05/11: 1972年9月 沖縄の雑誌『青い海』16号 山城善三「暴風と沖縄の県民性」
1972年9月 沖縄の雑誌『青い海』16号 山城善三「暴風と沖縄の県民性」
1937年6月『沖縄教育』米国三郎(顔写真)「ストライキ組を語る」
1953年3月 雑誌『おきなわ』与那国善三「1954年 沖縄の動き(上)」
山城善三
沖縄タイムス発行『沖縄年鑑1967』から「観光・戦跡」が掲載されている。それに「観光事業のはじまり」がある。沖縄の観光事業にはじまりについてくわしい記録はないが、修学旅行が最初だといわれている。□1893年(明治26)の9月、沖縄師範学校の生徒が本土の社会、文化、歴史などを勉強するため初めて九州旅行している。その翌年1894年(明治27)2月に那覇市の主催で那覇で「九州沖縄連合共進会」が開かれ、3月には「沖縄県教育品展覧会」も催され、九州各地や東京方面から多数の参加者が来島している。(以下略)『沖縄年鑑』1970年版には「観光ー観光協会の発足」が載っている。
1954年1月9日 社団法人「沖縄観光協会」設立(事務局・那覇市役所勧業課内)
1953年1月ー与那国善三『最新沖縄歴史年表』
1954年1月に社団法人「沖縄観光協会」が設立された。2月に那覇市役所勧業課内に事務局を置いた。57年4月、事務局を琉球政府工交局内に移転。59年は那覇市楚辺の与那国(山城)善三宅に事務局、会長は大田政作で副会長ー儀間光裕、親泊政博、専務兼事務局長ー山城善三、監事ー白石武八郎、大城嘉盛となっている。ほかに顧問6人、理事22人、評議員26人、参与が14人居る。
1966年4月 田島清鄕『琉球料理』月刊沖縄□山城善三「田島氏のことー尚順男と昵懇の仲で常に尚順家に出入りしていた。(略)こういう関係から田島氏は琉球料理について、尚順男や、コックから見聞を広くし精通していた。戦後、那覇琉米文化会館長城間朝教氏は、文化会館を中心として琉球料理研究会を作り、希望者を集めて講習会を始めた。講師には田島清鄕氏を迎える事にした。田島氏の講習会でのメモ帖を何とか出版してほしいとの一般の要望ががあったので、氏は原稿整理中、病魔のため倒れた。その原稿を私が整理して、今回出版の運びとなった。」
1988年12月20日『那覇市史だより』第34号
□故山城善三氏資料の寄贈について/故山城善三氏資料寄贈目録(文化振興課受贈の分)
1951年ー沖縄民政府『沖縄観光案内』
観光コース ○印は下車予定 他は車上説明
第一コース
那覇出発
民政府 軍政官府 泊港 外人墓地 天久聖現寺 崇元寺 ○与儀試験場 与那原 ○バックナービル・・・・・下車休息 佐敷 旧民政府、軍政府跡 斎場御嶽 受水走水 島田知事終焉の地 ○牛島中将終焉の地 ○健児の塔 ○姫百合の塔 みなと小 魂魄の塔 白梅の塔 バックナー中将戦死の地 南山城(遠望) ○八重瀬岳(最後の激戦地) ○糸満 奥武山公園 那覇ー宿泊
第二コース
那覇出発
首里ー霊御殿 大学 龍潭 博物館 美術村 ○浦添ユードリ ○普天満宮 桑江キャンプ 砂辺浜(遠望) 嘉手納航空隊 比謝エーヤ ○万座毛 名護ー轟瀧、名護町 南城 農事試験場 宿泊
第三コース
名護出発
○渡久地(伊江島遠望) 北山城(遠望) ○運天港(愛楽園説明) 羽地 名護 古知屋 ○金武宮 屋嘉ビーチ 石川ビーチ ○東恩納博物館 旧民政府跡 エノビ旧軍政府跡 琉球放送局 胡差ビジネスセンター ○中央病院 ライカム ○中城公園 牧港 那覇宿泊
〇ちなみに、第1コースには首里博物館(第二次大戦前までは首里市とその近郊には23の国宝指定の建造物があり又琉球独特の美術工芸品があったが戦災でこれらのほとんどを失った。戦後の首里博物館はこれら埋没せるもの、或は灰燼の中からその残欠を掘出したものを保管してある。)、美術村(現代洋画家が中心となり美術村を組織して絵画美術の振興にまい進している。)も紹介されている。
2013年4月4日ー与儀公園のデイゴ