05/05: 1971年3月『朝日ジャーナル』<特集・ミニコミ71ー奔流する地下水>
『朝日ジャーナル』1971年3月26日号<特集・ミニコミ71ー奔流する地下水>
1977年2月ー田村紀雄『ミニコミ 地域情報に担い手たち』日経新書
1971年9月 沖青友の会機関誌『石の声』8号
『石の声』8号○名古屋ー県人会がスタートしたのは昭和8年、神山政良氏が初代会長だったが同氏の東京転出によって、昭和11年佐渡山安勇氏が2代目会長をつとめ、第3代目に仲井間宗智氏(家畜商)、第4代目が末吉和一郎氏で昭和35年自然消滅の形となっている。1960年は有志30人が「沖縄デイゴの会」という名の会を発足させている。
1971年ー万博も終わり静けさを取り戻した京都。大阪の沖青友の会機関誌『石の声』8号の装丁デザインを考えていた。河原町の書店で松岡正剛編集の『遊』創刊号(1971年9月)を見た。伏見桃山で会ったばかりの稲垣足穂の文章もあった。その表紙デザインを『石の声』の表紙に取り入れたのは言うまでもない。以来、松岡正剛の名前はついて回ることになるが、肝心の編集だけは身につかなかった。本ブログを見ても解るように元もと整理は苦手である。
戸澤裕司tozawa@za3.so-net.ne.jp 新城栄徳様松岡正剛さん取材した僕の写真、発見されましたか!松岡さん達、赤坂から引っ越されてからお会いしてないな〜。
2013-05-08@16:36
『情報の歴史21』、監修者の松岡正剛氏の編集本とは1970年の稲垣足穂★中村宏『地を匍う飛行機と飛行する蒸氣機關車』松岡正剛「タルホ事典」仮面社、以来である。1975年の『タルホ事典』松岡正剛「タルホ=セイゴオ・マニュアル」まりの・るうにい「装幀・装画」潮出版社。〇右下は私がタルホから貰ったサイン、スタンプ。
押入れを整理したら1998年発行の朝日新聞社『scias』スクラップが出てきた。 渡辺保史の「デジタルメディアの生態史--コンピュ-タと人間の20世紀-1-モ-タリゼ-ションからデジタライゼ-ションへ」というものだ。著者を検索、渡辺保史(わたなべ やすし、1965年12月24日 - 2013年6月15日)北海道函館市出身。 弘前大学人文学部卒業。業界新聞社に記者として勤務(東京)し、1992年 フリーランスのメディア・ジャーナリストとなる。2002年 函館圏の「地域コミュニティの未来デザイン」を検討するオンライン・グループ「node:0138 ハコダテ」を立ち上げる。情報デザインを中心に、サイエンスから情報テクノロジー、現代思想、デザイン、ビジネス論、都市・コミュニティ論、情報教育などのフィールドで取材、調査、執筆、企画、講演などの活動が主。(株)ソシオエンジン・アソシエイツ・ジェネラルプロデューサーNPOヒューマン・センター・デザイン・イニシアティブ理事。7年前に故人になっている。
ジュンク堂那覇で渡辺保史『情報デザイン入門―インターネット時代の表現術』2001年(平凡社新書)を買った。
2001年4月 寺島実郎『「正義の経済学」ふたたび』日本経済新聞社〇この先50年経っても、この国に外国の軍隊が今のまま駐留していても平気だと考えているような国民が国際社会で一人前の存在として認知されることは期待できないのである。
手帖ー情報整理
タテ組の初稿ゲラになった「千夜千冊」は、ヨコ組だったウェブ「千夜千冊」以上の編集魂をかきたてるらしい。書き換えに近いほど手を加えた上で、加読性を高めリズムをつけるために句読点・改行を微細にうごかしていく。「見開き2ページの中の漢字の配分や画数まで気になる」のだという。「ウェブの千夜千冊が雑木林なら、書籍の千夜千冊は密林だ」。「千夜千冊」の彫琢の日々はまだまだ続く。
取材中も赤ペンを放さないセイゴオ(カメラマンはAERAの戸澤裕司さん)→「セイゴオちゃんねる・2006-1-27」
上の方の中央に見えるのは潮出版社の1975年『タルホ事典』である。
松岡正剛が関わった雑誌・本
1983年7月 日本アイ・ビー・エム株式会社『無限大』<ビジュアル表現の時代>№60 杉浦康平「原理に沿う仕事」
