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神保町・お茶の水 神保町古書店街:日本一の古書店街として名高い神保町。靖国通りを駿河台下交差点から西へ向かうと、およそ130店もの古書店が建ち並び、中には美術、武道、洋書、料理、など一つのジャンルの本を専門に扱う店も。そんな神保町を代表する書店や、古書店をきっかけに発展していった喫茶店、カレー屋も併せてご紹介します。
駅から徒歩2分の場所にあるのが、創業大正7年の歴史を誇る「矢口書店」。ここは映画や演劇、戯曲、シナリオにまつわる古本を中心に扱う古書店です。棚に並ぶのは、古くからの名作や最近発表されたものまで、幅広い年代の作品を取り扱っています。中でも、人気の品は1950年代から1960年代の映画パンフレットなんだそう。

 
グラビア・カメラでちょっと・ひとめぐり/オフセット・省線・私鉄・遠距離バス交通図
戦後の東京の風俗について・・・大宅壮一/戦後の東京の服装について・・・伊藤道郎/東京女と関西女について・・・山本嘉次郎/東京弁と関西弁について・・・野元菊雄/五十年前の思出ばなし
見物の東京 A・一般コース B・盛り場と裏通り・どん底の街・さんや デッドエンドの街・たかばし


 アメリカの東京基地・・・佐々宇賛丸/東京周辺のアメリカの軍事基地と工場早わかり
娯楽の東京ー映画館/スポーツ場/劇場・寄席/競輪・競馬場/ストリップ/ダンスホール
女の東京ーバーキャバレーと女給のチップ/温泉マークの内幕と活用法/待合と芸者あそび入門/赤線区域の泊り方ー花の吉原から田園調布迄のシマ案内/青線区域のさがし方ーパンパン遊び・処女でも啞でもお好み次第



1956年9月 『別冊知性・現代の裏窓ー日本のブラック・メモ』河出書房(河出孝雄)◇船越義英「沖縄ーこの踏みにじられたものー売られ行く島オキナーワ!極東唯一の原爆基地オキナーワ!」◇三木淳「東京の裏窓ー超望遠カメラで捉えた都会の素顔」◇ギャンブル報国精神万才!競輪、競馬、パチンコ、宝くじーなどとならべてくると、日本ほどバクチで明け暮れている国はちょっと世界に例がないような気になる。ことに競馬、競輪、宝くじなどというのが何れも堂々と官営、公営されているなど、どうしてもモナコとまではゆかなくとも、少なくとも日本全体が、かつての上海、香港なみな植民地都市にでもなったのではないかという気がしてくる。(原四郎)

 河出書房新社 1886年(明治19年)に河出靜一郎(1857年 - 1936年)によって岐阜の「成美堂書店」の東京支店として日本橋に設立されたのが始まりである。当時は教科書や学習参考書を中心に出版していたが、農学関係書の刊行が次第に増えていった。 1933年(昭和8年)に2代目(靜一郎の女婿)の河出孝雄(1901年 - 1965年)が河出書房に改称し、文芸書や思想書を中心に刊行するようになった。1944年(昭和19年)には改造社より文芸雑誌『文藝』を買い取った。1945年(昭和20年)の東京大空襲で被災し、千代田区神田小川町に移転する。 1950年(昭和25年)に刊行した笠信太郎『ものの見方について』がベストセラーとなる。
 1954年(昭和29年)に創業70周年記念企画として総合雑誌『現代生活』の創刊を公告するも、立ち上げの資金を編集スタッフに持ち逃げされた。『現代生活』は『知性』という名で創刊するが、これが遠因となって1957年(昭和32年)に経営破綻、新たに河出書房新社を創設し再建された。同年3月には女性週刊誌の先駆けである『週刊女性』を創刊していたが、倒産に伴い、4号で休刊。同年8月に同誌の編集・発行権を主婦と生活社へ譲渡した。 1965年(昭和40年)、河出孝雄が死去し、河出朋久(1938年 - )が3代目社長となる。1967年(昭和42年)に会社更生法を申請し再度倒産、再建され中島隆之が社長となる。1968年(昭和43年)12月、吉本隆明の『共同幻想論』を刊行する。 1977年(昭和52年)に品川区東大井から新宿区住吉町に移転し、清水勝が社長となる。2年後に千駄ヶ谷に移転し現在に至る。旧社は登記のみ残し休眠状態だったが、2000年(平成12年)から東大井で営業再開した。2007年(平成19年)、新社と業務提携、販売契約を締結した。 →ウィキ


1953年2月 宮本顕治『宮本百合子集』河出書房/1988年3月 澁澤龍彦『三島由紀夫おぼえがき』中公文庫

河出文庫(澁澤龍彦、稲垣足穂)・河出新書/神保町、本郷、早稲田の古本街はよく行ったが、そこは静のイメージがある。仕事場は新宿歌舞伎町。その周辺ではアンダーグラウンド(1960年代後半に起こった、商業性を無視した前衛的・実験的な芸術運動)や派手な極彩色を用いたデザイン「サイケ調」も流行っていたので、相まってシュールレアリスムとかダダの芸術の本を読んでいた。

