1971年11月 『青い海』8号 国吉多美子「かげろうのつぶやき」


1978年1月 雑誌『青い海』70号 国吉多美子「世界の若者たち(上)フィリピンー裏町人生」/71号「世界の若者たち(中)”沖縄的〟人なつっこさ インドネシア アフリカ」/73号 「世界の若者たち(下)友をつくるは 良きことなり」

 国吉多美子 2020-5-10 私が又吉栄喜さんに初めてお目にかかったのは、1980年「ギンネム屋敷」で第4回すばる文学賞の授賞式の会場ででした。当時琉球新報の東京支社長だった嶋袋浩さんに誘われて、初めて授賞式の会場なるものに出席しました。又吉栄喜さんは当時33歳独身で、ご両親とお兄様と出席していました。あれから39年目、私は又吉栄喜さんに再会することになりました。というのは余りに膨大に溜まった写真の断捨離を始めた時、あの39年前のすばる賞授賞式の写真が出てきました。浦添市議会議員に連絡を取っていただき、浦添図書館内の又吉栄喜文庫でお会いすることになり、2枚の写真を渡すことができました。初めて目にする写真ということで、とても喜んでいらっしゃいました。

1枚目左端の写真はご両親と私。2枚目真ん中の写真は、お祝いに駆けつけた作家島尾敏雄と又吉栄喜。3枚目は又吉栄喜文庫で記念写真をパチリ。


2019年7月19日 松田米雄(ゆい出版)さんは高嶺朝一さん、国吉多美子さんと一緒です。

 2020-4-25 辺見庸さんは1991年「自動起床装置」で第105回芥川賞受賞。私が辺見庸さんの存在を強く意識し始めたのは1994年から新聞に連載された「もの食う人々」(後に1冊の本に纏められる)を読み始めた時からです。社会の最底辺に喘ぐ人たちにスポットをあてた極限の「生」における「食」を扱ったルポルタージュです。その着眼と内容の凄さに目から鱗でした。その後、中原中也賞、高見順賞、城山三郎賞と留まるところを知らず大活躍。ある日20年以上も前でしょうか。友人の噂の真相編集長の岡留安則さん、共同通信の青木理さん(現フリージャーナリスト)と3人で共通の友人が経営するゴールデン街の飲み屋に行くと偶然にも常連の辺見庸さんがふざけてバーのカウンターの中にいらっしゃる。尊敬する大先輩の姿に興奮した青木さんすかさず記念撮影。私も記念に一枚とっていただきました。幸せな瞬間でした。


