07/14: 1925年4月 首里城正殿、沖縄神社拝殿として保存
2018年1月、宗教学者の島田裕巳が「富岡八幡・宮司殺人事件の背景」として□富岡八幡宮は、大相撲の起源とされる「江戸勧進(かんじん)相撲」の発祥地で、江戸三大祭、「深川祭」でも有名な“江戸”を代表する神社の一つ。18代宮司の故・富岡盛彦氏はかつて、本庁事務総長(現在の総長)だった人物だ。それだけに、ある本庁関係者は「明治神宮が2004年に本庁から離脱(10年に復帰)したとき以来の衝撃。誰も得をせず、神社界全体への余波も大きい」と嘆く。神社は法人である以上、一つの家の人間が世襲するようなものではない。ただ、現在ではその家に生まれた人間以外なり手がないということで、神社仏閣では事実上の世襲が進んでいる。富岡八幡宮において宮司にそれだけの権限が集中したのは、被害者と容疑者の姉弟の祖父である故富岡盛彦氏の存在があるからではないだろうか。境内には氏の銅像が立っている。(略)盛彦氏は神社界ではやり手で、赴任した各神社ではその振興に力を尽くし、富岡八幡宮でも、戦災で焼失した社殿を再建する事業に携わった。そうした功績によって、神社本庁の総長(事務総長)ともなり、神職を養成する國學院大學の同窓会の会長もつとめている。さらに盛彦氏は、最近話題になることが多い日本会議を発足させる際に斡旋を行ったことでも知られる。これによって、神社本庁をはじめとする神社界が日本会議の重要なメンバーとなった。その縁だろう、宮司時代の容疑者は、日本会議最初の支部である江東支部の支部長をつとめていた。
2018年年10月、 靖国神社のトップを務める小堀邦夫宮司(68)が神社の運営などを話し合う委員会の中で、天皇陛下について不適切な発言をし、混乱を招いたとして、退任した。ことし6月に行われた神社の運営などを話し合う委員会の中で、「陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていく」などと天皇陛下を批判する発言。神社界の批判めいた紹介になってしまったが、仏教界でも、2018年5月、奈良市の法相宗(ほっそうしゅう)大本山・薬師寺は15日、住職の村上太胤(たいいん)管主(かんす、71)が「不適切な女性関係」で14日付で辞任したと発表している。精神界でもスキャンダルは枚挙にいとまがない。まして・・・。
最近、金刀比羅宮(琴陵容世宮司)の神社本庁離脱がニュースになっていたが、金毘羅宮は敗戦前まで沖縄にもあった。1935年2月に沖縄糖商同業組合が建立したもので今では知る人も少ない。沖縄神社は有志が那覇市首里鳥堀町弁ケ嶽小嶽の市有地を貸借し境内地とし、小祠を設け祭祀を続けている。
1877年5月 レベルテガット航海記/1879年 首里城、第六師団熊本分遣隊の兵舎が置かれ、陸軍省所轄地となる。
1882年3月 首里城、今度 陸軍省所轄永世保存城と定められ、同城内に熊本鎮台分営を置かるる→「朝日新聞」
1893年2月 バジル・ホール・チェンバレン/1896年6月ー『風俗画報臨時増刊/沖縄風俗図會』東陽堂
1901年5月 侍従子爵北条氏恭来沖、本島、宮古、八重山の民情、教育、軍事を視察..