2002年3月 澁澤龍彦『旅のモザイク』河出文庫/2012年6月 藤原新也『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』河出文庫

 私は1964年に錦糸町駅ビルの本屋で、サド裁判の被告で著名な澁澤龍彦の『夢の宇宙誌』を買った。その本で南方熊楠(末吉麦門冬)、稲垣足穂、日夏耿之介を知る。澁澤龍彦に会おうと思ったのは、テレビで千円雑誌『血と薔薇』発行が報じられたからである。5日後、鎌倉に澁澤を訪ねたのは1968年の10月9日であった。年配の女性がお茶を持ってきてくれたり応対してくれた。(同年、澁澤は夫人・矢川澄子と別れたばかりであったから母堂であろう。)そのうち2楷からトックリシャツ姿でパイプを持った澁澤が応接間の椅子に座り、甲高く透き通る声でいろいろ話をしてくれた。「京都に行く機会があれば稲垣足穂さんに是非会うといい。子どものような純粋な精神の持ち主だ」「沖縄出身の友人に彫刻家が居る」とか、発禁本の話もしてくれた。澁澤は1987年8月5日、59歳で亡くなった。

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1929年4月 『郷土雑誌 沖縄』 神山宗勲『悪魔』編集発行・座安盛徳/沖縄社鹿児島市上荒田1770のノ2

 新城栄徳 2020-4-15 私の敬愛する編集者に上間常道氏が居た。氏は大阪生まれの今帰仁2世。東京大学文学部卒。『現代の理論』編集部、その発売元の河出書房新社に無試験で入社。『ドストエーフスキー全集』『トルストイ全集』などを編集する。復帰を機に沖縄に移住。出版社などを経て沖縄タイムスに入る。沖縄タイムス発刊35周年記念で『沖縄大百科事典』(上中下の3巻別刊1巻、約17000項目を収録)の編集を担当、同社より83年5月刊行。06年より出版舎Mugenを主宰。私は河出書房の話は聞いたかもしれないが記憶にない。

新城栄徳と上間常道氏の共同作業『沖縄美術全集』「年表」/『沖縄近代文芸作品集』/『琉球弧の雑誌展』

社会主義の実験
 1920年ーボリショイ劇場前でのレーニン演説の写真、右にトロッキーとカーメネフが居る
 写真ー1938年、メキシコにてトロッキー、ブルトン
トロッキー○1917年のロシア十月革命における指導者の1人であり、ウラジーミル・レーニンに次ぐ中央委員会の一員であった。赤軍の創設者および指揮官として、ソビエト連邦の初期の頃には外務人民委員(外相)として外交問題を担当。ソ連共産党政治局員の1人でもあった。→ウィキ
カーメネフ○レーニンの死後、ジノヴィエフと組んで1925年秋から「新しい反対派」の指導者となる。第14回党大会では、スターリンの「一国社会主義」に反対し、共産党に「首領(ウォシチ)」はいらないと主張した。→ウィキ
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 アラビアのロンドンーいちおうロンドンについても触れておいたほうがいいかもしれない。前に法的権利擁護委員会のムハンマド・マスアリーがロンドンに逃げたという話を紹介した。なぜ彼らはロンドンに逃げるのか。実はロンドンというのはイスラーム原理主義の組織という点ではある意味、中東以上に重要な場所なのである。ロンドンには文字どおり数え切れないほどのイスラーム系組織が存在している。インド系、パキスタン系、バングラデシュ系といった旧インド帝国領のムスリムおよびそこからの移住者が中心だが、アラブ諸国からも多数の移住者、亡命者を受け入れている。とくに湾岸やエジプト、スーダンなどはかつての宗主国ということもあり、観光客を含め、膨大な人数をイギリスに送り込んでいる。そのためロンドンなどには、アラブ人街とでも呼べるような中東度のきわめて高い地域が出現してきている。
 そうしたところではアラブ料理屋、アラビア語の本屋が建ちならび、不動産屋でもアラビア語の案内が幅を利かす。イギリスではアラビア語の日刊紙だけで少なくとも5紙存在する。それだけアラブ人口が多いということであろう。問題なのはこうした連中がロンドンを中心に反政府活動を展開することであろう。もちろんここでいう反政府とは反イギリスではない。反サウジアラビアであり、反エジプトであり、反バハレーンの反政府活動なのである。幸か不幸かイギリスにおいてはそれぞれの本国ではけっして享受できない自由がある。彼らは欧米的な人権で守られながら、自由に情報を得、自由に情報を流すことができる。→」2011年 保坂修司『 新版 オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦』朝日選書


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ニコライ堂(東京復活大聖堂)→裏辺研究所 日本の旅・鉄道見聞録

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一時在籍した錦城商業高等学校 千代田区神田錦町三丁目1番地1880年、福澤諭吉の高弟である矢野文雄(号・龍渓)が、旧慶應義塾旧医学校跡に創設した「三田予備校」を源流とする。1881年に三田英学校と改称し、英語教育を中心とした教育を始める。創立以来男子校であった。/隣に正則学園高等学校がある。1896年 - 正則英語学校として斎藤秀三郎が創設。正則英語学を教え、英語を活用できる人材養成を目的とし、午前・午後・夜間の部があった。正則学園高等学校。千代田区神田錦町3-1。

