グラビア・カメラでちょっと・ひとめぐり/オフセット・省線・私鉄・遠距離バス交通図
戦後の東京の風俗について・・・大宅壮一/戦後の東京の服装について・・・伊藤道郎/東京女と関西女について・・・山本嘉次郎/東京弁と関西弁について・・・野元菊雄/五十年前の思出ばなし
見物の東京 A・一般コース B・盛り場と裏通り・どん底の街・さんや デッドエンドの街・たかばし


 アメリカの東京基地・・・佐々宇賛丸/東京周辺のアメリカの軍事基地と工場早わかり
娯楽の東京ー映画館/スポーツ場/劇場・寄席/競輪・競馬場/ストリップ/ダンスホール
女の東京ーバーキャバレーと女給のチップ/温泉マークの内幕と活用法/待合と芸者あそび入門/赤線区域の泊り方ー花の吉原から田園調布迄のシマ案内/青線区域のさがし方ーパンパン遊び・処女でも啞でもお好み次第



1956年9月 『別冊知性・現代の裏窓ー日本のブラック・メモ』河出書房(河出孝雄)◇船越義英「沖縄ーこの踏みにじられたものー売られ行く島オキナーワ!極東唯一の原爆基地オキナーワ!」◇三木淳「東京の裏窓ー超望遠カメラで捉えた都会の素顔」◇ギャンブル報国精神万才!競輪、競馬、パチンコ、宝くじーなどとならべてくると、日本ほどバクチで明け暮れている国はちょっと世界に例がないような気になる。ことに競馬、競輪、宝くじなどというのが何れも堂々と官営、公営されているなど、どうしてもモナコとまではゆかなくとも、少なくとも日本全体が、かつての上海、香港なみな植民地都市にでもなったのではないかという気がしてくる。(原四郎)

 河出書房新社 1886年(明治19年)に河出靜一郎(1857年 - 1936年)によって岐阜の「成美堂書店」の東京支店として日本橋に設立されたのが始まりである。当時は教科書や学習参考書を中心に出版していたが、農学関係書の刊行が次第に増えていった。 1933年(昭和8年)に2代目(靜一郎の女婿)の河出孝雄(1901年 - 1965年)が河出書房に改称し、文芸書や思想書を中心に刊行するようになった。1944年(昭和19年)には改造社より文芸雑誌『文藝』を買い取った。1945年(昭和20年)の東京大空襲で被災し、千代田区神田小川町に移転する。 1950年(昭和25年)に刊行した笠信太郎『ものの見方について』がベストセラーとなる。
 1954年(昭和29年)に創業70周年記念企画として総合雑誌『現代生活』の創刊を公告するも、立ち上げの資金を編集スタッフに持ち逃げされた。『現代生活』は『知性』という名で創刊するが、これが遠因となって1957年(昭和32年)に経営破綻、新たに河出書房新社を創設し再建された。同年3月には女性週刊誌の先駆けである『週刊女性』を創刊していたが、倒産に伴い、4号で休刊。同年8月に同誌の編集・発行権を主婦と生活社へ譲渡した。 1965年(昭和40年)、河出孝雄が死去し、河出朋久(1938年 - )が3代目社長となる。1967年(昭和42年)に会社更生法を申請し再度倒産、再建され中島隆之が社長となる。1968年(昭和43年)12月、吉本隆明の『共同幻想論』を刊行する。 1977年(昭和52年)に品川区東大井から新宿区住吉町に移転し、清水勝が社長となる。2年後に千駄ヶ谷に移転し現在に至る。旧社は登記のみ残し休眠状態だったが、2000年(平成12年)から東大井で営業再開した。2007年(平成19年)、新社と業務提携、販売契約を締結した。 →ウィキ


1953年2月 宮本顕治『宮本百合子集』河出書房/1988年3月 澁澤龍彦『三島由紀夫おぼえがき』中公文庫

河出文庫(澁澤龍彦、稲垣足穂)・河出新書/神保町、本郷、早稲田の古本街はよく行ったが、そこは静のイメージがある。仕事場は新宿歌舞伎町。その周辺ではアンダーグラウンド(1960年代後半に起こった、商業性を無視した前衛的・実験的な芸術運動)や派手な極彩色を用いたデザイン「サイケ調」も流行っていたので、相まってシュールレアリスムとかダダの芸術の本を読んでいた。

2002年3月 澁澤龍彦『旅のモザイク』河出文庫/2012年6月 藤原新也『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』河出文庫

 私は1964年に錦糸町駅ビルの本屋で、サド裁判の被告で著名な澁澤龍彦の『夢の宇宙誌』を買った。その本で南方熊楠(末吉麦門冬)、稲垣足穂、日夏耿之介を知る。澁澤龍彦に会おうと思ったのは、テレビで千円雑誌『血と薔薇』発行が報じられたからである。5日後、鎌倉に澁澤を訪ねたのは1968年の10月9日であった。年配の女性がお茶を持ってきてくれたり応対してくれた。(同年、澁澤は夫人・矢川澄子と別れたばかりであったから母堂であろう。)そのうち2楷からトックリシャツ姿でパイプを持った澁澤が応接間の椅子に座り、甲高く透き通る声でいろいろ話をしてくれた。「京都に行く機会があれば稲垣足穂さんに是非会うといい。子どものような純粋な精神の持ち主だ」「沖縄出身の友人に彫刻家が居る」とか、発禁本の話もしてくれた。澁澤は1987年8月5日、59歳で亡くなった。