□松岡 正剛(まつおか せいごう、1944年(昭和19年)1月25日 - )は、日本の編集者、著述家、日本文化研究者。編集工学を提唱。京都市出身。東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授を歴任。現在、株式会社松岡正剛事務所代表取締役、編集工学研究所所長、ISIS編集学校校長、連志連衆會理事。妻は、かつて稲垣足穂の本などに幻想的な絵をよせた、画家のまりの・るうにい。→ウィキ
松岡正剛「千夜千冊/第五百十一夜【0511】2002年04月04日」に長山靖生(歯科医)の著『偽史冒険世界』1996 筑摩書房から木村鷹太郎を引いて紹介されているので抄出する。詳しくは「千夜千冊」まで。
木村鷹太郎、愛媛県宇和島に生まれ、明治21年に上京して明治学院に入って島崎藤村・戸川秋骨らと同級生となり、英語弁論大会で一等になったものの、言動にすこぶる異様なものがあってヘボン校長から退校処分をくらった。ついで東京帝国大学歴史科に入り、哲学科に移って西田幾多郎と同級になった。ここまでは信じがたいというほどではない。キムタカは大学を出ると、『道徳国家及東亜問題上排仏教』を著して、仏教には現実社会を変革する意欲がないと痛烈に非難し、返す刀で『キリスト教公認可否問題』で天皇を戴く日本にはキリスト教は不要であるとぶちあげた。これでちょっとおかしくなってきた。陸軍士官学校の英語教授の職をえたが、ここでもあまりに学校との意見があわずにすぐ辞めている。そのかわり、英語力をいかしてバイロンを翻訳し、英語からの重訳ではあったが、一人で日本初の『プラトーン全集』個人完訳にとりくんだりもした。こういう"偉業"に平気でとりくむところは評判がよく、岩野泡鳴と文芸批評にあたったり、与謝野鉄幹・晶子の媒酌人になったりもした。井上哲次郎もそういう木村を支援する。
ところがキムタカは、明治44年に発表した『世界的研究に基づける日本太古史』という大著で、ついにとんでもないことを言い出したのである。イザナギとゼウスを、オオクニヌシとダビデを、タケイカヅチとモーゼを比べ、高天原をアルメニアに、出雲大社をメコン川流域に比定し、神武天皇の東征はアフリカ西海岸からの発信だったとしたばかりか、大半の世界文明は日本が起源であるという破天荒な妄想を一挙に披露したのだった。 そればかりでなく、みずから「日本民族研究叢書」と銘打ったシリーズで、ここに紹介するのも憚りたいほどの、『神武帝の来目歌はビルマ歌』『日本民族東漸史』『トマスモア「ユウトピア国」は我が日本津軽』『天孫降臨史の世界的研究』などと題しては、あたりかまわぬ日本=世界同根説をまきちらした。なかにはホメロスの『オデュッセイア』は『平家物語』や『太平記』を下敷きにしたものだなどという、噴飯仮説がわんさとまじっていた。長山靖生は、こうしたカルト的な歴史観にとりあえずは"空想史学"といううまい呼称をつけている。キムタカ自身は自分の歴史観を「新史学」と言った。
本書に登場する"空想史学"は、世界に伍する日本を強調しようとして、次々に勇み足というか、過剰な妄想に踏み出していったものばかりである。この「列強に伍する日本」というグローバル・イデオロギーは、もとはといえば明治国家そのものが抱えたヴィジョンでもあり、また悲願でもあった。それが日清・日露の勝利の美酒と三国干渉などの悔しさとが混じっていくうちに、しだいに国民思想に流れこみ、そこに"空想史学"の兵(つわもの)たちが、それなら歴史をさかのぼって日本の正当性を訴えてみましょう、国民の渇望に応えてみましょうと考えたわけである。
しかし、そこに喜劇も悲劇も待っていた。史実の捏造という暴挙に歯止めがかからなくもなっていった。 たんなる個人の妄想なら、それでもよかった。そんな小説はごまんと世の中にある。しかしこの暴走は"フィクション"であることより"ノンフィクション"であることを望みすぎたため、本書の著者が指摘するように、どこかで八紘一宇の思想や関東軍のアジア政策に絡み(略)ドイツやロシアから巻きおこった「黄禍論」に対する憤懣やるかたない反論の暴走とも関係していった。 しかもキムタカたちは、その後の日本に陸続とあらわれつづけていたとも言わざるをえない。いや、今日になおキムタカ現象の跡は断ってはいない。 いま、世間で議論されている歴史教科書問題から憲法問題まで、首都圏移転問題から北方領土問題まで、われわれはこれらをいったいフィクションにしているのか、ノンフィクションにしているのか、どうやらあたらめて考えたほうがよさそうである。