☆1916年 石川正通 一中退学、私立麻布中学校へ転校。3月29日、真玉橋朝起、武元朝朗、竹内弘道たちに見送られて沖縄丸で上京、甲板上で明大受験の城間恒昌、杉浦重剛校長の日本中学に転校する我部政達と3人で雑談に耽る。4月3日東京駅に着く。翌日、比屋根安定が大八車で荷物を一緒に運んでくれる。斎藤秀三郎校長の抜擢で正則英語学校講師となる。後に比嘉春潮(荻窪)、島袋盛敏(成城)、比屋根安定(青山学院構内)、仲吉良光(鶴見)、八幡一郎(東中野)、金城朝永(大塚)、石川正通(本郷)の7人で七星会結成する。

 1964年、神保町古書街で『宝石』(推理小説専門誌)を見たことがある。澁澤龍彦が「黒魔術の手帖」(1960~1961)を15回連載していた。澁澤がオカルティズムの初期の頃のエッセイ。悪魔学、サバト、黒ミサ、錬金術、タロットカードなど、西洋の黒魔術について紹介した書物。「青ひげ」のモデルといわれる幼児殺戮者ジル・ド・レエ侯について紙幅を多く割いている。『宝石』は古本屋の店先に積まれてあったからよく立ち読みしていた。単行本の『夢の宇宙誌』を錦糸町駅ビルで買ったのが澁澤との最初の遭遇である。『黒魔術の手帖』もすでに単行本で本屋に並んでいた。<読書傾向も澁澤本の手引きで南方熊楠(末吉麦門冬)、稲垣足穂、酒井潔、日夏耿之介へと続く。
◇『宝石』(ほうせき)は、日本の推理小説雑誌。1946年創刊、1964年まで発行された。出版社は、創刊時は岩谷書店、1956年からは独立した宝石社となった。この期間の日本の推理小説界を代表する雑誌。宝石社の倒産後、光文社が版権を買い取って、1965年10月に男性向け月刊総合雑誌として再刊し、1999年まで発行された。光文社は他にも『宝石』を冠する姉妹誌として、『週刊宝石』『小説宝石』『SF宝石』を刊行。この光文社版と区別して推理小説誌時代を旧『宝石』と呼ぶこともある。
  澁澤龍彦に会おうと思ったのは、テレビで千円雑誌『血と薔薇』発行が報じられたからである。5日後、鎌倉に澁澤を訪ねたのは1968年の10月9日であった。年配の女性がお茶を持ってきてくれたり応対してくれた。(同年、澁澤は夫人・矢川澄子①と別れたばかりであったから母堂であろう。)そのうち2楷からトックリシャツ姿でパイプを持った澁澤が応接間の椅子に座り、甲高く透き通る声でいろいろ話をしてくれた。「京都に行く機会があれば稲垣足穂さんに是非会うといい。子どものような純粋な精神の持ち主だ」「沖縄出身の友人に彫刻家が居る」とか、発禁本の話もしてくれた。澁澤は1987年8月5日、59歳で逝去。今の私は澁澤の年齢から9年も越えている。
①矢川澄子 やがわ-すみこ
1930-2002 昭和後期-平成時代の小説家,詩人。
昭和5年7月27日生まれ。渋沢竜彦と離婚後,44年ごろから創作活動にはいり,短編集「架空の庭」でデビュー。また美術書や児童書の翻訳も手がけ,おおくの訳書がある。平成14年5月29日自殺。71歳。東京出身。東京女子・学習院大卒,東大中退。詩集に「ことばの国のアリス」,評論集に「反少女の灰皿」,翻訳にエンデ「サーカス物語」など。(→コトバンク)




1973年4月ー沖縄タイムス創立20周年記念事業『現代の幻想絵画展』(朝日新聞社後援)
□藤野一友「抽象的な籠」→ブログ「藤野一友=中川彩子作品集 天使の緊縛(河出書房新社)ー藤野は、澁澤龍彦と交流があり、瀧口修造から評価を受けた日本のシュルレアリスム系の画家である。藤野一友の絵画の魅力は、潜在意識(夢、幻想)の世界を描きながら、自動筆記(シュルレアリスム的手法、お筆先)に走るわけでもなく、かといってアンフォルメル(無形象)や抽象に走るというわけでもなく、どこまでも明晰に細密ともいえる具象画の方法で追求したことにあるだろう。画法としては、夢の世界を具象的に描いたという点で、サルバドール・ダリに近いと思えるが、ダリが俗なる人間の本性を暴露する方向に向かったのに対し、藤野は反対に俗なるもののなかから、至高性へと向かっていく傾向があるように思える。 」、古沢岩美「コルドバの朝の幻想」、香月泰男「業火」

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1992年12月ー『新沖縄文学』新城栄徳「来訪者略年表ー1969年7月10日 三島由紀夫、「弓張月」取材のため来沖 」