1904年4月 首里区立工業学校、当蔵の民家から首里城書院に移転
1905年2月 侍従子爵北条氏恭来沖
1908年 首里市立女子工芸学校、赤平義村家跡校舎より首里城内に移転
1909年、首里市に壹千五拾四圓五拾五銭にて払下(南風殿、正殿、西殿、鎖の間書院、王子居室、王王妃室、世誇殿、銭蔵、寝廟殿、廣福殿、用物奉行所料理座、門番所、二階殿、厩係詰所、アヤメ居室、奉神門、金蔵,竃家、下役料理座、鐘撞堂、右掖門、淑順門、漏刻門、瑞泉門、久慶門、歓会門、美福門、継世門、衛兵所、洗面洗濯所、銃工室、浴室、伝染病室、敷石、哨兵舎、体操器械、物干)
1931年10月 『首里市制十周年記念誌』首里市役所
1910年3月7日 ドイツ人エドモンド・シーモン馬山丸で来沖
1914年1月 黒頭巾・横山健堂『薩摩と琉球』中央書院
佐渡島/島倉龍治(1870年5月2日~1929年2月10日)
島倉伊平次、千代の二男として佐渡郡真野町新町で生まれる。小学校を卒業するとすぐ上京。あらゆる職業を転々としたのち働きながら東京法学院(中央大学の前身)に通う。1893年に卒業。94年、神奈川県人石渡かよと結婚。このころ島倉は東京向島言間付近に住んでいた。妻かよは東京女子職業学校を卒業していて毛糸の編み物、針仕事で生計を助けていた。島倉が勉学に必要な書物を上野図書館から借りだし人通りの少ない夜道を往復した。1900年、島倉は判検事試験に合格。司法官試補として若松、徳島などの裁判所勤務。05年、司法省嘱託となってアメリカの訴訟、執行、監獄の制度を視察するため渡米。
1908年、検事として宇都宮、東京控訴院、千葉、浜松勤務。1921年、那覇裁判所検事正。29年、大審院判事。
1922年1月 島倉龍治ら沖縄史蹟保存会を設立し東宮行啓記念碑など史蹟20余建碑
1923年3月 島倉龍治ら内務省より沖縄神社創立許可を得る
1923年6月 写真ー左は真境名安興に協力して日本大学に出版させた『沖縄一千年史』/右は島倉龍治
1925年4月 首里城正殿、特別保護建造物に指定され沖縄神社拝殿として保存(復旧費が補助されるに伴い本山荘市沖縄県技師が担当)
出口王仁三郎聖師『歌日記』
1928年 出口王仁三郎が来沖。1月2日ー雨は止みたれど風強く本日出帆すべき基隆丸朝の内入港せず。午前10時、自動車二台にて首里に行く。簡単んる塩田を左右に見ながら盆景式の纏まりたる小丘を廻り、首里城跡を見る。(略)棟の大龍神は台湾式よりも偉大にて、正面、左右にも奇形なる龍神の石柱を建てたり。→聖師様琉球大島御旅行記 出口王仁三郎「龍神の顎の玉の初日の出 球の島根に拝みけるかな」
1928年2月 首里城正殿修理工事着手(主任・本山荘市沖縄県建築技師)
沖縄神社神殿/沖縄神社拝殿、賽銭箱、両脇に灯籠、しめ縄が飾られている。
1937年5月 仲吉朝睦『観光沖縄案内』向春商会印刷部
目次
第1 概要ー1、位地区域 2、面積、区画、人口 3、地勢 4、地質と土壌 5、気候と生物
第2 交通・通信・其他ー1、水上交通 2、陸上交通 3、航空交通 4、郵便電信 5、電話及ラヂオ 6、衛生 7、飲料水 8、電力
第3 自然物」と産業其他ー1、植物 2、動物 3、産業ーイ農業及畜産養蚕、ロ林業、ハ水産業 ニ鉱業 ホ工業 4、商業 5、移植民と開洋会館 6、沖縄畧史 7、沖縄古来の名人 8、県下の言論機関 9、軍隊及軍衛 10、官公衛 11、会社 12、教育及図書館
第4 名勝・旧蹟ー1、那覇市 2、首里市 3、中頭郡 4、島尻郡 5、国頭郡 6、宮古郡 7、八重山郡第5 慣習・其他ー1、独特の綱引 2、空手 3、美術工芸 4、民謡及古典劇並土俗
第6 旅館・料理屋・演劇場・歓楽場ー1、旅館(那覇市) 2、料理屋(那覇市) 3、演劇場 4、歓楽場
1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社
沖縄神社社司(もと府県社および郷社の神職の長。祠官の後身。1946年(昭和21)宮司となった。)・仲吉朝睦