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1929年4月 『郷土雑誌 沖縄』 神山宗勲『悪魔』編集発行・座安盛徳/沖縄社鹿児島市上荒田1770のノ2

 新城栄徳 2020-4-15 私の敬愛する編集者に上間常道氏が居た。氏は大阪生まれの今帰仁2世。東京大学文学部卒。『現代の理論』編集部、その発売元の河出書房新社に無試験で入社。『ドストエーフスキー全集』『トルストイ全集』などを編集する。復帰を機に沖縄に移住。出版社などを経て沖縄タイムスに入る。沖縄タイムス発刊35周年記念で『沖縄大百科事典』(上中下の3巻別刊1巻、約17000項目を収録)の編集を担当、同社より83年5月刊行。06年より出版舎Mugenを主宰。私は河出書房の話は聞いたかもしれないが記憶にない。

新城栄徳と上間常道氏の共同作業『沖縄美術全集』「年表」/『沖縄近代文芸作品集』/『琉球弧の雑誌展』

社会主義の実験
 1920年ーボリショイ劇場前でのレーニン演説の写真、右にトロッキーとカーメネフが居る
 写真ー1938年、メキシコにてトロッキー、ブルトン
トロッキー○1917年のロシア十月革命における指導者の1人であり、ウラジーミル・レーニンに次ぐ中央委員会の一員であった。赤軍の創設者および指揮官として、ソビエト連邦の初期の頃には外務人民委員(外相)として外交問題を担当。ソ連共産党政治局員の1人でもあった。→ウィキ
カーメネフ○レーニンの死後、ジノヴィエフと組んで1925年秋から「新しい反対派」の指導者となる。第14回党大会では、スターリンの「一国社会主義」に反対し、共産党に「首領(ウォシチ)」はいらないと主張した。→ウィキ
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 アラビアのロンドンーいちおうロンドンについても触れておいたほうがいいかもしれない。前に法的権利擁護委員会のムハンマド・マスアリーがロンドンに逃げたという話を紹介した。なぜ彼らはロンドンに逃げるのか。実はロンドンというのはイスラーム原理主義の組織という点ではある意味、中東以上に重要な場所なのである。ロンドンには文字どおり数え切れないほどのイスラーム系組織が存在している。インド系、パキスタン系、バングラデシュ系といった旧インド帝国領のムスリムおよびそこからの移住者が中心だが、アラブ諸国からも多数の移住者、亡命者を受け入れている。とくに湾岸やエジプト、スーダンなどはかつての宗主国ということもあり、観光客を含め、膨大な人数をイギリスに送り込んでいる。そのためロンドンなどには、アラブ人街とでも呼べるような中東度のきわめて高い地域が出現してきている。
 そうしたところではアラブ料理屋、アラビア語の本屋が建ちならび、不動産屋でもアラビア語の案内が幅を利かす。イギリスではアラビア語の日刊紙だけで少なくとも5紙存在する。それだけアラブ人口が多いということであろう。問題なのはこうした連中がロンドンを中心に反政府活動を展開することであろう。もちろんここでいう反政府とは反イギリスではない。反サウジアラビアであり、反エジプトであり、反バハレーンの反政府活動なのである。幸か不幸かイギリスにおいてはそれぞれの本国ではけっして享受できない自由がある。彼らは欧米的な人権で守られながら、自由に情報を得、自由に情報を流すことができる。→」2011年 保坂修司『 新版 オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦』朝日選書


1967年12月 古川成美『沖縄の最後』河出書房(河出朋久)

1967年12月 古川成美『沖縄の最後』河出書房/1994年11月17日 古川成美氏
□沖縄戦に戦って、まったくふしぎな生命をえた私にとって、祖国の人びとになにをおいても告げねばならぬことが三つあった。第一は、私が身をもって体験した戦いの真相を本土の人びとに伝え、戦友の最後を遺族のかたがたに報告すること。第二は、本土の身代わりとなってくれた沖縄、10万の将兵がそこで戦った沖縄のことを本土の人びとに理解してもらうこと。第三に、アメリカ人に関することで、死屍にひとしい私を救出し、ていねいな処遇と治療を加えてくれた米国第七師団の兵士たちをはじめとして、私の接した米国人は、いずれも人間的で親切で、公正であり、私はその心の豊かさに頭がさがった。 

日本は兵器の面、物量の面で米軍に敗れただけでなく、心の豊かさの面でもひけをとったと、私はそのとき痛感した。アメリカ人に対する認識を改めるとともに、日本人の世界観、人生観には外から強いられた偏狭さのあることをともに反省せねばならぬと思った。この目的を果たすため、私は昭和22年旧版『沖縄の最後』を出版した。

戦いの直後で、用紙をはじめ、検閲の問題などすべて不自由な時期ではあったが、さいわいに遺族のかたがたをはじめ多くの共感をえて、この書物は輸出されて海外の同胞にまで読まれるに至った。またこの書物が機縁となって、昭和24年には、沖縄第32軍高級参謀、元大佐八原博通氏よりまことに貴重な1000枚におよぶ手記の提供を受け、これを根本資料として、沖縄戦全般について詳述した『死生の門』を出版した。

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1983年10月 梅田惠以子・神坂次郎・古川成美『各駅停車全国歴史散歩㉛和歌山県』河出書房新社(清水勝)