新城栄徳 2020-4-15 私の敬愛する編集者に上間常道氏が居た。氏は大阪生まれの今帰仁2世。東京大学文学部卒。『現代の理論』編集部、その発売元の河出書房新社に無試験で入社。『ドストエーフスキー全集』『トルストイ全集』などを編集する。復帰を機に沖縄に移住。出版社などを経て沖縄タイムスに入る。沖縄タイムス発刊35周年記念で『沖縄大百科事典』(上中下の3巻別刊1巻、約17000項目を収録)の編集を担当、同社より83年5月刊行。06年より出版舎Mugenを主宰。私は河出書房の話は聞いたかもしれないが記憶にない。

新城栄徳と上間常道氏の共同作業『沖縄美術全集』「年表」/『沖縄近代文芸作品集』/『琉球弧の雑誌展』

 森政三ー北海道札幌市に生まれる。東京の中学を終え、蔵前高専工業図案科入学。療養のため中退。1925年、東京美術学校建築学科卒業。歌舞伎座、都美術館、明治生命ビルの設計者・岡田信一郎①早稲田大学教授に師事して和洋建築の実技を習得。和風建築に興味をもち1929年「国宝保存法」の制定にともない文部省技官となる。国宝、重要文化財の調査、記録、修復を担当。1936年に国宝首里城正殿の解体修理工事を担当、1937年、初めて来沖し仲座久雄らと工事に従事。以後、毎年来沖して国宝、重要美術品の指定申請を提出、約20件が指定される。1945年から18年間ー日光東照宮修復の技師長になったほか、二荒山神社、神王寺や長崎の大浦天主堂、出羽三山の建造物などの修復を手掛けた。1955年、戦災沖縄文化財の実情調査と復興計画案を立てる。1956年、園比屋武御嶽石門設計監督、翌年竣工。1957年、守礼門復元工事の設計工事の設計監督委嘱、翌年竣工。泰子夫人との間に1男1女。
①岡田信一郎 おかだ-しんいちろう
1883-1932 明治-昭和時代前期の建築家。
明治16年11月20日生まれ。大正元年大阪市中之島中央公会堂の設計競技で1等当選。ニコライ堂修復のほか,歌舞伎座,東京府美術館,明治生命ビルなど,おおくの洋式建築を設計した。東京美術学校(現東京芸大)教授。昭和7年4月4日死去。50歳。東京出身。東京帝大卒。→コトバンク
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2004年2月 沖縄県立博物館・美術館[企画展] 図録『戦前・戦後の文化財保護 ~仲座久雄の活動をとおして~ |』
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写真右から国吉真哲、亀川正東、森政三、名渡山愛順、仲座久雄

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宮﨑義敬『繚乱の人』展望社よりーサントリー美術館で中央に平良リヱ子、左に森政三①、右に岡本太郎、鎌倉芳太郎,金井喜久子、矢野克子が並ぶ
□①森氏の娘・美和子さん来信「父は結婚が遅く 私は孫といっていい程 年の離れた子ですから中年の頃の父も知りませんが ご指摘下さった人物は父のようでございます。人間国宝の鎌倉芳太郎先生のお話を母にしていました。」

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日光東照宮でー中央に森政三、その右へ仲座久雄、一人置いて又吉眞三

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1980年9月15日『琉球新報』

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2010年7月28日那覇市歴史博物館「沖縄のシンボル 守礼門」展〇ギャラリートーク 湖城英知「2、000円札発行について」写真・左から、新城栄徳、渡口彦邦氏、講師の湖城英知氏(沖縄海邦銀行元頭取、沖縄都市モノレール元社長)、大城宗憲氏(株式会社南都会長)、那覇市民文化部の島田さん。会場には湖城氏の幼馴染の渡口万年筆の渡口彦邦氏や、南都社長の大城宗憲氏も居られコメントも出た。
 講演終了後、大城氏はかつて松尾書店を経営して居られたのと『沖縄春秋』の話をするとパレット地下の日本料理店・彦に誘われた。何を注文するかと聞かれたので、大城さんと同じものでいいですよ、大城さんは年配だしそう食べないだろうと思ったら2段重ねの膳で出てきた。松尾書店から1965年4月に真境名安興『沖縄1千年史』を新城安善作成の索引をつけて発行している。同年11月には雑誌『沖縄春秋』も創刊。
 創刊号には「特別座談会・転機を迎えた沖縄問題」が組まれ小渕恵三、宇野宗祐、中村晄兆、翁長助裕が参加、司会が比嘉幹郎であった。『沖縄春秋』第2号にはカメラマンの岡村昭彦氏が来社した記事がある。日本料理屋には湖城英知氏と夫人も居られた。2000円札は沖縄観光のシンボルでもある。これを活かさない手はない。大城宗憲氏も沖縄観光を産業化にして居られる。

