FB友の戸澤裕司さん(元週刊朝日グラビア班専属カメラマン 写真家作家藤原新也助手)の師匠・藤原新也氏の著『日々の一滴』を思い出して5月11日にジュンク堂那覇で買ってきた。私は文庫本愛好家であるから文庫になっている藤原氏のものは大概もっている。同著には石田 昌隆氏、戸澤裕司さんの写真も使われている。

 石田 昌隆 2020年3月24日 · 『日々の一滴』は、タイトルがエモすぎて大丈夫かなと危惧していたのだが、できあがったら『空から恥が降る』以来と思える傑作になっていた。まずぱらっと見た瞬間に、デジカメで撮影したものがほとんどであるにも関わらず、ひと目で藤原新也調とわかる写真になっていて、ファンなら感涙であろう。ところがこれが、懐古的なものではなく、写真を世に出す主流の媒体となっているインスタグラムに相対しつつ、今の時代をきっちり捉えた紙の本になっていた。
 ライカM(type240)サファリにノクチルックスをつけて大久保の路上で撮影した伊藤詩織さん、カルロス・ゴーンの制限住居、「忘却の10年。いまだ川は流れる セシウムの船を浮かべて」という文字が載った川が光っている写真、孤独死した知人の話、房総の里山の美しい風景、戸澤くんから借りたキャノンで撮影した小保方晴子、香港の路上でばったり会った黄之鋒くん、香港でホームヘルパーとして働いているインドネシアの女性たち、辺野古の大浦湾側の海、2015年に国会前で撮影したデモ、AKB48、熊本地震の跡、古き良き築地、1989年にカリフォルニアの白人ばかりが住む住宅地で撮影した写真を再利用して「風景がひとつの肌の色で独占されることの不気味さ」という文を載せたページ、房総で出会った軽ワゴン車で旅する老夫婦と老犬、去年パリのモンマルトルのアパートに数日滞在したときにライカSLで撮影した風景、安田純平さんと藤原さんが並んで笑っているツーショット(これだけ、ぼくが撮影した)、大久保のタピオカドリンクの行列、孫を抱いた玉城デニーさん、川崎通り魔殺人事件の現場、石牟礼道子さん、瀬戸内寂聴さん、などの写真と話で構成されている。

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1993年6月 藤原新也『南島街道 沖縄』スイッチ・コーポレイション書籍出版部
○藤原氏は本書で、28歳の頃八重山の島々を2カ月ほど渡り歩いたという。○藤原「外洋を旅している回遊魚がこのくちだな、やつらは一生のうち何十万マイルもの海を泳ぎ続ける。海が荒れれば底にひそみ、疲れれば流れ藻の下で休み、魚の群に当たればおそろしいスピードでその中に突進し、来る日も来る日も泳ぎ続けるんだ。やつらは旅の間にさまざまないい体験をするだろう。旅の途中でまるで楽園みたいなリーフや巨大な龍宮城みたいな隠れ磯のとりこになる。しかし、残念なことによい場所を見つけてもやつらの性格は一カ所にじっとしておれないたちでね。つまり旅するうちにものごとを較べたり計ったりする厄介な能力が身についてしまったんだな。だからその海の向こうにもうちょっとよい場所がないものかとすぐその場を離れてしまうんだ。そうこうしているうちに年月がたちゃあ、歳をとり体も弱ってくる。やつらはそれで、全身傷だらけ疲労困憊して自分の生まれた場所にいそいそともどって行く。そしてそこで死ぬ。」


藤原新也の本


2015年2月27日~3月12日 ブライトフォトサロン(〒104-0043 中央区湊1-8-11 ライジングビル4F ℡03-3523-0545)「島の記憶(ⅰ)戸澤裕司・写真展」

写真左から大城弘明氏、戸澤裕司氏、新城栄徳
2013年5月5日ー戸澤裕司写真展打ちあげ□海鮮亭ちひろ(店主・島袋憲広)



ヤハタ・那覇市仲里正雄・撮影

琉球コスミレ・那覇市仲里正雄・撮影

トベラ・那覇市仲里正雄・撮影
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2012年10月5日~18日 エプソンイメージングギャラリーエプサイト(℡03-3345-9881 新宿三井ビル1F)「戸澤裕司写真展ーカジマヤー(風車祝い)~島人をめぐる断章~」入場無料・日曜日休館 


2016年11月3日『沖縄タイムス』「一中生の『遺影里帰り』同級 山田義邦さん 実現に力」

 NHK収録年月日, 2009年5月22日、23日 戦争証言アーカイブス山田 義邦さん|証言|がネット検索で見ることができる。
タイトル, 「少年兵の斬り込み」, 番組名, [証言記録 兵士たちの戦争] 戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~. 氏名, 山田 義邦さん(沖縄県・鉄血勤皇隊), 戦地, 日本(沖縄)。


2014年8月31日ー台湾茶屋で左から新城栄徳、山田義邦さん、仲里正雄さん

デール・マハリッジ 藤井留美 訳『日本兵を殺した父』原書房2013-7
辰夫の亡霊ー山田義邦
○あとがきー(略)ジョージ・ニランドはマッカーサー支持でも何でもなかったが、海軍は太平洋上の島々で飛行場への爆撃を続行し、日本軍が使えないようにするべきだったと興奮の面持ちで語った。そうすればアメリカ兵が島に上陸する必要もなかったというのだ。
ニミッツと、キングをはじめとする彼の部下たちを私が嫌うのは、後世からの勝手な断罪ではない。太平洋戦域での戦いは、当時わかっていた情報だけで判断しても、ほかにやりようがあった。グアムの戦いの必要性に関しては論じないが、沖縄戦はあんな戦いでなくてもよかったはずだ。その意味では、ジョー・ランチョッティと同様、双方の将軍や提督を私は嫌悪する。アメリカは日本の狂信的な軍部指導者を制御できなかったが、だからといって彼らと同じ土俵に立つ必要もなかった。ニミッツの愚劣さが、沖縄戦における民間人15万人、日本兵11万人、アメリカ兵1万2000人以上の犠牲をひき起こした。そのひとりがマリガンだ。父も脳損傷の後遺症を一生引きずった。私がニミッツを嫌うのはあくまで私情だが、それも無理からぬ面があると思う。なぜなら私は、第二次世界大戦における彼の判断が最後まで尾を引く家で生まれ育ったのだから。