 国吉多美子 写真はコリアレポートの辺真一さんとインサイダー英語版担当の歳川隆雄さん、
 国吉多美子 小浜清志さんは沖縄が生んだ小説家です。1950年生まれの小浜清志さんは八重山諸島にある小島、由布島出身で高校卒業と同時に劇団四季に入団、照明係などを担当。また、1975年の沖縄国際海洋博覧会などでは舞台裏方なども勤めました。私が小浜さんに出会ったのは1990年頃だったでしょうか。私も所属していた、沖縄エッセイストクラブの友人の紹介でした。以来、小説家志望の若者たちを引き連れて、大塚の私が住むマンションに集まり、よく文学論などを語り合ったものです。
 私が知り合った頃には小浜さんは既に、作家中上健次と知り合い、彼の指事を仰ぎ、文学修行に励んでいたころで、また、中上健次のマネージャーもしていました。私は小浜さんと一度中上健次に会ったことがあります。1991年の芥川賞発表の日、二人して中上健次の新宿のマンションの事務所で取り寄せたお寿司を食べながら発表を待っていました。受賞者は彼らの意図していた人でなかった。「飲むぞ」と私たちは新宿の沖縄居酒屋に向かった。一回きりの中上健次の思い出。ところで、小浜さんは1988年、「風の河」で第66回文学新人賞、1992年「消える島」で第108回芥川賞候補、1994年「五生橋」第111回芥川賞候補になりました「月刊すばる」や「文学界」にも多くの小説を掲載しています。中上健次にもっとも近かった人として、昨年はロングインタビューの記事が文学雑誌に掲載されました。
□中上健次「紀伊半島で私が視たのは、差別、被差別の豊かさだった。言ってみれば『美しい日本』の奥に入り込み、その日本の意味を考え、美しいという意味を考える事でもあった。ここにたとえば、『美しい朝鮮』という命題を入れてみよう。差異とは、朝鮮と日本の間にある。この夏、車で走り廻りながらカーステレオで私はカリブの音楽を聞き、朝鮮語のカセットテープを思いつくままかけていた。言葉は私には理解不能だった。意味のわからぬ言葉を耳にしながら、私はその走っている風景が朝鮮の風景だと思い込もうとし、歩く人らが半島なのかを知ろうと思ったのだった。つまり言葉を変えてみれば、紀伊半島を汎アジアの眼でとらえてみるということである。土地土地を経巡る私に、紀伊半島がまぎれもなく日本の紀伊半島であるのは、<熊野の荒らぶる神>のような被差別部落があるからだ、と映った。ここは輝くほど明るい闇の国家である。」
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 1985年、ベトナム戦争終戦後10年目、ピースボートでベトナムへ。船上にて、筑紫哲也さんと。あの頃はビザを取るのも大変だったし、ホーチミン市街は物が全然なかったし、子供のスリが多かった。ヒースボートの仲間もかなりやられた。私もそのひとり。警察にとどけたら、私たちの周りを警察官が護衛してくれました。
私の被害額は20ドルでした。スリの子供たちを恨む気にはなれませんでした。逆に子供たちのしたたかな生命力に、ベトナムの未来に希望を感じました。
 ピースボートで1985年、ベトナムへ。真ん中の赤いドレス姿が、辻本清美さん、右端が私です。
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国吉多美子 1980年代東京で開催された「ロバートキャパ展」にて、真ん中の紳士がキャパの弟コーネルキャパ、左側は琉球新報東京支社長の嶋袋浩氏。
  国吉多美子2020-5-14 『噂の真相』。発行人兼編集長は岡留安則。反権力反権威スキャンダリズムを標榜していた「噂の真相」は、1979年3月から2004年4月まで刊行されました。私が岡留さんを知ったのは1980年だったと思います。琉球新報の東京支社長だった嶋袋浩さんや一坪反戦地主(当時は電電公社に勤めていた)上原成信さんに、ゴールデン街の中村いく子さん(弘前大学卒)が経営する飲み屋「ふらて」に連れて行かれたのがきっかけです。当時の「ふらて」には30代の若きジャーナリストでむせ返っていました。インサイダーの高野孟さん、コリアレポートの辺真一さん、日刊ゲンダイの二木啓孝さん、文化放送の緒方修さん、NHKの大貫康夫さんに手嶋龍一さん、報道カメラマン山本晧一さん、写真家アラーキー、菅直人やテレビタレント時代の蓮舫などなど、数え上げたらきりがありません。まさに、青春の坩堝でした。
 岡留さんは鹿児島出身、私は沖縄。心のどこかで気にしていたのか、「噂の真相」を毎月送ってくれました。「噂の真相」休刊と同時に沖縄に居を移した岡留さん、「別館瓦屋」という居酒屋を開き、多くのジャーナリストの情報収集源として愛されていました。誰が想像しただろうか、岡留さんは病に倒れ、2019年1月31日、静かに旅立たれました。享年71歳。とてもとても、残念で仕方ありません。お別れの言葉も「ありがとう」の一言も言えなかったことが。

写真左側は中村いく子さんと。右側の写真は音楽家の上地昇さん、起業家の齋藤渉さん、元沖縄タイムスの川満信一さん、ジュンク堂書店の森本浩平さん、岡留さんをを偲ぶ会での写真です。



