恋のある間や恋共に遊で 恋の無いんならはあの世いもれ
7 除夜の鐘ともに百八の煩悩 はらて元旦や朝日拝ま
8 先生がやゆら教え子がやゆら 互いにはげちぶる かたるをかしや
9 人殺す機械作る銭使て 世間御万人の福祉はかれ 注:銭(ジン)
10 朝夕我願や百才まで恋路 遂げて安々とあの世行ちゆし
11 若者の恋や空はづみやすが 老人の恋や禅味豊たか 注:空はカラと読んで下さ
12 銭の無いん里やバス乗やい遊べ 僅か3仙美人揃い
13 友人に先立たれ道迷て居すが 後生に行く道や知らに童
「源河朝達 履歴書」(作成・新垣基)
1903年4月23日 師範学校証書授与式 源河朝達
1903年4月25日 小学校訓導の新任 源河朝達
1903年5月1日 六週間現役兵合格者姓名 源河朝達
(新垣基 提供)
1908年9月13日『琉球新報』
明治41年(1908年)沖縄師範学校にて 前列1番右が源河朝達、2列目右から5番目が山口辰吉 『空手発祥の地 沖縄』(2017年)より(新垣基 提供)
大正7年(1918)沖縄師範学校附属小学校 前列右から4人目が西銘生楽、その左隣が源河朝達 『沖縄県師範学校附属小学校創立百年の記念誌』(1982年)
(新垣基 提供)
1910年 沖縄県師範学校 右端、髭の人物は空手家・安里安恒とされた三宅先生、そこから左へ本田先生、源河朝達先生。前列左から3人目が山口瑞雨先生/1918年
1912年2月ー太平洋画会の吉田博、石川寅治、中川八郎と丹青協会会員/2列目真ん中の柱、右へ、山口瑞雨、源河朝
関連ー1990年5月19日『琉球新報』「近代沖縄の美術家一堂に 東京の島袋和幸氏 浦添美術館に写真寄贈」
1937年9月『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社/1929年3月『大典記念 沖縄人事興信録』、1916年11月『沖縄県人事録』
1933年7月『沖縄縣人物風景寫眞帖』/1935年10月『沖縄縣人物風景寫眞大観』「沖縄縣立工業学校 校長・源河朝達」
1915年1月 『沖縄教育』100号 源河朝達「手工教授に就きて」
1931年6月『沖縄県師範学校創立五十周年記念誌』源河朝達(沖縄県立工業)「思出のまにまに」
1935年8月 『沖縄教育』228号 源河朝達「実業学校協会第1回研究発表ー開会の辞」
1937年10月 『沖縄教育』254号 源河朝達「創立三十五周年を迎へて」「座談会 工業教育の過去と将来を語る」
「雜 報 - J-Stage」耐風瓦の發明 颱風の本場沖繩縣では豫て同縣立 工業學校校長源河朝達氏の研究に 多大の期待をかけ てゐたが, 此程頑丈な 耐風瓦を發明 した, それによ ると沖繩産の瓦を改良 して セメン トで製造 したもの で, その兩側に 小 さい穴を開けて屋根を葺 く時, 針 金でしつか りと結びつけ その上に漆喰を塗 るのであ るが, これは遉がの颱風, 颶風 も絶對に 破損 しないと自信滿 々たるもので目下盛んに製造中である。日刊工業 (昭9. 10. 7)
腹話術人形けんちゃんの日記(源河光男)祖父は〔鉄の扉〕という琉歌集を2冊自費出版しています。その中の一部を紹介します。
1 朝夕水かけて 育てたる梅や よその鶯のとまて鳴ちゅさ
2 恋の無いん世界に生ちかより馬に 蹴られてやい死ぬせましやあらに
3 七八十までや若者のくばい 九十の年からや天下御免
4 いかなる丸徳の味の素やても 恋の味まかす味や無いさめ
5 若者の恋や空はづみやすが 老人の恋や禅味豊たか 注:空はカラと読んで下さい。
6 恋のある間や恋共に遊で 恋の無いんならはあの世いもれ
7 除夜の鐘ともに百八の煩悩 はらて元旦や朝日拝ま
8 先生がやゆら教え子がやゆら 互いにはげちぶる かたるをかしや
9 人殺す機械作る銭使て 世間御万人の福祉はかれ 注:銭(ジン)
10 朝夕我願や百才まで恋路 遂げて安々とあの世行ちゆし
11 若者の恋や空はづみやすが 老人の恋や禅味豊たか 注:空はカラと読んで下さ
12 銭の無いん里やバス乗やい遊べ 僅か3仙美人揃い
13 友人に先立たれ道迷て居すが 後生に行く道や知らに童