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原爆ー1969年11月ー沖青友の会機関誌『石の声』第1号□[もしも沖縄で爆発したらこのようになる]□真栄田義秀「日本国憲法第九条」/「沖縄にあるB52は24メガトンの水爆を積むことができる(広島の1,200倍) もしも沖縄で爆発したらこのようになる。!▲150~570キロ以内の住民半分が即死し、生き残った人も4カ月以内にはほとんど死亡する。▲爆発にともなう地震津波がおしよせてくる。▲水や食物も多量の放射能を浴びて生き残っても奇型児や発育不能な人間が生まれてくる。▲北は奄美大島、鹿児島迄も被害は及ぶ。-沖縄の住民は今日も原爆をかかえて生活をしている。」

関連ー「核はこうして貯蔵されている<辺野古の核弾薬庫>」『週刊ポスト』1973年11月15日号「平野部の”70%„が米軍基地の沖縄」。アベ政治が辺野古に拘る一因か。

 関連ー2019年【5月16日 AFP】国連(UN)のアントニオ・グテレス(Antonio Guterres)事務総長は16日、核実験で生じた汚染物を投棄するため20世紀に建設されたコンクリートのドームから、放射性物質が太平洋へ漏出することへの懸念を表明した。太平洋の島国フィジーを訪れ、学生らを前に演説したグテレス氏は、マーシャル諸島のエニウェトク(Enewetak)環礁に建設されたこのドームについて、冷戦(Cold War)期の太平洋における核実験の遺物であり、「一種のひつぎ」だと表現した。さらにグテレス氏は、マーシャル諸島のヒルダ・ハイネ(Hilda Heine)大統領と同様に、このドームに封じ込められている放射性物質の漏出の恐れを非常に懸念していると述べた。
 同環礁の一部を成すルニット(Runit)島に1970年代後半に建設されたドームは、核実験で生じた放射性汚染物質の投棄場となっている。放射性物質を含んだ土や灰が、クレーターに運び込まれ、厚さ45センチのコンクリート板で覆われている。当時は一時投棄との位置付けで、クレーター底面には何らの加工もされていないことから、汚染物の海洋流出の危険性が指摘されている。何十年も経過したドームには複数のひびが入っており、サイクロンが直撃した場合には崩壊しかねないと危惧する声もある。グテレス氏はドームへの対応策には直接言及しなかったものの、太平洋の核の歴史は過去のものではないという見方を示した。(c)AFP

1971年4月 大阪市北区で あすの沖縄をつくる若い広場『青い海』創刊
青い海文芸/祖慶美佐江「母校のナンキンハゼ」、宮城清子「短歌」、平良寿美子「青春て何だ」、宮城敏夫「生きる、大城悦子「ささやかでも尊い想い出」」(何れも『石の声』転載)
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沖青友の会機関誌『石の声』

 『石の声』10号は、1972年11月に発行されていて、新城栄徳、嘉陽宗博と新里金福の往復書簡が載っている。新里「沖縄も日本に復帰したのだから、沖縄人も日本人になる努力をしなければならないという説もあります。が、それは戦前、すでに破産した発想にすぎません。沖縄の人々は日本人の同化の努力のはてに、より収奪を強化され(ソテツ地獄)、文化的にも破壊され(方言撲滅運動)、そしてついに沖縄戦を迎えました。そして沖縄戦では<それでもお前らは日本人か>といわれて、日本人のあかしをたてる為に死地に沖縄人はおもむきました。つきるところ、沖縄人にとって、日本人になろうという努力は、自滅しかもたらさなかったのです」、嘉陽「沖縄と本土を往来し沖縄を理解したかのような口振りで<悲劇の島>とか<基地の島>とか、エトセトラのレポートを書いた大和人の知識人ち呼ばれるインテリゲンチャのなんと多いことよ。沖縄を食いものにする、沖縄をテコにして“日本を見つめよう”“己を問い直そう”等とほざく利用主義者の厚顔無恥(知)、エセ文化人を徹底的に糾弾する」、新城「僕らはこういうヤマトーの人間達をふやさぬためにも最後にはテロも辞さぬつもりですが、論には論で行った方が正当かと思われますので新里先輩の手でひとつよろしくお願いします」とある。