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2022-10-30  第7回世界のウチナーンチュ大会で、右が関東沖縄経営者協会名誉顧問・重田辰弥さん、新城栄徳/左が関東沖縄経営者協会会長・新垣進さん、新城栄徳

1996年9月 『新沖縄文学』85号 重田辰弥「疾走した寵児・粟国安彦」

2009年9月25日、第45回琉球新報賞祝賀会場で。左から湖城英知氏(2千円札流通促進委員会委員長、第43回琉球新報賞)、新城栄徳、由井晶子さん(東京の沖縄学巨人たちの秘書的存在)、比嘉梨香さん(沖縄県教育委員会委員長)/由井晶子さん、重田辰弥氏

 重田辰弥”朝吼夕嘆・晴走雨読”2020-4-27 全国初の女性編集長を『沖縄タイムス』で務めれた由井晶子先輩が介護ホームに入居されていることはお聞きしていましたが、先日八六歳でのご逝去を聞き、衝撃を受けました。改めて衷心よりご哀悼申し上げます。由井さんは私より六歳の先輩ですが、私と同じく琉大を中退して早稲田に進んだという共通がありますが、それ以外に様々な縁があり、生前大変お世話になりました。私が那覇高校を卒業した時校長室に呼ばれ、特別賞?を頂きましたがその時の富原校長が由井さんのご尊父だったのです。若くして物故された由井さんのご主人も同じ早稲田大学の先輩で学生運動家でした。由井さんが卒業後沖縄タイムの東京支社で記者を務められていた時、私がタイムス支社でアルバイトをし、「タイムスに受験したら!」と誘われ、後日「御免なさい!今年は東京採用無いみたい」と言われました。その年、私は琉球新報の記者として東京支社に入社し、内閣記者クラブで由井さんと会い、しばしばお会いしました。
 新報退職した私が一九九〇年、四九歳で夭折したオペラ演出家・粟国安彦君の東京・青山葬儀場で”沖縄代表として弔辞の述べ、これを取材・聞いた由井さんから、当時沖縄タイムスが発行していた『新沖縄文学』(85号)への記載を依頼され、追悼文「疾走した寵児・粟国安彦」を記載した思い出もあります。その後二〇〇八年、「早稲田大学琉球・沖縄研究所」(勝方恵子会長)主催のシンポジウム“オキナワからワセダへ”で由井さん、大城将保氏と三人で講演したことがあります。沖縄に帰省した際には度々お会いしましたが故・岡留安則さんを挟んで国吉多美子さん四人で朝方まで延々と談議したのも忘れられません。生前多彩な御活躍なさった早大先輩の由井晶子さん、安らかに!


 重田辰弥”朝吼夕嘆・晴走雨読”2020-3-16「先客万来」(14年前大城さんから取材を受け日刊工業紙に開催された記事です。)


重田辰弥”朝吼夕嘆・晴走雨読”2015-3-31 先に歌舞伎町で沖縄をアッピールした著名な沖縄居酒屋「ぶうげん」「北山」が閉店したことをお伝えしましたが、親子2代、67年に続いた歌舞伎町・沖縄シンボル「南風」が3月いっぱいで閉鎖しました。これらの3店には拙書「おきなわ就活塾」の販売等でも大変お世話になり、そのお礼を込め、先日元「北山」のママさんと「南風」に慰労ご挨拶に行きました。

 「南風」のママは大空まゆみ、仲宗根美樹さんと並びひと頃“沖縄出身・トリオ歌手女優”とレビューした嘉手納清美さん。この3人は、言わば沖縄出身の初代女優タレント。沖縄を売りながら実はこの3タレント、いずれも東京生まれで、沖縄居住経験のない言わば沖縄2世。知花くらら、仲間由紀恵、安室奈美恵、新垣結衣、国仲涼子、黒木メイサ等々沖縄生まれの現タレントとは明らかに出自、世代が異なる。 戦場は違うとは言え、経営の一線を退いた私の世代との共感、郷愁を感じました。清美さん!長きに亘り本当にお疲れ様!