2020年4月1日 南方熊楠顕彰会『熊楠ワークス』№55 「第30回南方熊楠賞決定 北原糸子氏(立命館大学歴史都市防災研究所客員研究員)」/「[追悼]飯倉照平先生」

 南方熊楠顕彰館 7月25日 ー南方熊楠顕彰会の前副会長(2011年4月~2015年3月)で、南方熊楠特別賞(第14回時)を受賞された飯倉照平先生が2019年7月24日に逝去されました。飯倉先生は、第1回南方熊楠特別賞受賞者の長谷川興蔵先生とともに、平凡社刊『南方熊楠全集』の刊行に携わられるとともに、『南方熊楠-森羅万象を見つめた少年』などの著書をもって、熊楠翁の業績や人となりを広く世に紹介されました。また、南方熊楠資料研究会の会長として、翁の残した膨大な資料の調査を通して「南方熊楠の基礎的研究」を進められ、『熊楠研究』の編集や『南方熊楠邸蔵書目録』『南方熊楠邸資料目録』の刊行等にもご尽力いただきました。ここに改めて、飯倉照平先生のご功績、並びに南方熊楠顕彰事業へのご尽力に対し敬意と感謝を申し上げますとともに、南方熊楠特別賞ご受賞時の選考報告、コメントとお写真を紹介し、ご冥福をお祈り申し上げます。


平成17年7月 俳句誌『貝寄風』』(編集発行・中瀬喜陽)新城栄徳「琉球の風②」
4月、南方熊楠顕彰会から『南方熊楠邸資料目録』が贈られてきた。巻末の人名索引に私の名前が有る。驚くと同時に記憶が甦った。1984年の夏、麦門冬・末吉安恭書の軸物「松山うれしく登りつめ海を見たり」を背に担ぎ熊本城を経て、田辺の熊楠邸を訪ねた。折よく文枝さんが居られたので麦門冬の写真を仏壇に供えてくださいと差上げたものであるが、大事に保存され且つ目録にまで記されるとは夢にも考えなかった。飯倉照平先生に電話で伺うと、研究会では熊楠没後の写真なので収録することに悩んだという。と書いた。そして麦門冬の親友・山城正忠を紹介した。正忠は那覇若狭の漆器業の家に生まれた。若狭は漆器業が多い。麦門冬の手ほどきで琉球美術史研究に入った鎌倉芳太郎(人間国宝)は「思うに(福井県)若狭はその地勢、畿内に接して摂津と表裏し(略)、古来日本海における外国貿易の起点となっていたが、十五世紀の初頭以来南蛮船も着船し、この地の代官も書をもって朝鮮国と通交しており、小浜から出て東シナ海に向かい、琉球に新しく出来た那覇港に、貿易物資(漆器)生産のための若狭の居留地が造成された」(『沖縄文化の遺宝』)と推定している。

飯倉照平氏(南方熊楠顕彰館)/2013年10月 飯倉照平『南方熊楠の説話学』勉誠出版


 本書『南方熊楠の説話学』にも、「『南方熊楠全集』の校訂をおわって」と題して「平凡社の池田敏雄さんが、そのころまだ代々木駅の近くにあった中国の会の事務所へたずねて来てくれたのは、たしか1969年のはじめごろ{正しくは4月}であったと思う。乾元社版の『南方熊楠全集』に手を加えて出したいが、誤植も少なくないと思われるので目を通してほしいこと、さらに引用されている漢文を読み下し文に直し、全体の表記も読みやすくしたいので手伝ってもらえないか、というのが用件であった。戦争中に『民俗台湾』という雑誌の編集をしていた池田さんから、わたしは中国の昔話や民俗学の本を借りたことがある。また、わたしが以前によその出版社で校正の仕事をしていたことも、依頼されたきっかけの一つになっていたかもしれない。」と「『南方熊楠全集』の校訂に携わるきっかけを書かれておられる。

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 2012年10月『熊楠WORKS』№40に飯倉照平さんが「『漫画』好きの伊東忠太」を記され中に「筆者は、平凡社の『南方熊楠』全集の校訂にたずさわる前に、前後10年近く歴史の復習を旨とする雑誌『中国』の編集を手伝っていた時期がある。」と、かつて私も愛読していた『中国』との関わりについてもふれておられる。同号には考古学者・森浩一氏の第22回南方熊楠賞授賞式も載っていた。