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1963年6月30日『沖縄タイムス』「座談会・関西の住人 大いに語る」
 1971年9月のある日、私たち「沖青友の会」会員は女性3人、男性4人で機関誌『石の声』八号のガリを徹夜で切っていた。変色した1963年6月3.0日の『沖縄タイムス』3面にわたっての特集「関西の郷土地図」を転載し、主張に「沖縄の禁断の書『さまよへる琉球人』の封を自ら、はがしたように、われわれは自らの心のヤミを見据えよう」と記した。そして偶然のことだが、ガリ切り作業をやっていた嘉陽宗博(沖青友の会会長)の間借り先の、その小さな部屋の番地は、大阪市港区市岡元町で、戦前の関西沖縄県人会本部の近くの番地であった。
   『石の声』九号に「沖青年譜」があるので沖青友の会の歩みを紹介する。1969年4月20日に大阪城公園にて50名参加して発足、会長・宮城晃で11月には『石の声』一号を出している。「沖縄子供の国」資金カンパや、女子高生刺傷事件の署名カンパ、1970年6月は仲宗根正順(マンガ家)さん捜しに取り組む。兄弟団体の三和同郷青友会(尼崎)、南風サークル(大正区)との六甲山登山やソフトボール大会で交流。また、映画「水俣病」、「沖縄列島」上映会にも参加した。
 1971年12月11日、沖青友の会会員9名が初めてのテレビカメラのライトを浴び、あがってしまいながらの「関西テレビ土曜イブニングショウ」の沖縄討論に参加。司会は、栗原玲児、上原「最近よく沖縄について語られているけれども、安易な気持ちで語ってもらいたくないですね」、喜納「沖縄が返還されても我々は沖縄解放の闘いを続ける」、三郎「沖縄人としての自立を踏まえて沖縄人としての思想を構築していく」、新城栄徳「沖縄は経済的に自立できるかということを考えた上でなければ沖縄を語る資格はないですね」というと、司会者が「語る資格はあるかないか別として、自分の話で恐縮だけれども沖縄に関する司会をするのは十三回目です」、紀美枝「自らのことも出来へん状態で沖縄に連帯、連帯とそんな簡単に言えるべきもんではない」、比嘉「私達は皆さんが沖縄のことに口に出す場合、日本の歴史の中から、どうして現在の沖縄ができたんか考えてから」などと発言した。

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1972年11月発行の沖青友の会機関誌『石の声』所載『青い海』の紹介。
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1973年3月 『琉球の文化』第三号<特集Ⅰ 琉球の伝統玩具> 琉球文化社

1974年5月ー『琉球の文化』第五号<沖縄戦と終戦直後の生活>
琉球文化社(編集発行人・大城精徳)本社〒那覇市牧志町1-944-6 編集局〒902那覇市安里425丸清ビル2階/関西連絡所ー大阪市東淀川区西中島町5-62青い海出版社内(新城栄徳)

西平守晴/阿氏南山の末裔。『青い海』津野創一編集長は同郷(八重山)。南西印刷の西平守栄は従兄弟。久子夫人の母と川平朝申の母は姉妹。

1972年
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上左・1972年11月ー『青い海』18号所載の『琉球の文化』広告/『琉球の文化』編集発行人の大城精徳は、首里高教師時代に『青い海』津野創一編集長を教えている。

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1973年12月 関東・関西沖縄解放同盟(準備会)『沖縄、差別を砕け』(10.25-30関西・関東謝花祭

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1971年9月 沖青友の会機関誌『石の声』8号への提言
 私は『石の声』八号への提言として「僕らは、今の県人会には、大いに不満の点がある。そこで僕らはユニークな機関を創造して行きたい。現時点で実用的なものは、関西沖縄ミニ・シンクタンクであろう」としていて消化不良的な用語を使っているが、要は各種の問題解決のための資料(経験)を蓄積し、すぐ活用できる沖縄青年の「資料センター」を創造していこうということである。 この「資料センター」の考え方が、この「琉文21」の出発点でありプロトタイプといえる。


1971年10月22日の大阪『朝日新聞』で紹介された沖青友の会有志による密約復帰糾弾デモ
1973年1月、『青い海』20号に『琉球の文化』第1号、第2号の広告/1月15日、朝日放送「サンデースコープ180分」で西平守晴、沖縄の成人式を語る/3月『琉球の文化』第3号□広告「『日本のなかの朝鮮文化』」ー琉球文化社関西支局(沖縄関係資料室内)・新城栄徳/8月6日『沖縄タイムス』「ローカルスポットー新城栄徳さん」/10月、『琉球の文化』第4号□琉球文化社関西連絡所(青い海出版社内・新城栄徳)。

未来学
 アルビン・トフラー氏が設立したコンサルティング会社は、トフラー氏が6月27日、アメリカ・ロサンゼルスの自宅で死亡したと発表しました。87歳でした。トフラー氏は、1928年ニューヨークで生まれ、ニューヨーク大学を卒業後、工場での勤務や新聞記者を経て1960年代に作家として活動を始めた。著書では情報化社会を予言し、このうち1980年に出版した「第三の波」では、「農業革命」、「産業革命」に続いて、デジタル技術などの発展に伴う「情報革命」の到来を唱え、世界各国で翻訳されて出版されるなどベストセラーとなった。→2016-6-30記