土田杏村 つちだ-きょうそん
1891-1934 大正-昭和時代前期の思想家,評論家。佐渡郡新穂村(現佐渡市新穂)に生まれる。
明治24年1月15日生まれ。土田麦僊(ばくせん)の弟。田中王堂,西田幾多郎(きたろう)にまなぶ。日本文化学院をつくり,長野,新潟の自由大学運動を援助する。マルクス主義批判の立場をとり河上肇(はじめ)と論争した。昭和9年4月25日死去。44歳。新潟県出身。京都帝大卒。本名は茂(つとむ)。著作に「文明思潮と新哲学」など。
【格言など】歴史の進展は自由でもあれば,また必然でもある(「人間論」)→コトバンク
『近代文学研究叢書』37「土田杏村」
1921年7月22日ー土田杏村、バートランド・ラッセルと都ホテルで会談。22日ー杏村、ラッセルを知恩院などを案内。24日、杏村、東上するラッセルを京都駅で見送る。
1925年5月ー土田杏村『自由教育論』内外出版。6月ー『自由大学雑誌』土田杏村「社会史学の方法論に於ける二大先覚者」
1931年11月ー土田杏村『道徳改造論』第一書房
1932年7月ー土田杏村『文学理論』第一書房
1949年5月ー土田杏村『唯物史観の根本批判』富士書店
2018年年10月、 靖国神社のトップを務める小堀邦夫宮司(68)が神社の運営などを話し合う委員会の中で、天皇陛下について不適切な発言をし、混乱を招いたとして、退任した。ことし6月に行われた神社の運営などを話し合う委員会の中で、「陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていく」などと天皇陛下を批判する発言。神社界の批判めいた紹介になってしまったが、仏教界でも、2018年5月、奈良市の法相宗(ほっそうしゅう)大本山・薬師寺は15日、住職の村上太胤(たいいん)管主(かんす、71)が「不適切な女性関係」で14日付で辞任したと発表している。精神界でもスキャンダルは枚挙にいとまがない。まして・・・。
最近、金刀比羅宮(琴陵容世宮司)の神社本庁離脱がニュースになっていたが、金毘羅宮は敗戦前まで沖縄にもあった。1935年2月に沖縄糖商同業組合が建立したもので今では知る人も少ない。沖縄神社は有志が那覇市首里鳥堀町弁ケ嶽小嶽の市有地を貸借し境内地とし、小祠を設け祭祀を続けている。
1877年5月 レベルテガット航海記/1879年 首里城、第六師団熊本分遣隊の兵舎が置かれ、陸軍省所轄地となる。
1882年3月 首里城、今度 陸軍省所轄永世保存城と定められ、同城内に熊本鎮台分営を置かるる→「朝日新聞」
1893年2月 バジル・ホール・チェンバレン/1896年6月ー『風俗画報臨時増刊/沖縄風俗図會』東陽堂
1901年5月 侍従子爵北条氏恭来沖、本島、宮古、八重山の民情、教育、軍事を視察..
1904年4月 首里区立工業学校、当蔵の民家から首里城書院に移転
1905年2月 侍従子爵北条氏恭来沖
1908年 首里市立女子工芸学校、赤平義村家跡校舎より首里城内に移転
1909年、首里市に壹千五拾四圓五拾五銭にて払下(南風殿、正殿、西殿、鎖の間書院、王子居室、王王妃室、世誇殿、銭蔵、寝廟殿、廣福殿、用物奉行所料理座、門番所、二階殿、厩係詰所、アヤメ居室、奉神門、金蔵,竃家、下役料理座、鐘撞堂、右掖門、淑順門、漏刻門、瑞泉門、久慶門、歓会門、美福門、継世門、衛兵所、洗面洗濯所、銃工室、浴室、伝染病室、敷石、哨兵舎、体操器械、物干)
1931年10月 『首里市制十周年記念誌』首里市役所
1910年3月7日 ドイツ人エドモンド・シーモン馬山丸で来沖
1914年1月 黒頭巾・横山健堂『薩摩と琉球』中央書院
佐渡島/島倉龍治(1870年5月2日~1929年2月10日)