 飯倉照平氏は千葉県山武郡大網白里町に住んでおられる。氏の著の書評を2回、沖縄の新聞に書いた。2006年11月25日『沖縄タイムス』新城栄徳(書評)飯倉照平『南方熊楠ー梟のごとく黙座しおる』ミネルヴァ書房ー本書で著者が意を用いたのは、伝説化された熊楠をできるだけ排除するということである。しかし私は本書で新たな熊楠伝説を作りたい。それは麦門冬・末吉安恭と熊楠との交流である。著者は1993年から南方熊楠邸保存顕彰会の南方邸資料調査に参加。まもなく『南方熊楠ー森羅万象を見つめた少年』(岩波ジュニア新書)を書く。昨年春、13年にわたる共同作業を終え、その成果として2冊の目録を刊行し、本書がミネルヴァ日本評伝選の1冊となった。
 さて、南方熊楠、幼少のみぎりはじめて父に買ってもらったのは中村惕斎が編集した『訓蒙図彙』で江戸期の動植物の絵入り百科事典だという。熊楠はくりかえし読みすべての項目の名前と読み方をおぼえた。中学に入学する前後はさらに絵入りの百科事典『和漢三才図会』を天象類、異国人物、外夷人物の項目名をすべて書き写し、『本草綱目』『大和本草』も書き写した。熊楠は1886年12月、横浜出航の船でアメリカ留学に向かう。アメリカでは回覧新聞を発行したり、植物採集に没頭。92年、ロンドン大英博物館では洋書、中国書の希覯書から旅行記、地誌、性愛などを抜き書きしたという。
 本書に熊楠の異色の文通相手として紹介されているのが麦門冬・末吉安恭である。『日本及日本人』誌上に熊楠が登場しているのを知り、麦門冬は1917年に「劫の虫より経水」という短文で熊楠の文章に言及した。熊楠はこれを読んで「月経に関する旧説(末吉君に答う)」を雑誌に書いたが、長文で掲載されなかった。これを機に2人の文通がはじまる。
文通そのものは短期間であった。だが1919年、『日本及日本人』誌上で、麦門冬が「版摺職工のストライキ」を書けば熊楠が次号で「ストライキ」を麦門冬が立証したと書く。20年には、熊楠の「大本という神号」、麦門冬の「薩人の虐殺」と文章が並んでいる。誌上での熱っぽい丁丁発止の交流は、麦門冬が亡くなるまで続いていた。11月25日は麦門冬の命日「莫夢忌」であり、没後82年を数える。




中国の会『中國』徳間書店 
 2013年4月、神里塾に遊びに行くと、押し入れから本を出して掃除をしていた。懐かしい『中国』が数十冊あった。1970年4月号の虎言孤語に飯倉照平氏が「会社勤めのかたわら小型版『中国』の編集を3年ほど手伝い、そのあと神戸に2年”留学”してから、ふたたび拡大された『中国』にもどって2年。この2年の私的な帳尻をあわせるために、しばらく”出かせぎ”をせざるを得なくなった。さいわい、実務担当者の一新と若返りは、この小さな帆船に、必要にして十分な緊張をつくりだしてくれそうだ。大いに期待している。」と書かれている。1970年6月号の「ふたつの星<雲南タイ族民話>」は飯倉氏の訳である。
□『中国』が徳間書店発行なので、飯倉氏にメールで徳間社長とは会ったことがありますか、とお尋ねしたら「徳間の社長だった康快氏とは、会合の席でお会いしたことはありますが、個人的な話をしたことはありません。なかなか面白い方で、竹内好さんとは肝胆相照らすところがあったようですね。」
飯倉 照平(いいくら しょうへい、1934年3月28日 - )は、中国文学者。南方熊楠研究で著名、東京都立大学名誉教授。
千葉県生まれ。東京都立大学中国文学科卒業。出版社勤務、神戸大学文学部講師、東京都立大助教授・教授、1998年定年退官。『南方熊楠全集』、『同選集』(平凡社)の校訂、中国民話の会世話人、南方熊楠邸保存顕彰会で資料整理・刊行に当たっている。2004年に南方熊楠賞特別賞受賞。(ウィキペディア)