 中学3年のころ、写真左下のアーサー・C・クラーク 福島正美・川村哲郎訳『未来のプロフィル』早川書房をよく読んだ。このクラークの科学エッセイ集は1958年から1962年にかけてアメリカの『ホリディ』『ホライズン』『サイエンス・ダイジェスト』『プレイボーイ』などに書いた記事をまとめたもの。中に、バートランド・ラッセルの挽歌を引いて「・・・・・あらゆる時代のあらゆる労働も、あらゆる献身も、あらゆる霊感も、あらゆる天才の白昼のごとき明晰さも、太陽系の死と同時に滅亡の運命にあること、そして人類の建設したすべての寺院が滅びゆく宇宙の廃墟の下に埋もれてしまわねばならぬということーこれらすべてのことが、かりにまったく論議の余地がないわけではないにしても、ほとんど確定的であるため、それらを否定しようとするいかなる哲学も存立する望みは持てないのである。  これはまさしく真実であるかもしれない。が、それにもかかわらず、宇宙の滅亡は、思量すべくもない遠い未来に属するので、われわれ現代の種の直接的な関心の対象とはなりえないのだ。」原子に就いて、「物質のエネルギーを解放するために必要だったのは、化学的燃焼に相当する原子の”火”だった。そして、ウラニウムの核分裂こそ、それだったのである。一度、これが発見されれば、原子力の利用は時間の問題だったーただし、もし戦争という圧力がなかったならば、その開発に、ほぼ一世紀はかかったかもしれないけれども。」
クラーク 【Arthur Charles Clarke】
[1917~2008]英国のSF作家。1946年に「抜け穴」「太陽系最後の日」でデビュー。豊富な科学的知識をもとにリアルな近未来世界を描き出し、国内外の人気を得た。作「幼年期の終わり」「2001年宇宙の旅」「宇宙のランデヴー」など。(→コトバンク)
福島正実 ふくしま-まさみ
1929-1976 昭和時代後期の編集者,小説家,評論家。
昭和4年2月18日樺太(からふと)(サハリン)生まれ。早川書房にはいり,昭和34年「SFマガジン」初代編集長となる。翻訳や「こんや円盤がやってくる」などの児童文学分野でも活躍。昭和51年4月9日死去。47歳。明大中退。本名は加藤正実。評論に「SFの世界」など。(→コトバンク)

1969年4月ー安田寿明『頭脳会社ーシステム産業のパイオニア』ダイヤモンド社

1970年9月ー野口悠紀雄『シンク・タンク』東洋経済


株式会社ダイケイ 大阪市西区 1997年1月にゼンリングループの一員/ダイケイは伊藤彰彦が1961年に設立した株式会社大阪計算センター(大阪市東区)が1979年8月に株式会社ダイケイに社名変更。 

「宇宙船地球号(Spaceship Earth)」という言葉は、20世紀アメリカの建築家・思想家、バックミンスター・フラー(Buckminster Fuller)によって有名になった。彼は1963年、『宇宙船地球号操縦マニュアル(Operating manual for Spaceship Earth)』を著し、宇宙的な視点から地球の経済や哲学を説いた。フラーはその生涯を通して、人類の生存を持続可能なものとするための方法を探りつづけた。
 フラーは、地球の歴史とともに蓄えられてきた有限な化石資源を燃やし消費し続けることの愚を説いた。これらの資源は自動車で言えばバッテリーのようなものであり、メイン・エンジンのセルフ・スターターを始動させるために蓄えておかねばならないとした。メイン・エンジンとは風力や水力、あるいは太陽などから得られる放射エネルギーなどの巨大なエネルギーのことであり、これらのエネルギーだけで社会や経済は維持できると主張し、化石燃料と原子力だけで開発を行うことはまるでセルフ・スターターとバッテリーだけで自動車を走らせるようなものだと述べた。彼は人類が石油やウランといった資源に手を付けることなく、地球外から得るエネルギーだけで生活できる可能性がすでにあるのに、現存する経済や政治のシステムではこれが実現不可能であると述べ、変革の必要性を強調した。
 宇宙船地球号とは、地球上の資源の有限性や、資源の適切な使用について語るため、地球を閉じた宇宙船にたとえて使う言葉。バックミンスター・フラーが提唱した概念・世界観である。またケネス・E・ボールディング(クエーカー教徒でもあり、今日でいう平和学に大きな関心を寄せていた。妻は平和研究者、平和運動家のエリース・ボールディング)は経済学にこの概念を導入した。 ウィキペディア□戦後の日本においてGHQのボナー・フェラーズ准将が熱心なクエーカー教徒で日本でのクエーカーの布教活動に精力を注いだ。また、信徒のエリザベス・ヴァイニングは後に天皇となる皇太子・明仁の家庭教師を務めた。

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1983年10月11日『琉球新報』新城栄徳「落ち穂ー未来」/右は『琉文手帖』発売元の琉球書院(琉球文化社)

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小学6年の息子(後ろに息子愛用NECのパソコン、私は操作が分からないので触れたことがない)、さやか、あけみ