島倉伊平次、千代の二男として佐渡郡真野町新町で生まれる。小学校を卒業するとすぐ上京。あらゆる職業を転々としたのち働きながら東京法学院(中央大学の前身)に通う。1893年に卒業。94年、神奈川県人石渡かよと結婚。このころ島倉は東京向島言間付近に住んでいた。妻かよは東京女子職業学校を卒業していて毛糸の編み物、針仕事で生計を助けていた。島倉が勉学に必要な書物を上野図書館から借りだし人通りの少ない夜道を往復した。1900年、島倉は判検事試験に合格。司法官試補として若松、徳島などの裁判所勤務。05年、司法省嘱託となってアメリカの訴訟、執行、監獄の制度を視察するため渡米。
1908年、検事として宇都宮、東京控訴院、千葉、浜松勤務。1921年、那覇裁判所検事正。29年、大審院判事。
1922年1月 島倉龍治ら沖縄史蹟保存会を設立し東宮行啓記念碑など史蹟20余建碑
1923年3月 島倉龍治ら内務省より沖縄神社創立許可を得る
1923年6月 写真ー左は真境名安興に協力して日本大学に出版させた『沖縄一千年史』/右は島倉龍治
1925年4月 首里城正殿、特別保護建造物に指定され沖縄神社拝殿として保存(復旧費が補助されるに伴い本山荘市沖縄県技師が担当)
出口王仁三郎聖師『歌日記』
1928年 出口王仁三郎が来沖。1月2日ー雨は止みたれど風強く本日出帆すべき基隆丸朝の内入港せず。午前10時、自動車二台にて首里に行く。簡単んる塩田を左右に見ながら盆景式の纏まりたる小丘を廻り、首里城跡を見る。(略)棟の大龍神は台湾式よりも偉大にて、正面、左右にも奇形なる龍神の石柱を建てたり。→聖師様琉球大島御旅行記 出口王仁三郎「龍神の顎の玉の初日の出 球の島根に拝みけるかな」
1928年2月 首里城正殿修理工事着手(主任・本山荘市沖縄県建築技師)
沖縄神社神殿/沖縄神社拝殿、賽銭箱、両脇に灯籠、しめ縄が飾られている。
1937年5月 仲吉朝睦『観光沖縄案内』向春商会印刷部
目次
第1 概要ー1、位地区域 2、面積、区画、人口 3、地勢 4、地質と土壌 5、気候と生物
第2 交通・通信・其他ー1、水上交通 2、陸上交通 3、航空交通 4、郵便電信 5、電話及ラヂオ 6、衛生 7、飲料水 8、電力
第3 自然物」と産業其他ー1、植物 2、動物 3、産業ーイ農業及畜産養蚕、ロ林業、ハ水産業 ニ鉱業 ホ工業 4、商業 5、移植民と開洋会館 6、沖縄畧史 7、沖縄古来の名人 8、県下の言論機関 9、軍隊及軍衛 10、官公衛 11、会社 12、教育及図書館
第4 名勝・旧蹟ー1、那覇市 2、首里市 3、中頭郡 4、島尻郡 5、国頭郡 6、宮古郡 7、八重山郡第5 慣習・其他ー1、独特の綱引 2、空手 3、美術工芸 4、民謡及古典劇並土俗
第6 旅館・料理屋・演劇場・歓楽場ー1、旅館(那覇市) 2、料理屋(那覇市) 3、演劇場 4、歓楽場
1937年9月 『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社
沖縄神社社司(もと府県社および郷社の神職の長。祠官の後身。1946年(昭和21)宮司となった。)・仲吉朝睦
土田杏村 つちだ-きょうそん
1891-1934 大正-昭和時代前期の思想家,評論家。佐渡郡新穂村(現佐渡市新穂)に生まれる。
明治24年1月15日生まれ。土田麦僊(ばくせん)の弟。田中王堂,西田幾多郎(きたろう)にまなぶ。日本文化学院をつくり,長野,新潟の自由大学運動を援助する。マルクス主義批判の立場をとり河上肇(はじめ)と論争した。昭和9年4月25日死去。44歳。新潟県出身。京都帝大卒。本名は茂(つとむ)。著作に「文明思潮と新哲学」など。
【格言など】歴史の進展は自由でもあれば,また必然でもある(「人間論」)→コトバンク
『近代文学研究叢書』37「土田杏村」
1921年7月22日ー土田杏村、バートランド・ラッセルと都ホテルで会談。22日ー杏村、ラッセルを知恩院などを案内。24日、杏村、東上するラッセルを京都駅で見送る。
1925年5月ー土田杏村『自由教育論』内外出版。6月ー『自由大学雑誌』土田杏村「社会史学の方法論に於ける二大先覚者」
1931年11月ー土田杏村『道徳改造論』第一書房
1932年7月ー土田杏村『文学理論』第一書房
1949年5月ー土田杏村『唯物史観の根本批判』富士書店