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2014年7月 東京都写真美術館(金子隆一、藤村里美 他)『岡村昭彦の写真 生きること死ぬことのすべて』美術出版社

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 1965年11月『沖縄春秋』第1号 編集人・宮城宏光、発行人・大城宗憲
 1965年12月『沖縄春秋』第2号「戦争報道写真家の岡村昭彦氏 本社を訪問」 編集人・宮城宏光、発行人・大城宗憲5丁目
 1966年4月『沖縄春秋』第2巻第2号 徳田安周「小説・写真記者物語<2>(宝くじ50万円当たって)悪いけれども亡き親友の弟、山川岩美君に行ってもらうことにした。彼は沖縄から上京したばかりであったが、この話を聞くとフントーナーサイ(ほんとですか)とはじめは信用しなかった。(略)」 編集人・宮城宏光、発行人・大城宗憲


1962年12月17日 建築家・仲座久雄(58)死去。

【資料】2020-2 仲座巌『仲座久雄 その文化財保護活動1936~1962年』

【関連】高松塚古墳/首里城正殿模型/大龍柱/琉球文化社・琉球書院

仲座久雄(1904・2・10~1962・12・17)
タイムス『沖縄大百科事典』「仲座久雄」は又吉眞三の執筆である。2004年2月、沖縄県立博物館で「企画展・沖縄の文化財展 戦前・戦後の文化財保護~仲座久雄の活動をとおして」の図録には仲座巌氏が「おわりに」と題し仲座久雄の略歴を記している。「仲座久雄は若い頃大阪で働きながら、苦学をして建築を修めました。賀川豊彦の薫陶を受け、ピューリタン精神を心に秘めて郷里へ戻り、学校建築、災害復旧工事に従事していましたが、1936年、首里市営バス安里停留所工事を設計・監督する機会を得ました。そして、当時首里市が国の補助と支援を受けていった「守礼門解体修理工事」が始まり、その工事主任を拝命し、工事監督・森政三と出会います。」

1945年9月16日(日)ー 戦争で多くの人が家を失いましたが、その住宅不足を解消しようと考案された仮設住宅が次々と建設されました。戦争ですべてを焼かれた住民たちは収容所に集められ、窮屈なテント生活を送っていました。そんな状況を解決しようと、沖縄諮詢会の松岡政保と仲座久雄は仮設住宅を考案しました。アメリカ産の材木を使った骨組みに、壁と屋根はテント張りか萱葺きで、床面積はおよそ6坪という一定なつくりのために「規格に沿った家」という意味で「規格家(きかくやー)」と呼ばれていました。簡素な作りではありましたが、大量生産が可能なため、1945年8月から3年間に7万5000棟が建てられ、戦後の住宅不足の解消に一役買いました。(→琉球朝日放送)

首里当蔵町時代
(首里博物館~琉球政府立博物館)
 新館は1952年2月に着工されました(設計・仲座久雄、施工・田光組)。コの字型の建物は、壁を煉瓦とし、赤瓦葺でしたが、当時資材の入手は困難で、設計者の仲座氏とともに博物館職員は煉瓦など資材の調達に奔走することになります。資材調達の遅れや資金不足などから建設は大幅におくれていきました。しかし、ペルリ記念館の併設を理由に、米国民政府が博物館建設を援助したため、1953年の5月に竣工することができました。5月26日ペルリ記念館・首里博物館落成式が行われ、このとき「おもろさうし」等が返還されました。(→沖縄県立博物館)

1960年3月8日ー大宜味村田港御嶽調査
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写真左より川平朝申、當山区長、林清国、荻堂盛進、仲座久雄、國吉眞哲、区民(新城徳祐撮影)

1962年7月1日『琉球新報』「愛蔵品拝見・護得久朝光さんーガンダーラの石彫」


1962年8月14日 郷土の文化を守る会(代表 名渡山愛順)宛 ハーリーS・ケネデイ司教・書簡

1962年8月25日『琉球新報』「愛蔵品拝見・仲座久雄さんー亀甲墓の設計図」

1962年8月26日『琉球新報』「愛蔵品拝見・川平朝申さんー平景樹の書」

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西平守助○だいぶ前だが那覇市史編集室で日付がない『沖縄日報』第1378号「素晴しいお正月 本社懸賞文入選者」を見た。西平守晴の兄守助、徳田安周の名前がある。守助さんの夫人は『琉球語讃美歌』譯編した新垣信一の次女百合子さん、信一の甥に仲座巌氏が居る。

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